最終章 - 第4話 『花々の興亡』初日
『花々の興亡』──初日。
チケットは全日程全席完売。普段の不田房であれば補助席などを出して当日券の販売を検討するところだったが、
「何も起きないと思うけど、何か起きちゃった時に補助席が邪魔になってお客さんを外に出せない……とかになったら俺が腹を切っても済まない事態になるので、当日券はナシでいきます」
と決断し、株式会社イナンナの社員を除く関係者全員が同意した。除く、というか、不田房も、それに宍戸もイナンナに『当日券なし』を報告しなかったのだと鹿野は後に知った。
SNS上ではチケットが高額転売されたり、詐欺なども発生しているらしい。稽古が始まったばかりの頃は、今回の舞台がここまで注目を浴びることになるとは思ってもいなかった。
「っていうか、スタッフでもなかったな……」
客入れ前の無人のロビー。火傷が未だ完治していない左手を庇いながら、鹿野素直は壁に貼られたポスターを見上げる。
野上葉月の写真が使用されたままの、『花々の興亡』のポスターだ。澄田ウグイスを入れたバージョンの写真を撮り直すという案も出たのだが、澄田が「それは結構」とあっさり断った。だから今も、野上葉月はここにいる。
明かされていないこと、幾つか。
株式会社イナンナの前社長、内海清蔵はたしかに年末に亡くなった。体調を崩して入退院を繰り返していたというのも事実らしい。入院先の病院で息を引き取ったのだ。事件性もない。ただ、檀野創子が内海真琴──清蔵の孫であり、株式会社イナンナの現社長から少しだけ情報を引き出していた。清蔵の死に顔には、朱色の化粧が施されていたのだという。誰がやったのかは分からない。ただ、口の端から耳の下にかけて真っ直ぐ──まるで口を引き裂いたかのように線が引かれていた。枕の下からは黄ばんだ紙切れが見つかった。古びたお札のような紙切れ。そこには何も書かれていなくて、いや、書かれてはいたが意味が分からなくて、ただひと文字『の』──と。
内海清蔵は、若き日に舞台俳優として活動していた。だが大成することはなく、彼は俳優ではなく実業家になった。芸能プロダクションを立ち上げ、劇場を作った。ふたつの野上神社を潰して、その跡地にビルと劇場を建てた。
株式会社イナンナが所持しているスタジオ──いちばん初めの稽古場の棚に灯油を撒いた犯人については特定されていない。だが、鹿野素直が置いた盛り塩を皿ごと踏み抜いていた者の正体は分かった。現在も入院中の元演出助手・大嶺舞だ。砕かれた皿をゴミ袋に回収した窪田広紀がシアター・ルチアに現れた刑事たちに「これもついでに調べてほしい」と袋ごと押し付け、見付かった足跡と、大嶺舞が愛用していた靴とが一致した。「あの皿捨てようと思ってて忘れてたんだけど、忘れてて逆に良かったんだかなんなんだか……」と窪田は複雑な顔をしていた。大嶺の意図は分からない。窪田がなぜ皿を捨てずにいたのかも──窪田自身が「分からない」と言っている。
シアター・ルチアの元舞台監督、鈴井世奈は病院から出ることができずにいる、らしい。彼は鏡を恐れ、刃物を恐れ、女を恐れ、白い病室を恐れる。一度だけ見舞いに行ったという宍戸クサリによると、「来るな、やめて、お願い、見ますから、見ないで、裂かないで、裂かないで」と喚き散らし大暴れをし、医者に鎮静剤を注射されていたという。見ますから、見ないで。彼は結局、何を見ていて、何を見たくなかったのか。最後まで分からないままだった。鈴井の社会復帰は難しいだろう、と宍戸は淡々と結んだ。
「鹿野〜。もうすぐ開場だよ〜い」
不田房栄治の気の抜けた声が飛んでくる。鹿野は小さく頷き、
「初日ですね」
「おう! なんか知らんが関係者席が全埋まりしてる!」
「誰の関係者なんでしょうねえ」
「知らん!」
不田房は元気だ。最初からずっと。
「鹿野!」
「はい」
「何か見えるか? 和水さんは『今回の公演が終わったら、二度とルチアには出演しない』って言ってたけど」
「……」
何か。何が見えるといえば角が立たないだろう。
檀野創子が機転を効かせたお陰で、今回の公演は『檀野創子のイナンナ卒業公演』ということになった。死んだ人間より生きている人間を優先するのが世の常だ。もう誰も内海清蔵の死について話題にしていない。そんなことより、犬猿の仲だったはずの和水芹香と檀野創子が同じ事務所に所属する(しかも檀野は長年ペアを組んでいたマネージャーも一緒に連れて行くと宣言した)とはいったい──という方向で世間様は盛り上がっている。
だから。
この劇場の奈落には、市岡神社の男が一旦は処置を施したもののやはりあの女の姿があって。劇場のそこかしこでは、野上葉月がこっちを見ていて。その上恨めしげな顔で内海清蔵──と思しき老人がロビーのソファに腰を下ろしていて。
この劇場──シアター・ルチアは、どう考えてもまともじゃない。
「宍戸さんが毎日お札貼り替えてるじゃん? 楽屋とか、奈落も、あと俺らにも新しいのくれるし」
ポスターを見上げる鹿野の隣に、不田房が立つ。
「毎日さ、帰る頃には全部文字が消えちゃうの、怖いよね」
市岡神社のお札、お守りだ。そう。不田房の言う通り。効果は一日しか持たない。お札に書かれた『市岡神社守護之攸』の文字は一日経つとかき消えてしまう。その上、白紙のお札をいつまでも持っていると書き換えられてしまうから、皆劇場を出る前に宍戸にお札を返却し、宍戸は毎日市岡神社の男のところに足を運んで真っ白になった紙を焼却処分してもらっているらしい。
「不田房さん」
「ん?」
「これ、奈落で拾ったやつ」
「……んん?」
大嶺舞を救出した際に拾って取ってあった野上神社のお札を、鹿野はそっと差し出した。黄ばんだ紙の上では、文字と文字が争いを繰り広げている。野上神社と市岡神社が、お互いを食い合っている。
「うわーお……」
「目の錯覚かと思ったんですけどね」
「ええ、これ怖いね。野上神社ってタフだなぁ。市岡神社もなかなかだけど」
「捨てるタイミングを逸してしまって」
「まあ」
と不田房がにんまり笑う。
「楽日になったら考える感じでいいんじゃない?」
「っすね」
そういうことになった。
──幕が、開く。
【おしまい】




