第五章 - 第6話 渋谷区、シアター・ルチア⑥
パトカーの台数が、妙に多いのが気になった。鈴井世奈ひとりの奇行が理由であれば、近所の交番から制服警官が駆け付けてきて事情を聞く──というような流れを鹿野は勝手に想像していた。
現れたのは、数名のスーツ姿の男性だった。刑事だ。
「刑事だ……」
鹿野の後ろに棒立ちになったままで不田房が呟く。
「不田房さん、変なこと言わないでくださいね」
「鹿野だってテンパって妙なこと口走っちゃ駄目だよ」
とはいえ、コンビを組んで10年、警察沙汰になるような事件に一度も遭遇せずにやって来れたわけではない。鹿野と不田房がどう祈ろうが願おうが、自分たちだけの手には負えないトラブルに巻き込まれたことは何度もある。今回の鈴井の奇行も、そのうちのひとつだ。ひとつだ、と思いたい。
「小燕と申します。この場の責任者の方とお話がしたいのですが」
「はい! 不田房です!」
「宍戸と申します。舞台監督補佐、ということで現場を任されています。何か、説明できることがあるといいのですが」
「俺はぁ……?」
しおしおと肩を下ろして戻ってくる不田房に「不田房さんは舞台演出の責任者であってルチア内の責任者ではないですからね」と鹿野はできるだけ優しい声をかけた。小燕と名乗った猛禽類を思わせる顔立ちの男性が警察手帳を宍戸に示す。宍戸は軽く頷き、「向こうで話しましょう」と小燕を楽屋側のベンチに誘った。
「なんか、手慣れてない?」
不田房が呟く。鹿野は首を傾げ、
「宍戸さんですか? まあ修羅場慣れはしてますよね」
「じゃなくて」
刑事の皆さんの方、と不田房は続けた。鈴井世奈は既にシアター・ルチア内にはいない。パトカーの中に連れて行かれた。小燕をはじめとする数名の警察官がロビーの中をうろついたり、パトカーの到着を不審がって現れた劇場の管理部の人間たちに何やら話を聞いたりしている。たしかに手慣れているかもしれない。シアター・ルチアには、これまでも警察がやって来たことがあるのだろうか?
しばらく、待機の時間があった。檀野創子は持参した台本を広げて黙読し、鬼優華はソファに仰向けになって寝息を立てていた。和水芹香は落ち着きなく何度もソファから立ったり座ったりを繰り返し「じっとしてなって」と檀野に注意されている。刑事たちによって、一旦は劇場内への立ち入りも禁止されてしまった。大道具班はすっかり手持ち無沙汰になって、その場でスマートフォンを使い、麻雀アプリで遊び始めた。そういえば檀野のスマートフォンの液晶画面が爆発したことを、鹿野は不意に思い出す。野上神社の写真が取り込まれていた。お札、それからおはぎの写真も。社長室で真琴を引っ叩いて──と檀野は言っていた。つまり、株式会社イナンナの現社長、内海真琴はなにかを、或いはすべてを知っているということだ。何を? シアター・ルチアと、野上神社の因縁を。
「おはぎ……」
声に出して、それから少し後悔する。不田房他、ロビーに居残っている面々の視線を感じる。軽はずみに口にすべきワードではなかった。
父が見せてくれた、タブレットの写真を思い出す。体のどこかが欠けている人々の写真。みんな笑顔。鈴井は「生贄」にされたと父、鹿野迷宮は言った。体の一部が欠けている人間たちについては「奉納された」と言っていた。「奉納された」人々は、全員株式会社イナンナの関係者であるとも、父は、言って。
「……よもつへぐい……?」
「どしたの? 鹿野」
ひとり言を飲み込んでいられなかった。応じるのはいつも通り、不田房だ。鹿野は俯いたままで自身のくちびるを触り、それから眼鏡をかけ直し、
「よもつへぐい、ってあるじゃないですか」
「何それ」
この回答がふざけ半分ではないところが不田房の恐ろしい部分だ。本気で「何それ」と思っている。
「元ネタは古事記ですかね。イザナギとイザナミっていう夫婦の神様がいて、でまあ色々あって女性の方のイザナミさんが死んじゃって」
「神様なのに……?」
「古事記ですからね。で、イザナギさんはイザナミさんを忘れられなくて黄泉の国まで迎えに行くんですけど、『もう死者の国の食べ物を食べてしまったから』戻ることはできないって断られて」
「神様なのに……!」
「そういうルールなんですよ! 死者の国で出された食べ物を食べたら復活は無理っていうルール!」
「ん〜。なんか他の神話でも聞いたことあるぞそれ。なんだっけ〜……、ペルセポネ? プネ?」
「ギリシャ神話ですね。冥府の王ハデスが女神ペルセポネに柘榴の実を食べさせて、結果彼女は一年の三分の一を冥界で、残りの期間を故郷で暮らすことになり、この三分の一の期間が冬に当たるという──」
「なるほどね、とにかく食べたらヤバいもの、ってことか。檀野さーん!」
刑事を目をまったく気にする様子もなく、不田房が踊るような足取りでソファに座る檀野と和水の元に近付いて行く。
「あのビルで〜、何か食ったり飲んだりしましたか?」
「……どのビル?」
眉根を寄せる檀野に、「最初の稽古場があった? スタジオ?」と和水が声を上げる。不田房は大きく首を縦に振り、
「いい感じの給湯室があったじゃないですか。でも誰も使ってなかった」
「そういえば」
膝の上に台本を置いた檀野が、長い指先で自身の顎を撫でる。
「私は使った記憶がないな。飲み物も軽食も自分で持ち込んでたから」
「ふむふむなるほど。和水さんは?」
「私も──っていうか私は例の、ビルの前で変なおばあさんに声をかけられてとにかく気分が悪かったから、あのビルの中のものにはひとつも手を付けてない。自販機とかも使ってないし」
「窪田さんと優華さんはいかがです?」
鬼優華からの返答はない。爆睡している。スタッフたちとともにスマホ麻雀に興じていた窪田広紀が顔を上げて、
「そういや、稽古が始まったばっかの頃に今いないあの子……演出助手の子? がコーヒー配ってくれたのは覚えてるよ」
「あ〜めっちゃ最初の頃ですね。俺ももらいましたねそういえば。でも飲まなかったなぁ。水筒あったし」
「うん。俺も自分で飲み物調達してたから、悪いなとは思ったけど手は付けなかったんだよね。それにあの子……大嶺舞さんか。コーヒー淹れるの下手みたいで、見るからに薄かったし」
鹿野ちゃんのコーヒーは最高だよ、とウィンクを寄越す窪田を無視して、鹿野は再び視線を落とす。あのビルの中では、少なくともキャストは誰も飲み食いをしていない。演出助手であった大嶺舞がわざわざコーヒーを準備したにも関わらず、だ。
よもつへぐい。
最初にその言葉を口にしたのは誰だった?
歌唱稽古スタジオであの女を目にした際の、鈴井世奈だ。
おはぎをすすめてくる女を見て「よもつへぐい」と鈴井は口走った。
「……あ」
考えが纏まらない。なんとなく手を突っ込んだ作業用ジャージのポケットに、宍戸に渡された市岡神社のお札が入っている。取り出してみると、文字はだいぶ薄くなっていた。
『_ _ _ _ 守護之攸』
まだ、守られている。そんな気持ちになる。




