知っている学者
その街は、地図に名前が載っていなかった。
正確には、載せるのをやめたらしい。
城壁は低く、門は半分壊れ、修繕された形跡がない。人はいるのに、街としての「未来」が省略されている感じがした。僕はこういう場所をよく覚えている。覚えている、というより、目が離れなくなる。
「寄るのか」
刀が、腰のあたりで低く言った。
「うん。たぶん、ここは知ってる」
「来たことがある?」
「ない。でも、こういう街は、だいたい同じ匂いがする」
焦げた紙と、湿った石と、諦めきれなかった人間の匂い。
通りを歩くと、人々は僕を一瞥して、すぐに目を逸らした。警戒ではなく、期待でもなく、判断を放棄した視線だ。声をかけられないのは楽でいい。
街の奥に、小さな建物があった。看板はなく、扉だけが新しい。僕はそこに引き寄せられるように足を止めた。
「……学者の家だな」
「分かるの?」
「知ってる空気だ。昔、こういうのと何人も話した」
刀の声は、少しだけ遠かった。
扉を叩くと、すぐに返事があった。
「開いている。壊さないでくれ」
中は思ったよりも広く、紙と本が床にまで積まれていた。中央に机があり、眼鏡の男がこちらを見上げた。年は分からない。若くも老いても見える顔だった。
「旅人か。武器を持っているな」
「持ってるけど、使わないよ」
「皆そう言う」
男は笑わなかった。ただ、観察する目だった。
嫌いじゃない。
「ここは何の研究を?」
「終わりの研究だ」
即答だった。
僕は一瞬、言葉に詰まった。
刀が、何も言わない。
「……終わり?」
「正確には、終わりを“知っている”人間の研究だ」
男は机の上の紙を一枚めくった。
「君は、知っているだろう」
胸の奥が、きしんだ。
「何を?」
「世界が、もう助からないということを」
言い切りだった。
疑問形じゃない。
僕は笑おうとして、やめた。こういう人の前で嘘をつくと、余計に疲れる。
「さあ。学者さんは想像力が豊かだね」
「否定はしないのか」
「否定すると、長くなる」
男は、少しだけ目を細めた。
「勇者はもういない。だが、世界は続いている。君はその矛盾を抱えたまま歩いている」
刀が、わずかに震えた。
「君は義務で旅をしているふりをしている。だが本当は――」
「そこまで」
僕は、静かに遮った。
「知らなくていいこともあるよ」
「知らないふりをしているだけだ」
学者は、そう言ってから、深く息を吐いた。
「安心しろ。私は答えを求めてはいない。ただ、確認したかっただけだ」
「何を?」
「世界の終わりを知っていても、人はまだ歩けるのか」
僕は、少し考えた。
「歩けるよ。だって、好きだから」
その言葉は、思ったよりも簡単に出てきた。
男は黙り込んだ。
やがて、何も書かれていない紙を引き裂いて、捨てた。
「……君は、観測者ではないな」
「最初からそのつもりはない」
「なら、記録する価値はない」
それは、学者なりの褒め言葉だった。
外に出ると、夕方になっていた。街は相変わらず、未来の話をしていない。
「……ああいうのは、苦手だ」
刀が言った。
「分かる。でも、必要だった」
「何がだ」
「僕が、まだ歩けるかどうか」
少し間があってから、低い声が返ってきた。
「歩けるさ。終わりを知っていてもな」
それは、慰めじゃなかった。
事実の確認だった。
僕はうなずいて、街を出た。
名前は、まだ必要なかった。




