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旅立ちの章 第2節

 転源(てんげん)。それは竜だけに許された、死と再誕の儀式。

 

 太古の昔、竜は世界の頂点に君臨していた。

 天敵もおらず、病に倒れることもない。途方もなく長命な竜にとって、”死”とは訪れるものではなく、迎えにゆくものだった。

 己の使命を終えた竜は、自らの意思で”フェーデ”に身を投げる。

 この暗い湖の底に身を沈めた者は、全ての記憶と名を捨て、魂が清められる。

 肉体は崩れ、無数の砂粒へと姿を変える。

 やがて清められた魂は、既に死を迎えた竜の魂達と溶け合い、新たな命へと転じる。

 転じた魂は再び肉体を得て、世界のどこかで産声を上げる。

 それが転源――始祖ヘルハイムが遺した、竜の在り方なのだ。

 

 故にここフェーデは、竜にとっての終着点であり、再出発の場所でもある。

 その水底で、ひとりの竜が在り続けていることを知るのは、今や世界で僕だけだった。

 

 エブラスカ。

 闇そのものであり、この砂漠の静寂を守り続ける彼。

 竜の姿よりはるかに小さな人の手を、僕はそっとエブラスカに伸ばす。エブラスカの一部が、優しく僕の指先を包んだ。

 エブラスカの体でもある闇は、質量こそあれど、体温の一切を感じることはできない。しかし不思議とその闇が傍らにあるだけで、胸の内に灯がともるようなぬくもりを感じていた。

 幼いころからずっと、誰よりも僕を大切にしてくれた彼。

 その彼を、僕は置いて行かなくてはならない。

 

――旅立ちの章 第2節――


「3日後の統一祭があるだろう?それに乗じて、ここを出ようと思うんだ」

 そう告げると、エブラスカの闇が微かに震えた。闇に浮かぶ瞳がひとつ、ふたつとこちらを向く。

「3日だって?そんなもの、瞬きしている間に過ぎ去ってしまうじゃないか」

 冗談めかした声だったが、その奥には深い寂しさが滲んでいた。

 僕は何も言えず、手元を見つめるしかなかった。「困らせてすまないね」とエブラスカがそっと触れる。


 本来、慰める側であるはずの僕が、慰められている。そんな気がしてならなかった。

 僕の手から闇が離れていくと、無性に胸が締め付けられるような寂しさを覚えた。

 だが、もう一度その闇に手を伸ばすことは、僕にはできなかった。

 

「祭りの喧騒に紛れれば、僕ひとり抜け出しても気づかれない。みんな、統一祭を楽しんでいるはずだから」

「ふむ。他の準備はどうだい」

「抜かりないよ。金に鉱石、干し林檎もたっぷり。革袋がはちきれそうだよ、ほら」

 腰に下げた革袋の中身を見せると、闇が小さく上下に揺れ動き、エブラスカの満足げな気配が伝わってくる。

「小粒だが、十分だろう。くれぐれも金と鉱石を無暗に見せびらかしてはいけないよ」

「もちろんわかってるよ、皆金と鉱石が好きだからでしょう」

 そう答えながらも、僕の内には小さな疑問が残る。なぜ人間は、そこまで金や鉱石を好み、欲しがるのか。闘竜達と違って、鉱石を食するわけでもない。

 この国の鉱脈を少し掘れば、いくらでも手に入るのに。

 

「もうひとつ。上手に転変できたからといって、その姿は他の竜に見せないようにおしよ。八つ裂きにされたくなければね」

「わかってるよ。だからここでしか練習できないんだもの」

 僕たち竜にとって、“人間”は忌避の対象だった。幾度となく竜の命を奪い、国境を荒らし、牙を向けた存在。短命で、浅ましく、愚かな彼等。そんな彼等に姿を似せることは、明確な裏切り行為と捉えられるだろう。

 

 「まずは南のデーンハイムの関所を抜けるつもりなんだ。闘竜達が守っているけど、彼等なら何とかごまかせると思うし。隔絶の森まで辿り着ければ、すぐ国境だ。あ、でもその前に。ひとつやろうと思ってることがあるんだ」

「ほう?」

「じじ様に、メノ・エレイアを見せてもらうんだ」

 闇に浮かぶ無数の目が、揺れた。

「ゴーシュに、か」

「メノ・エレイアは”心の底から求めるもの”を映す。きっと、シスカの居場所もわかるはずなんだ」

「メノ・エレイアを見せてもらえなかったら、どうするつもりだい?あるいは……何も、映らなかったら?」

「きっと大丈夫だよ。じじ様は僕に甘いしね。それにメノ・エレイアはいかなるものも映す、魔竜族の秘宝なんだよ。映さないことなんか、あり得ない」

 言葉の裏にある不安は、自分自身がよくわかっていた。じじ様が僕に甘くとも、周りの竜はそうもいかない。メノ・エレイアがもし、何も映さなかったとしたら。

 それが意味することを考えるだけで、僕はもう耐えきれない。

 僕の気持ちを知ってか知らずか、エブラスカはそれ以上の追及はしなかった。


 ふと、エブラスカの瞳が僕の隣に置かれた卵へ向いた。

 仄かに発光するその殻は、周囲の闇に埋もれることなく、確かな存在としてそこにあった。

「それで……その卵は、どうするんだ?」

 問われた瞬間、僕の喉の奥がかすかに鳴った。この存在こそが、僕の気持ちに重くのしかかっていたからだ。

「……連れて行くよ」

「人の身で、そんな大きさの卵を抱えて旅をするつもりかい」

「無茶なのは承知の上だよ。でも、おいていくわけにはいかないだろ」

「誰かに託せはしないのかい」

「君になら託せるさ。けど、無理だって言ったのはエブラスカ自身じゃないか」

 「……ああ。私には、この子を迎える資格を持たない」

「意味がわからないよ……」

「いずれ、わかる日がくるだろう」

 静かに、エブラスカは告げる。自分自身に言い聞かせるようにも聞こえた、その言葉の続きは、エブラスカの口から紡がれることはなかった。

 「この子を守ってあげられるのは、もう僕しかいないんだよ!」

 僕は思わず声を荒げる。決して怒りからではない。

 この先に待ち受ける未知の恐怖。そして、シスカが身を挺して守ったこの卵を、重荷に感じてしまう自らへの嫌悪。それらが僕の内で、止めようもない嵐となって吹荒れていた。

 僕の混乱とは裏腹に、エブラスカは常と変わらず静かな口調のままで、僕に応える。

「ルドヴィゴという闘竜がいたろう?お前達は親しかったはずではなかったかい」

 その名前が出た瞬間、心に小さな棘が刺さった。

「あんな奴に任せられない。それに、友達なんかじゃない!」

「まだ喧嘩中かい」

「向こうが勝手に僕を嫌ってるだけだよ。僕等が旅立った”あの日”から、一言も喋ってない」

「……そうか」

 再び、エブラスカと僕との間に沈黙が流れる。エブラスカの指摘は最もだ。今の僕が、卵を守りながらシスカを探し出せるなど、到底思えない。

 それでも、その道しかないのだ。

 

 深藍色の瞳が、変わらず僕を見つめている。叱るでも、嘆くでもなく。

 その瞳を見つめ返しているうちに、荒れ狂っていた心が少しずつ凪いでいく。

「ごめん。エブラスカと喧嘩したいわけじゃないんだ」

「ああ、わかっているとも」

 エブラスカの闇が、安堵に揺らいだように見えた。

 しかし冷えた頭で考えたところで、良い案も見つかりはしなかった。考えれば考えるほど、纏う服の息苦しさが際立ってきた。嫌になった僕は服を脱ぎ捨て、元の竜の姿に戻ってその場に寝転んだ。

 音もたてず闇が頭上に移動してきて、僕を覗き込む。

 

「エレアス。手……いや。脚をだしてごらん」

 言われるがままに前脚を出すと、エブラスカの体から闇が一筋離れ、僕の脚首にくるりと巻き付いた。

 瞬く間に、深藍色の石が5つ嵌めこまれた闇色の腕輪となる。

 僕をずっと見守っていてくれた眼と、同じ色の石だ。

「もっていきなさい。私の鱗をその黒水晶に定着させた。私の力……私の、記憶」

 思わず飛び起きた僕は、その腕輪をゆっくりと足先でなぞる。

 冷たい感触が肌越しに伝わってくる。その一方で、何かが零れ落ちそうなくらいに、胸の内が熱くなった。

「ありがとう。……大切にするね」

「お前の役に立つことを祈っているよ」

「実は僕も、君に贈りたいものがあるんだ」

 自らの胸元の鱗を一枚、ゆっくりとはぎ取った。 剥ぎ取った箇所から流れ出した血を、爪ですくい取る。

 剥いだ鱗の表面に爪を滑らせ、竜言語(ヴィーフロア)を一語、刻む。


「ねえエブラスカ。君は知らないかもしれないけど、君の体ってあたたかいんだよ」

「嘘はおやめ。お前だけはよく知っているだろう、この冷たい闇を。お前をあたためてやることもできやしない」

 新たな名を与えられた鱗は朧気な光を放ち、ふわりと宙に浮いた。光は意思を宿したかのように、ふわふわと自ら飛び始める。

 <ミフォス>――淡い光。

 いつか地上の川辺でシスカと一緒に見た”蛍”の光と、それは似ていた。

 小さく、頼りない光。ほんのわずかに、エブラスカの闇を照らしていた。

 暗く沈んでいたその輪郭が、かすかに立ち現れる――ひときわ大きく、美しく。それでいて、少し寂しげな竜の姿。

「嘘なんかじゃないよ。生まれた時から、僕をずっと支え、導いてくれた。この暗い闇が、僕にとって灯だった。だから今度は君のために、この灯を残していくよ。君が君自身を見失わないように。このぬくもりを、君に。」

 

 抱きしめるように、僕の体を闇が覆う。

 いつか、幼い僕が泣きながら眠った夜――その頭を包み込んでくれた、あの懐かしい闇だった。

「愛しいエレアス、私に私を教えてくれた子。どうか、私を忘れないでおくれ」

「何があっても、忘れないよ」

 「今度の旅路は、前以上に辛く厳しいものとなるだろう。それでも、挫けず進みなさい。きっと、やり遂げなさい。……約束だよ」

 これほどまでに、僕を大切に思ってくれる存在を置いて行ってしまう。そのふがいなさが――心底情けなかった。まだ受けた恩の半分さえ返しきれていないのに、僕は故郷だけでなく、恩師にも背を向けようとしている。

 それと同時に、この闇の揺りかごの心地良さにいつまでも身を任せていたかった。

 ここで過ごす時間が長くなるほど、名残惜しさが募るのを感じていた。

 それを察したのか、エブラスカはもう一度だけ僕を力強く包み込んだ後、静かに闇の中へ溶けた。

 闇の中に浮かぶ深藍色の目の全てが閉じられ、砂漠の光も呼応するように光ることをやめてしまった。

 空から木漏れ日のように差していた光も、いつの間にか陰ってしまっている。きっと、地上に夜の帳が下りているのだ。


 光は消え、闇もまた静けさに溶けていった。

 星のように暗闇の中で瞬く淡い光(ミフォス)を残して。

 

 僕は卵を抱えあげて、両の翼を広げた。

 抱えた卵は、温かかった。微かな鼓動が、僕の鱗に伝わってくる。

 エブラスカの気配は、深い沈黙の中にあった。

 声はない。姿さえも見えない。

 けれど、そこに“いる”という感覚だけが、最後まで僕の背を押していた。

 「いってきます」

 独り言のように呟いた声は、静謐に包まれた砂漠に吸い込まれていく。

 返事はなかった。けれど、それでよかった。

 

 少しの助走。風も音もないこの世界で、身体がふわりと浮かび上がる。

 一直線に上を目指した。ただひたすらに、上へ。

 決して、振り返らなかった。

 振り返れば、決意が揺らいでしまう気がしたから。

 

 水底の空を抜けきると、見慣れた地上が、再び僕の前に姿を現した。

 真っ暗な夜空に、淡い星の光が瞬いている。

 似ているようで、似ても似つかない空。

 雨上がりの風が、僕の頬をかすめていく。

 常ならば何でもないその風は、身を切る程の冷たい風に感じられた。

 

 上がったはずの雨のあと、僕の頬に残っていた雫が、そっと零れ落ちる。


 フェーデの上空をくるりと旋回し、僕はニヴルハイムの頂きへ向けて飛び立った。


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