小さな嘘
その街は、逃げる準備をしていた。
荷車が並び、家の前にはまとめられた荷物。声は低く、視線は忙しい。誰も「終わり」という言葉を口にしない。ただ、動きだけが早かった。
「珍しいな」
僕が言うと、刀が答えた。
「知ってしまった街だ」
「何を?」
「待っても、来ないということを」
市場の端で、若い兵士が立ち尽くしていた。剣は新品で、使われた形跡がない。逃げる人と、残る人の境目にいる顔だった。
「……すみません」
兵士が、僕に声をかけてきた。
「この街、初めてですか」
「通りがかり」
「なら、早く出た方がいい」
親切だった。
でも、決意はなかった。
「君は?」
「俺は……残ります」
「どうして」
兵士は、少しだけ笑った。
「逃げる人を、守る役目なので」
役目。
便利な言葉だ。
「本当は?」
思わず聞いてしまった。
兵士は黙り込んだ。
しばらくして、小さく言った。
「……怖いんです」
正直だった。
「逃げたら、ずっと逃げる気がして」
僕は、何も言えなかった。
その夜、宿で火事が起きた。
混乱の中、誰かが叫ぶ。
「子どもが取り残されてる!」
兵士が、反射的に走り出した。
考える前に、体が動いた顔だった。
「……行くぞ」
刀が言う。
「うん」
炎の中は、息が詰まった。
天井が落ちる音。泣き声。
「こっちだ!」
兵士の声が聞こえた。
倒れた梁の下に、子どもがいた。足が挟まれている。
「抜けない……!」
兵士は必死だった。
でも、力が足りない。
「下がって」
僕は言って、梁に手をかけた。
重かった。
でも、不思議と体が動いた。
「……なんで」
兵士が、呆然と僕を見た。
「旅してると、たまにある」
それは、嘘だった。
子どもを外に運び出すと、街の人たちが息をのんだ。
英雄を見る目じゃない。
困惑の目だった。
「君……名前は?」
兵士が、震える声で聞いた。
ここで、黙ることもできた。
今まで通り、通りすぎればよかった。
でも。
逃げる人を守ると決めた、この街で。
怖いと知りながら立ち止まった、この兵士の前で。
僕は、嘘をついた。
「……リオだ」
名前だけの、嘘。
それ以上、何も説明しない。
兵士は、深くうなずいた。
「ありがとうございます、リオさん」
その呼び方が、胸に残った。
街を出る時、夜が明けていた。
火は消え、逃げる人も、残る人も、それぞれの道を選んでいる。
「後悔してるか」
刀が聞いた。
「ううん」
「嘘をついたこと」
僕は、少し考えた。
「小さい嘘だよ」
「そうか」
刀は、それ以上何も言わなかった。
でも、声は少しだけ、柔らかかった。
僕は歩く。
名前を持って。
まだ、終わらせないために。




