名前のある国
村を出てから、道はしばらく緩やかだった。
舗装されてはいないけれど、人が通っている痕跡はある。荷車の跡と、靴底で踏み固められた土。ここを使う人たちは、行き先がある人たちだ。
世界が終わることを知らなくても、道は続く。
「次は国境だな」
刀が言った。
「国境、ってほど立派かな」
「名乗っている以上、国だ」
「名乗るのは自由だよ」
「続けるのは、そうでもない」
勇者の言い方は淡々としていた。
昔話をするみたいな声だ。
昼前、見張り台が見えた。
木造で、修繕を重ねた跡がある。崩れそうではない。かといって、新しくもない。
兵士は二人。
鎧は揃っていなかった。
「止まれ」
片方が言った。
「旅人だよ」
「目的は」
「通ること」
兵士は僕を見て、それから腰の刀を見た。
少しだけ、視線が硬くなる。
「……名前は」
一瞬、考えた。
考える必要はない。けれど、考える癖がある。
「僕、だよ」
「ふざけているのか」
「本当」
もう一人の兵士が、溜息をついた。
「通していい。害はなさそうだ」
「判断が早いね」
「遅い判断は、ここじゃ死ぬ」
それは正しい。
国は、小さかった。
城壁はあるが低く、街はコンパクトだ。全部が、守れる範囲に収まっている。
「長く続けるつもりはない国だな」
勇者が言った。
「どうして分かるの」
「余裕がない。だが、焦ってもいない」
「中途半端だ」
「現実的、とも言う」
市場は賑わっていた。
食べ物が多い。武器は少ない。娯楽は、さらに少ない。
人々は僕を見ても、気にしない。
旅人は珍しくないのだろう。
露店で、パンを買った。
少し硬い。でも、ちゃんと腹に溜まる。
「この国、何年くらい持つと思う?」
僕は歩きながら聞いた。
「世界の話か」
「うん」
「二年は無理だ」
「即答だね」
「準備をしていない」
「終わりの?」
「違う。続ける準備だ」
広場の中央に、掲示板があった。
告知が並んでいる。徴税、婚姻、行方不明者の捜索。
世界の終わりについては、何も書いていない。
「教えないのか」
勇者が言った。
「何を?」
「真実を」
「ここは国だよ」
「だからだ」
僕は掲示板から目を離した。
「国は、真実より秩序を優先する」
「……そうだな」
宿は一軒だけだった。
古いけれど、清潔だ。
「泊まる?」
「泊まる」
「一泊二食。安くはないよ」
「いいよ」
夜、部屋で窓を開ける。
外では、誰かが歌っている。上手じゃない。でも、楽しそうだ。
「この国は、好きか」
勇者が聞いた。
「嫌いじゃない」
「理由は」
「みんな、自分の役割を信じてる」
「信じている、か」
「疑い始めたら、国じゃなくなる」
少しの沈黙。
「お前は、信じていない」
「信じてるよ」
「何を」
「終わりが来るってことを」
勇者は、それ以上聞かなかった。
翌朝、国を出る前に、広場をもう一度見た。
掲示板は変わっていない。
でも、人は動いている。
今日も、明日がある前提で。
「名前を聞かなかったな」
勇者が言った。
「誰の?」
「この国の」
「名前、必要?」
「……ないかもしれないな」
国境を越える。
振り返らない。
覚えている。
硬いパンの味と、下手な歌。
それで十分だった。
世界は、残り三年と百十七日。




