第五章【笑う女。】 - 第1話 渋谷区、シアター・ルチア③
週明けから、仕込みが始まった。
仕込みとは空っぽの状態の舞台の上に装飾、装置を建て込むという──建築工事にも似た作業のことである。
現場を仕切るのはシアター・ルチア専属舞台監督の鈴井世奈。その補佐として宍戸クサリと演出家の不田房栄治。そこに不田房、宍戸とは旧知の仲である薄原カンジ──映像作品用の大道具制作、バラエティ番組の番組セットなどを手掛ける『ススキ大道具株式会社』の二代目若社長である──がスタッフを連れて駆け付け、仕込み初日はなかなかに良い形で始まった。出演者の中からも窪田広紀、鬼優華が作業着姿で駆け付け、
「俺さぁ、実は仕込みやってる時がいちばんイキイキしちゃうんだよね……俳優よりスタッフに向いてるのかも……」
「まあ実際窪田さんは仕込みに参加してる時の方がイケですよ」
「惚れた? 鹿野ちゃん」
「いや全然」
などと軽口を交わす鹿野素直も、当然シアター・ルチアに朝一で乗り込んだ。寝坊しがちな不田房は、宍戸が現場まで引きずってきた。
「そうか〜、惚れないか〜」
「しょうもないこと言ってないでほら! 窪田さん呼ばれてますよ!」
「おっと!」
作業用のツナギ姿の窪田が金槌片手に舞台上に駆け上がる。不田房が主宰するユニット・スモーカーズが普段行っている公演の規模であれば、鹿野も舞台上で大道具設置や装飾に手を貸すこともある。だが、シアター・ルチアほどの大きさの舞台ともなると、少し図面が読める程度の鹿野が参加すると邪魔になってしまう。鹿野と優華は、舞台衣裳を貸し出してくれる(株)底から受け取ってきた山のような衣類を楽屋に持ち込みハンガーに提げたり、アイロンをかけるといった細々とした作業を請け負っていた。
「おはようございます」
「おはよー」
正午を過ぎた頃、シアター・ルチアを訪ねてきた者がいた。
「え、和水さん!?」
「檀野さんも……なんでふたりで……」
関係者用の入口から堂々と入って来たのは和水芹香と檀野創子──この度の公演『花々の興亡』の主演俳優ペアであり、
「おいおい、大丈夫なのか」
汗でびしょ濡れになった顔をTシャツの裾で拭いながら、宍戸クサリが呻いた。大丈夫。和水芹香に向けられた言葉だ。鹿野も同じことを考えていた。和水芹香は、見えてしまうタイプの人間だ。そして現在のシアター・ルチアは、彼女を迎え入れるに相応しい空間とはいえない。
「仕込みお疲れ様ー。差し入れでーす」
気のない声で言う檀野の背後から女性マネージャー、更に和水のマネージャーである元家(追突事故に遭い入院、その後しばらく休職していたが、今はすっかり元気そうに見える)がそれぞれ大量の飲み物や甘味を大量に搬入する姿が見える。
「わー、美味しそ! ねえ休憩しよう休憩!」
「そうだな。時間も時間だし、一旦休憩ってことで……」
大喜びの不田房、加えて落ち着いた宍戸の指示で、各々の持ち場にいたスタッフたちが作業の手を止める。昼食用の弁当は宍戸が業者に手配しており、既にロビーに届いている。
「おふたりも昼飯食べます?」
不田房の問いに「じゃ、いただく」と和水は応じ、「私はもう食べて来たから甘いのだけもらうわ」と檀野が言った。広いロビーにそれぞれ自分の居場所を作り、昼食会が始まる。
「鹿野」
弁当の蓋を開ける耳元に、宍戸が囁いた。鹿野は小さく首を縦に振る。分かっている。
「結構出来上がってんね。まだ仕込み初日なのに」
「いやいや。これから細々調整していくので、完成形にはほど遠いですよ」
「初日に間に合う?」
「絶対間に合わせます。……と思い、ます」
不田房の言葉を聞いて薄く笑った檀野は煙草の箱を取り出し、「禁煙か」と呟いてレザージャケットのポケットに箱を戻す。そう、この会場は場内禁煙。楽屋でも煙草を吸ってはいけないという決まりだ。劇場の周りにも喫煙所はない。
どこにも煙を焚ける場所がない。
「えーでもなんやびっくりしたわぁ、檀野さんと和水さんが一緒に会場入りするなんて」
炊き込みご飯を頬張りながら鬼優華が言う。和水は何かを言いたげに口を開いたが結局曖昧に微笑んで終わり、「駅前で会っただけだよ」と檀野が応じた。
「駅から一緒に来たんですか? 仲良しやあ〜」
「だから違うって。この劇場駐車場ないでしょ、だから駅からタクシー乗ろうと思ってたら、和水が……」
「そんで一緒に来たんですか? やっぱり仲良しやん!」
「違うったら……」
ニコニコと無邪気な優華に呆れ顔を向けつつも、檀野からは敵意のようなものを感じない。稽古が始まった頃の態度が嘘のようだ。良い座組になった、と感じる。いちスタッフに過ぎない鹿野にも分かるほどに、良いチームになった。姿を消した野上葉月に代わって急遽キャスティングされた澄田ウグイスも現場の空気を良くしてくれたし、あとは──何事もなく幕が開き、そうして千秋楽まで駆け抜けることができれば最高なのだが。
性悪だと言われても構わない。演出助手鹿野素直にとっては、行方不明の野上や大嶺が中途半端に戻ってくるよりは、とにかく初日の幕を開けることが最優先事項なのだ。
早々に食事を終えた不田房が檀野と和水の差し入れである甘味と飲み物に手を伸ばしている。本当にマイペースな人だ。
「鹿野〜! 鹿野も食べる? シュークリームだよ!」
「まだお弁当食べてるんですが」
「でも美味しいからすぐなくなっちゃうよ! はいキープ!」
「も〜」
弁当の蓋の上にシュークリームがぽんと置かれる。本当に。どこまでもこの人は。
「……でさ、宍戸さんご依頼の件、どう?」
「……」
先刻宍戸本人に念押しをされたばかりだ。割り箸で卵焼きを切り分けながら、
「正直、ちょっと今日は厳しいかも……まさか和水さんが来ると思わなくて」
「だよね」
「優華さんには事情を説明してあるんですけど」
「んー。今日は諦めるか……?」
「じゃけど、先延ばしにした方が悪い影響が出そうな気ぃもしますし」
「そうねぇ……」
「ちょっと!」
ボソボソと言葉を交わす演出家・演出助手ペアの前に長身の影が落ちた。檀野創子が、腰に手を当てて仁王立ちになっていた。
「おわ、檀野さん」
「おわ、じゃなくて。何コソコソ内緒話してんの?」
「いやぁ〜……なんか、衣裳の話……?」
なんかとは何だ。不田房は本当に言い訳が下手だ。
「打ち合わせですよ。お気になさらず」
「この劇場に出るヤバい女の話、してるんでしょ」
檀野創子が、ロビー中に響き渡りそうな凛とした声で言った。
不田房は硬直し、鹿野の手からは割り箸が落ちた。弁当まで取り落とさなくて、良かった。




