旅立ちの章 第1節
『遠く広き空が我等にとって苦痛の檻になった時、それは地に降りるべき時がきた合図だ』
偉大なる翼、我等が大いなる始祖。ヘルハイム・ユングヒュルデはそうおっしゃったという。
幼馴染にその一節を聞かされた時、鼻で笑い飛ばしてやったものだった。
あたしが竜として生まれ落ち、空を飛ぶことを許された瞬間から、飛ぶことがたまらなく好きだった。二対の翼をはためかせ、風が肌を撫で、空に包まれる時、この世界が愛おしく思った。この空が苦痛となる日など、永遠に訪れない。そう信じきっていた。
だが今なら痛いほど、その言葉が理解出来た。
今やこの身は、憎しみと苦痛に満ち満ちていた。
赤い鱗を突き破り、鉄製の大きな矢が深々と突き刺さっている。
この矢を放ったあの連中。二本足で大地を踏みしめ、この地を汚す奴らが憎い。同胞を道具に貶めている、奴らが憎い。あの連中の血で、あたしの鱗を真紅に染め上げてやりたい。
苛烈な憎しみがこの身を焦がす一方で、胸の内に浮かぶのは我が友の姿だった。
彼は故郷に帰れただろうか。彼に託した小さな命も、無事だろうか。
傷口からどくどくと血が滴り落ち、矢の先に塗られた毒が、思考と肉体がひきちぎられるような痛みを全身にもたらしている。今や前後左右・上下の判別もつかず、自分がどこに向かっているのかもわからなかった。それでもひたすらに、暗い夜の海で、あたしは夢中で翼を動かしていた。
大丈夫だ、帰るべき場所はちゃんと覚えている。我が友の姿を、あたしはよく覚えている。あたしと彼は、同じ目で同じ世界を見てきた。彼にもらった翼で、彼と共に世界を旅したのだから。
きっと、また会える。そう信じて、二対の翼に再び力を込める。ボロボロと剥がれ落ちていく鱗もお構いなしに、ただ進む。
「エレアス、あたしは絶対帰る。お前のもとに」
その時、あたしは気づいていなかった。屠ったはずの連中がまだ生き残っていて、ふらつくあたしに向けて、二の矢が継がれようとしていることを。
ふらふらと飛ぶあたしに向けて、無情にもバリスタの矢が飛び掛かろうとしていた。
――旅の章 第1節――
ああ、またあの夢だ。
自分が悪夢にうなされていたことに気づいたのは、「エレアス!聞いておりますか!」と雷のような怒鳴り声に、全身の鱗を逆立てて飛び起きたのとほぼ同時だった。
まだふわつく頭で周囲を見渡すと、うす暗い洞窟の岩肌に座する竜達が、呆れ果てた顔つきで僕を見つめていた。侮蔑と苛立ちの目から逃げるように視線を反らした先に、恐ろしい形相で僕をねめつけて居る薄氷のような薄水色の鱗を持つ竜、ヴィヴィアンがいた。雷の怒鳴り声を放った張本人だ。
「今は長老ゴーシュ様による経典の朗読の時間ですよ。居眠りはこれで何度目だと思っているのです。謝りなさい」
「ごめんなさい、じじ様」
洞窟の奥には、楕円型に掘られた空洞に、水の膜が貼られた”水鏡”がある。それはヴィヴィアンによる魔導によって作り出された代物だ。その鏡の向こうには、四重にも螺旋を描く一対の巻角を持つ、全身が苔むした体躯の長老ゴーシュの姿が映っていた。ゴーシュは白濁に濁った眼で、こちらを見つめていた。
「かまわぬよ、エレアス。老いぼれの語りは退屈であろうが、大事なお話じゃ。しばし耳を傾けておくれ」
「……じじ様はいつもあいつに甘いな」
周囲の呟きがぼそぼそと聞こえてくるが、声の主に視線を向けるのをぐっと堪えて、水鏡の向こう側のゴーシュに向けてこくりと頷いた。
「では、もう一度初めから」
再びゴーシュは、滔々と語り始める。しかもご丁寧に、僕が眠っていて聞き逃していた所から再び話し直してくれるようだった。
「北のウトガルハイム山脈、我が国土の中央に座する霊峰ニヴルハイム。その麓には、栄光の金林檎が生い茂る森。東のムスペルハイム火山。ニヴルハイムより南へ流れるナーシグ川。西のサザスハイム湿原。南の丘陵デーンハイム。全ての自然を我等は愛し、我等もまた愛されている。
我が国の名はヘルハイム。我等が始祖の名を冠した、太古より生きる竜達の聖地の名である。
我等が始祖たるヘルハイム・ユングヒュルデという竜は、四対の翼に何物をも噛み砕く牙と、何者をも切り裂く爪。その鱗はいかなるものも傷をつけることかなわず、その内に宿る魔力は、世界の摂理を変えてしまうほどであったと言われている。その竜の目はどんな色にも染まらなかったが、この世に存在するあらゆる色を湛えていたとされている。
永続の命を宿していた始祖は、ある日”死”をその身に迎え入れることを決め、冥湖にその身を投げた。冥湖の底で、死は瞬く間に始祖の体を蝕み、生の証を根こそぎ奪い去ろうとした。
しかし、始祖の体は完全に朽ちることなく、その骸からまた新たな命が生まれた。
空を駆ける飛竜族。摂理を知る魔竜族。闘いの化身たる闘竜族。
最後に異形の姿を持ち、変異を内包する異竜族が生まれ、再び世界と挨拶を交わした……」
滔々とゴーシュが語るだけの、この経典の時間が僕はたまらなく嫌いだった。
魔竜はその身に宿す魔力と、竜言語を駆使した魔導を得意とする種族だ。故に、竜言語で記された経典の理解は必須だ。経典は一言一句、空で口ずさめるほどに暗記すべし、とされているために、このただ読み聞かされるだけの退屈な時間が用意されている。いくら大事だからって、第1章の話を毎回繰り返さなくたっていいのに。
そんな僕の気持ちとは関係なく、ゴーシュの話はまだ続く。すぐ傍で居眠りをしないようにヴィヴィアンが僕を監視している。そう睨まずとも、眠ればあの夢を見てしまうのを分かっていて、眠るわけないのに。
静かな言葉で以って導く啓典と対照的に、太陽のように煌々と照らし導いてくれた、柘榴色の鱗を持つ竜、シスカ。僕の親友、片割れともいうべき存在。
僕とシスカは、魔竜と飛竜族が一人前と認められるための”成竜の儀”の一環である、世界を巡る旅にでた。その旅の帰路で、海の彼方からやってきた”怪魚の家臣”どもによって襲われた。僕と、僕と彼女が見つけた新たな命の結晶。それらのために、彼女は囮となって奴らと相対した。
僕は無我夢中で故郷に戻り、彼女の帰還を待った。
幾度も陽が昇り、沈んだ。奴らに襲われた際に受けた傷もすっかり癒えても尚、彼女は戻らなかった。
彼女と分かたれた日から、眠る度にあの日の夢を繰り返し見続けている。
『エレアス、あたしは絶対帰る。お前のもとに』
僕はこんな無駄な時間を過ごしている暇はない。僕が今やらなくてはいけないことは、たったひとつだ。
もうどうにも我慢がならなかった。僕は四つ足を立て、洞窟の出口にまっすぐに向かった。
「お待ちなさいエレアス、一体どこへいくのです!」
「ヴィヴィアン。ごめん、僕なんだか具合が悪いみたい。先に帰っちゃうね」
「経典の時間を抜け出すなんて、それでも魔竜族ですか!許しませんよ! 」
ヴィヴィアンの制止を振り切って、僕はそそくさと洞窟から飛び出した。翼を大きく広げ、大空に向けて飛び上がる。
僕の背後にそびえ立つ、霊峰ニヴルハイム。山が多いこの国でも一段と背丈の高いニヴルハイムの頂上には、ゴーシュ翁が住む魔竜族の庵が構えられている。魔竜達の中でも、特に魔力の強い者達が治める場所だ。
竜でさえも霊峰の頂きにたどり着くのは、そう簡単なことではない。故に、水鏡を通して、ニヴルハイムの麓の洞窟で啓典の学びを深める集いが開かれるのだ。特に若い世代の竜は、その集いへの参加は必須である。
「どうせみんな聞いてないよ、あんな話」
ぼそりと文句を垂れると、先ほどまで晴れ渡っていた空が突如曇りはじめ、あっという間に雷鳴が轟く天気に様変わりしてしまった。魔竜が収まりきらぬ怒りを覚える時、雷を呼んでしまうことはよくある事象だ。
「うわ、もしかして今のも聞こえてたのかな。絶対ヴィヴィアンだろうな……あんなに怒らなくたっていいじゃないか」
雷に撃ち抜かれないように気を付けながら、僕は西に向けて翼を向けた。
飛び駆けた先の、サザスハイム湿原の外れ。そこにポツンと立つ朽ちかけた巨大な老木に辿りつく。老木の洞にゆっくりと着地して、翼を折りたたんで中に入る。色とりどりの花が咲き、洞の中を彩っていた。どれもが僕が丹精込めて育てた花々だ。僕の帰還を喜ぶように、花々がざわざわとその花弁を揺らしている。
「ただいま。でもすぐに行くんだ。悪いけど、また留守番を頼むね」
洞の中の木の皮をおもむろにはがすと、小さな袋の包みと、乳白色の固い殻に包まれた大人の熊ほどある大きさの”卵”があった。
洞の外は、ついに雨まで降りだしたようだ。包みと卵を濡らさないよう大切に抱え、僕は再び翼を羽ばたかせた。
今度の目的地は、南にある。霊峰ニヴルハイムから続く川の流れを受ける”フェーデ”と呼ばれる湖だ。
ややもすると、深緑の森に囲まれた湖が見えてきた。深い青とも緑ともつかない、暗い色の淀んだ湖に、僕は一切の躊躇なく、翼をたたんで勢いよく急降下する。
水柱をあげて、僕は流れ星のように湖に飛び込んだ。
底へ、底へ。ただひたすらに、暗い水の中を潜り続ける。もう息も限界に近づいた時、突然視界がぱっと開かれた。
地上の光が木漏れ日のように照らすそこは、一切の音がない静寂の砂漠だ。
湖の暗い水は今や空の役割をなして、僕の頭上でこの砂漠を見下ろしている。
抱えた卵に傷がついていないか確認した後、僕はさくさくと音を立てながら砂漠を進む。
青や赤、緑や橙、ありとあらゆる色の砂が、砂の大地を形作っていた。仄かに光る砂達を灯りに、どこまでも砂ばかりの薄暗い世界を歩いていく。
「エブラスカ、どこ?」
くわえた葉の包みをおろし、姿の見えない相手を呼ぶと、突如僕を包み込むように、ぬるりと闇が空から零れ落ちてきた。瞼を閉じる度にやってくる黒と同じ色のこの闇は、僕をいつも安心させてくれた。
「ここにいるよ、エレアス。そんな不安そうな声をあげるのはおやめ」
闇の中に浮かぶ深藍色の両の瞳を瞬かせたかと思うと、闇は徐々に輪郭をなして口元だけを形作った。
「なんでいつも隠れてるのさ」
「そう怒らないで。にしても、今日は随分早いね。今はあの経典とやらの朗読時間じゃないのかい」
「さぼっちゃった。退屈なんだもの」
「おや、悪い子だね」
「それより!今日も練習にきたんだ、みてくれる?やっとコツを掴んだかもしれないんだ」
「熱心なことだね、いいとも。ああ、その前にその小さな未来は預かっておこう」
闇が質量をもって僕の抱える卵を包み込んだ。それを見届けた後、僕は深く呼吸をする。
忘却する。竜たる僕を。
夢想する。人たる僕を。
僕を僕たらしめる欠片を噛み砕き、飲み込んで全く違う破片へとつくりかえていく。
追いやられそうな意識に、必死に脚を伸ばす。伸ばした鱗の生えた脚は、5つに分かれたか弱い指へと変わり始める。げほげほとむせこむ僕の声は、もはや竜のそれとは異なっていた。
普段の10分の1程に小さくなった僕の体は、旅の途中で見た人間そのものだった。
少しはね気味の青緑の色をした短めの髪に、竜の時と変わらぬ紫電の色を持つ瞳。鱗がなくむき出しになった生白い肌。僕が今まで行った”転変”の術の中で、一番上手く出来た自信があった。
エブラスカも僕の姿を見て驚いたようにほう、と感嘆の溜息を吐き出した。
「随分上手になったものだね。だが、まだ足りないよエレアス。人はそんな恰好で歩かないものだよ」
「服、でしょ?知ってるよ。着方も教わったんだ」
足元に置いた葉の包みを開けて、教わった通りに服を着てみせる。留め具の多さに四苦八苦しながらも、なんとかそれなりの見栄えになったようだ。両腕を広げるとモモンガのような格好になるこの服は、麻で織られたものであるらしい。革紐が何重にも交差する足に纏うものは、サンダルと呼ばれる代物だ。
人間達はこんな息苦しいものを毎日着ているのかと思うと気が遠くなるが、これにも徐々に慣れていかなければならない。
「用意がいいね、エレアス。ただの人のように見えるよ」
エブラスカの褒め言葉に沸き立った。その言葉は、つまり準備が整ったということを示していたからだ。
「とうとうやってきたのだね。お前は、もうすぐ行ってしまうんだね」
寂しげな声色のエブラスカに、僕はこくりと頷いて見せる。
「うん。シスカを、迎えに行くんだ」