序章 - 第1話 『花々の興亡』
その日は休暇で、鹿野素直は実家にいた。父親であり、大学で民俗学の教授をしている鹿野迷宮と、迷宮の愛犬であるラブラドールレトリーバーのチョッパーも家におり、全員がリビングに集った状態で、それぞれが好きなことをして過ごしていた。迷宮は点けっぱなしのテレビをBGMに自身のゼミのための資料をまとめており、チョッパーは陽当たりの良い窓辺で昼寝をしており、素直はテレビの前に置かれたソファベッドに横たわって買ったばかりのミステリ小説を読んでいた。
「あ?」
と声を上げたのは迷宮だった。
「素直、本読んどる場合じゃないど」
「なに?」
「テレビ、テレビじゃ」
「は?」
父親が何を言いたいのか、良く分からない。手元の文庫本の中では連続して五人の人間が殺され、かなりの修羅場を迎えていた。何を放送しているのかも分からないテレビ番組よりは、この先の展開の方がよほど気になる──。
『それでは、今回の公演の演出を担当される、不田房栄治さんからのご挨拶です!』
「……おお!?」
不田房栄治──耳に馴染みすぎた名前だった。その響きを耳にして初めて、素直は文庫本を閉じた。液晶テレビの画面の中には、珍しくスーツ姿の不田房栄治が立っていた。良く良く見ると大勢の人間が華やかな服装でカメラやマイクを向けられており、何かの制作会見のようなものを行っている。彼が関与しているということは──舞台だろうか?
『ええ、不田房栄治と申します。この度はこのような大役に抜擢していただき、大変光栄に思っており……ええ……』
「緊張しとるのぉ」
コーヒーカップを片手に、迷宮が楽しげな声を上げる。本当に緊張している。声が裏返っている。会見に参加するとなれば自分のための台本のひとつも作っただろうに(何せ不田房は職業演出家、戯曲作家でもあるのだ)、その内容が頭からすべて吹き飛んでしまったような顔をしている。
ソファの上にきちんと座り、素直は長い知り合いであり、仕事の先輩であり、相棒でもある男が喋る様ををまじまじと見詰めた。『株式会社イナンナ主催 花々の興亡 制作会見』とテロップが出ているのを確認する。
株式会社イナンナといえば国内でも屈指の芸能事務所だ。ソファの上に放り出していたスマホを拾い、公演タイトルで検索を行う。会場は渋谷にあるシアター・ルチア。株式会社イナンナに所属する芸能人が良く出演している劇場で、座席数はたしか600前後というところか。立ち見や補助席を入れればもう30から50は増やせるかもしれないが、万が一地震や火災が発生した場合の動線を考えると無理に観客を詰め込むのは危険だ。それにしても、シアター・ルチア。不田房が主宰している演劇ユニット・スモーカーズが普段公演を行っている劇場の倍以上のキャパがある。更に素直の記憶がたしかであればここ2年以内ぐらいのどこかのタイミングで改装工事を行っていて、座席の段差が大きくなり、最後列からでも舞台が見やすいと評判になっていた。何にせよ、人気の劇場だ。
そんな場所で行われる公演の演出家を任されたのか。不田房栄治は。
「素直、おまえ何も知らんかったんか」
「知らんよぉ。不田房さん意地悪じゃ。なあんも教えてくれん」
父親の問いかけに、娘はくちびるを尖らせて応じた。株式会社イナンナが主催で会場も決まっているとなれば、今回の公演に鹿野素直の出番はなさそうだ。不田房は招待券をくれるだろうか。いや、制作会見に参加している俳優の顔触れを確認するに、キャパ600の劇場には収まり切らないほどの観客が押し寄せるのは目に見えている。不田房の演出家権限に頼るのは申し訳ない。チケットの先行予約はいったいいつ始まるのだろう。自身の運を信じて、チケット争奪戦に挑むしかない。
文庫本にしおりを挟んだ頃には、制作会見は終了していた。出演俳優の意気込みや、株式会社イナンナの関係者の挨拶は素直がテレビに視線を向ける前に披露されていたらしい。
(──あの感じじゃと、稽古はもう始まっとるんかな?)
分からない。舞台『花々の興亡』の公式サイトを確認したところ、公演自体は年明け、一月に行われるのだという。今は十一月。舞台公演に費やす日程的に(あくまで鹿野が認識している日程、だが)稽古は既に開始していると想像できた。だが出演者一覧を見る限り、全員を毎日稽古場に集合させるのは不可能だろう。テレビや映画でもよく顔を見かける俳優を集めている。となると、台本を出演者とスタッフに配り、集合可能なメンバーで地道に稽古を重ね、公演が近くなったタイミングでリハーサルを繰り返して精度を高める。やり方としては、これしかない。しかし不田房はいったいいつこんな大仕事を引き受けたのだろう? 長い付き合いの自分に何の連絡もないなんて冷たいじゃないか、と素直は少しばかり寂しい気持ちになる。
不田房栄治は演出家だ。そして鹿野素直は彼の相棒──演出助手という仕事で飯を食っている。
ともあれ、十一月から一月までの三ヶ月──いや、約二ヶ月少々は不田房とペアを組んでの仕事はなくなる。無職である。知り合いの舞台関係者を当たって演出助手でも制作でも舞台監督助手でもなんでも構わないので、とにかく働き口を見付けなくてはならない。幸いにも転がり込める実家はあるが、いつまでも父親に甘えているわけにもいかない。
「なんじゃ素直。仕事じゃないんか」
「ん。二ヶ月ぐらい暇んなるし、どっかでバイトせないかん」
「あのいなげなあんちゃんとは、今回は──」
「イナンナが主催じゃけ、イナンナお抱えの演出助手がおるじゃろ。餅は餅屋。うちはあんな金のかかる現場で仕事したことないけえ、くっついてっても迷惑かけるだけじゃ」
「おれはそうは思わんけどなぁ……」
小首を傾げた父親が、無精髭の浮いた顎を骨張った指ですりすりと撫でている。とりあえず馴染みの舞台監督に連絡でもしてみるか、とスマートフォンの液晶画面を覗き込むと──
「うわわっ!!」
メッセージアプリのアイコンの右上に、未読メッセージの数が示されている。その数、50。
「な……なん……?」
メッセージの送り主はすべて、不田房栄治。
つい先ほどまで生中継で喋っていた、鹿野素直の相棒だった。




