第二章 - 第5話 都内、鹿野迷宮邸②
──霊道。
鹿野迷宮は、娘の素直が思っていた以上にその響きに興味を示した。
「今の稽古場が……霊道じゃって? 刺青のあんちゃんがそう言うたんか」
「刺青……お父さん、宍戸さんのタトゥーなんかいつ見たん? まあそれはええとして。宍戸さんが、というか、宍戸さんの知り合いの神社の人が、そう言うてたんじゃって」
すき焼き会の翌日だった。その日も、稽古は休みだった。急遽休みになったのだ。和水芹香の様子が心配だったが、個人的に連絡を取れるような関係ではない。すき焼き会がお開きになったタイミングで、宍戸邸には鬼優華の姉がやって来た。高校時代に柔道の日本大会で良い成績を出していたという、知る人ぞ知る有名人で、鬼一族は皆どことなく華やかだなぁと宍戸・不田房の代わりに応対した素直はぼんやりと思った。ホットワインと缶チューハイで酔っ払った妹の優華を背負った姉、鬼更紗は「妹は何かご迷惑をおかけしてませんか?」と丁寧に尋ね「全然大丈夫です。酔い方も綺麗で」と良く分からないフォローを口走った素直に柔らかく微笑んだ。「妹と、これからも仲良くしてやってください」と頭を下げた鬼更紗が妹を積んだ黄色い軽自動車に乗って去るのを、素直は手を振って見送った。それから部屋の中に戻り、宍戸邸内にある客間に引っ込んで眠った。宍戸クサリは一人暮らしのわりに部屋数の多い家に住んでいて、宅飲みの後など、鹿野は良く彼の家に泊めてもらう。迷宮も承知の上だ。不田房は同じフロアの自宅に戻ったようだった。
──翌朝。シャワーを借り、宍戸家の洗面所に置いてある化粧水や乳液などを使い、ショルダーバッグの中に放り込んであった携帯用の化粧道具で顔を作り──今すぐにでも出勤できるというタイミングで、不田房栄治が宍戸邸に飛び込んできた。
「今日、稽古無理だって!」
素直と宍戸は、呆気に取られて顔を見合わせた。
稽古無理、の四文字では何が起きているのかまったく分からない。不田房は株式会社イナンナの本社──灘波祥一朗を訪ねると言って出かけて行った。同行を申し出たが「鹿野は一旦家に帰って」と押し返されてしまった。珍しい。いつもなら「一緒に来てえ」と不田房が騒ぐ側なのに。
仕方なく、電車とバスを乗り継いで実家に戻った。父、迷宮はいなかった。留守番をしていたチョッパーだけが大喜びで素直を迎えた。
仕事を終えて帰宅する迷宮を待つあいだ、台本のチェックをしたり、昨晩、すき焼き会のあとに宍戸から聞いた『霊道』についてネットで検索するなどして過ごした。19時を少し過ぎた時間帯に帰宅した迷宮には「またおるんか」と呆れ顔をされた。
米を炊き、近所のスーパーで買った鰤を照り焼きにし、味噌汁を作り──父と娘は食卓に着いた。左手で箸を握る迷宮に、霊道の話をした。迷宮の黒縁眼鏡の奥の瞳が、僅かに光った。
「刺青のあんちゃんは、どがぁな人脈を持っちょるんじゃ」
「知らんよ。元弁護士じゃし、多少顔が広くても……」
「こん札は?」
「ああ、これ」
帰路に着く際、宍戸から茶封筒を受け取っていた。中には一枚のお札が入っていた。
「宍戸さんの知り合いの稲荷神社のお札、じゃって」
「N県の市岡神社」
「知っとんの?」
驚いた。それほどメジャーな神社なのか。右手で箸を握って目を瞬く素直に視線を向けた迷宮は、
「知名度は、低い」
「えっ」
「稲荷神社、か。まあ、嘘は言うとらんけど……」
お札を摘み上げ、迷宮が鼻の上に皺を寄せる。こういった、神社だとか、お稲荷さんだとか、そういうものに関しては素直よりも迷宮の方が圧倒的に詳しい。何せ教授だ。学生時代の素直は、父親が仕事にしているものに関わる授業をひとつも選ばなかった。
「けもの憑きで有名な神社よなぁ」
「けものつき?」
稲荷神社、という響きとはずいぶん趣が違う。些か物騒ですらある。
「そう、狐憑きの市岡……」
「狐憑き言うたら」
神ではなく妖怪ではなかろうか。訝しい顔をする娘に小さく笑みを見せた父は、
「とはいえ、この神社は本物よ。刺青のあんちゃんの繋がりもなかなかじゃなぁ」
「はあ……」
我が父ながら何を言いたいのか良く分からない。空になった皿や茶碗を流しに運ぶ素直を横目に、
「刺青のあんちゃんは、今の稽古場が霊道になっとる、ち、言うたんじゃな?」
「おん……」
そう。宍戸クサリはたしかにそう言った。
「──これが、十年ぐらい前の稽古場ビル周りの地図なんだけど」
こたつテーブルの上にタブレットを置いた宍戸が、不田房、鹿野両名に良く見えるように地図アプリをタップする。
「坂の上だね」
不田房が言い、宍戸が肯く。
「あのビルからわりと近いところに地下鉄の駅ができたお陰で坂っぽい印象がなくなってるけど、もともとここは結構な坂の上だった。俺が前職……弁護士やってた頃は、まだ」
「渋谷といえば坂の街ですしねえ」
ホットワインを片手に鹿野は呟き、宍戸は再び首を縦に振る。
「坂に加えて渋谷には、神社も多くてね」
それに関しては覚えがある。有名どころで言うならば、
「明治神宮、代々木八幡、あとは──宮益御嶽神社とか?」
「それどこ?」
小首を傾げる不田房に、
「渋谷のでけえ郵便局の近く」
宍戸が手短に説明する。不田房は、いまいちピンと来ていないらしい。
「言うたらあそこも──坂の上? 階段の上? ですよね?」
「鹿野良く知ってるな」
「神社仏閣付近は通りかかったらチェックはしますんで……父親の仕事も仕事だし……」
ああ、迷宮さん、と宍戸がまた薄っすら笑った。
「とにかく、宮益御嶽神社なんかが分かりやすいけれど、渋谷の街中、ビルとビルの隙間には意外と神社が点在してる。明治神宮みたいにでっかいのじゃなくて、本当に見落としてしまいそうな小さな神社が」
「宮益御嶽……には俺も今度行ってみよ。で、宍戸さんの話の先が少し見えた!」
不田房が元気な声を上げる。
「あのビルは、そういう小さな神社と何かの悪い縁があるビル! っていうことでしょ!」
「そ」
「えっ」
宍戸の短い肯定の声、それに鹿野の素っ頓狂な声が重なって、奇妙な沈黙が落ちた。
「──で、刺青のあんちゃんはなんて?」
「そのう……詳しいことはまだ調べてる最中じゃけど、スタジオが入っとるビルに何らかの障りがあるのは間違いないけえ、その、お札を……」
「狐憑き神社のお札を、な。キレとる神さんに話の通じんケモノをぶつけるようなもんじゃが」
と、迷宮はお札を素直に返し、
「財布にでも入れとき。ないよりはマシじゃ」
「は、話の通じんケモノ……? それって大丈夫なん?」
「素直。刺青のあんちゃんから、他には何も預かってとらんのか」
まるで千里眼だ。父親に隠し事をする気などまったくないが、こんな風にさくさくと見抜かれるとは思ってもみなかった。
「これ……」
と、ソファの上に放り出していたショルダーバッグの中から、素直は別の封筒を掴み出す。
「和水さんにも持たせた方がいいって……窪田さんには宍戸さんが自分で渡しに行くって言うとった」
「ふうん」
煙草を吸うためにベランダに通じるガラスの引き戸を開けながら、迷宮は言った。
「刺青のあんちゃん──宍戸さんか。なかなか意地が悪いの。市岡神社の守札を渡す相手を指定する……つまり、誰を見捨てるかはもう決まっとるっちゅうことじゃ」
素直も同じ気持ちではあった。市岡神社の守札にどれほどの効力があるのかは分からないが、宍戸は、株式会社イナンナ及びシアター・ルチアに所属する人間については頭数に入れていないようだった。ごくごく、自然に。




