第二章 - 第2話 渋谷区、稽古場⑥
その日、稽古自体は行われた。だが、和水芹香の動揺が激しかったのも事実で、演出家・不田房判断で和水は稽古を早退することになった。マネージャー・元家が搬送された病院は稽古場からそう遠くはなかったが、不田房は宍戸クサリに連絡を入れた。既に下北沢での仕事を終えていた宍戸は別の現場の打ち合わせのために都内におり、「和水芹香の運転手役を任せたい」という不田房に二つ返事で応じてクルマを出した。和水には、鹿野素直が付き添った。
──だからこの話は、鬼優華からの又聞きという形で耳にしたものだ。
「事故を起こすような人間をマネージャーとして使うなんて……まったく、程度の低い会社はこれだから」
和水と鹿野が退室した途端、灘波祥一朗はそう言って笑う。不田房栄治が眉を顰める。和水芹香は、もともとは劇団出身者だ。退団後──つまり現在は、トコハルプロダクションという会社に所属し、マネジメントを任せている。トコプロも、別に小さな会社というわけではない。株式会社イナンナと規模は同じぐらいだろう。
「和水さんのマネージャーが自分から事故を起こしたわけではなく、一方的に追突されたそうですよ。そういう言い方は、あまり好ましくないかと」
不田房が、冷えた声を上げた。ぎょろりと目を剥いた灘波は、
「意見する気かね?」
「事実を述べただけです」
不田房栄治がこんな風に牙を剥く姿を初めて見た。何度か一緒に仕事をしている優華ですら驚いているのだから、彼とはほぼ初対面のイナンナのメンバーはもっとびっくりしているのではないだろうか──
「降板も、有り得るんじゃないですか?」
口を開いたのは、これまでほとんど存在感のなかった野上葉月だった。イナンナ側、劇中のポジションで称するなら自警団側の席に腰を下ろした野上が、挙手した白い手をひらひらと揺らしながら続けた。
「だって和水さん、碌にお稽古にも参加してないですし。それにこの先、お歌も入ってくるんでしょう? 今回、歌劇なわけですから」
鬼優華は、野上葉月のことをよく知らない。株式会社イナンナに所属していて、おそらく歌がうたえるので、オーディションをパスして──エグゼクティブプロデューサー灘波祥一朗権限でキャスティングされた。そういう立場の俳優だと思っている。野上は、原案のタイタス・アンドロニカスではラヴィニアと呼ばれる女性の役──将軍タイタスの愛娘、今回の『花々の興亡』では檀野創子が演じる自警団の女性幹部の姪という役柄を与えられている。優華が演じるタイタスでの役名はディミトリアス/カイロン=和水芹香扮するアパッシュの女性リーダーの姪から復讐の一環として暴行を受け、舌を切り取られ、更に両手首まで奪われるという凄惨な役どころだ。台本の読み合わせの際に何度か台詞の応酬をしたが、野上が自身の役柄についてどういう解釈をしているのか、優華にはまるで分からない。優華自身は弟を自警団の人間たちに嬲り殺しにされたアパッシュの女性リーダー・和水に命じられるがままに自警団の女性幹部・檀野が愛する人間を手に掛ける残虐極まりなく、そして自分の頭で物事を考えない人間、と己の役柄を理解しているのだが、野上の演技にはどうやら優華の解釈は響いていない。演出を付けている不田房も、野上・鬼がふたりで稽古を始めると、途端に首を傾げ始める。身体的接触も少なからずある間柄なので、本来ならば個人的に打ち合わせなどもしたいところなのだが──打っても響かない相手とは、芝居をしたいとは思わない。和水がなかなか稽古場に来れないというのももちろん問題だが、それ以上に野上葉月──この俳優はいったい、何者なのだろう?
「いや降板って」
口を挟んだのは窪田だった。役作りのために髪を伸ばしているという彼は天然パーマの黒髪の先端を指で弄びながら、
「チケットの先行予約だってもう始まってるし……それに俺はあの役を、和水ちゃんは真面目にやろうとしてる、と思うけど」
窪田広紀。面倒な俳優だと思っていた。今も思っている。毎日飲みに誘われる。仕方がないので父親に連絡し、スマートフォン越しにではあるが「うちの娘に何か?」と言ってもらったこともある。以降、窪田から優華へのアプローチは控えめになった──はずだ。それはともかく、舞台に立つ俳優、という意味では窪田はプロだ。不田房栄治と同じぐらい、稽古場の全貌を良く眺めている。
「真面目にやろうとしてる、って気持ちだけじゃ舞台は成立しなくないですか?」
野上葉月は、薄っすらと微笑んで反論した。怖い顔だ、と思った。パイプ椅子から立ち上がった窪田も、眼鏡の奥の瞳を大きく見開いたままで硬直している。
──その怖い顔、稽古中にも見せればいいのに。
「そう思いませんか、灘波次長」
「葉月ちゃん、早いよ、言い出すの」
灘波祥一朗は次長だったのか、と優華はその瞬間知った。イナンナに所属していない出演者、それに不田房も同じ気持ちだっただろう。ここはスタジオ、稽古場だというのに、いつもかっちりとした背広にネクタイといった格好の灘波が、青いネクタイを弄りながら微笑んだ。
「ま、ボクも同じ気持ちだったがね。和水芹香、アレはもう無理でしょう」
「無理」
不田房栄治が、平たい声で繰り返す。灘波は鷹揚に頷いて、
「得体の知れないおばけが見えるとかいうのも、今回の大舞台のプレッシャーに耐え兼ねてのことじゃあないですかな。そんな肝っ玉の小さい女優に、助演を任せるわけには……」
「何言ってるの、灘波さん」
口を挟んだのは、不田房でも、窪田でも、もちろん優華でもなかった。
自警団側のテーブル前に長い脚を組んで座った、檀野創子だ。
眦を吊り上げて灘波を睨み据える檀野は、その怒りを少しも隠そうとはしなかった。
「あの子を……和水を降板させる? ああそう。だったら。私も降ります」




