ラウンド3:食は『文化』か?それとも『生存』の手段か?(前半)
あすか:「ラウンド1では美食の定義、ラウンド2では食の本質について、皆様の熱い哲学がぶつかり合いました。その中で、ボーローグ様が提起された『生存のための食』という視点は、私たちに食の根源的な意味を問いかけました。」
あすか:「続くラウンド3では、この点をさらに掘り下げたいと思います。テーマは『食は「文化」か?それとも「生存」の手段か?』。食が私たちの生命維持に不可欠なのは言うまでもありません。しかし、同時に、食は各地域の歴史や風土と深く結びつき、多様な『文化』を形作ってきました。」
あすか:「この二つの側面、皆様はどのように捉えていらっしゃるでしょうか?まずは、飢餓との戦いの最前線におられたボーローグ様。あなたにとって、食はやはり、まず第一に『生存』の手段なのでしょうか?」
ボーローグ:(力強く頷き、厳しい表情で)「そうだ。議論の出発点は、常にそこにあるべきだと私は考える。」
ボーローグ:「私が若い頃、メキシコの貧しい農村で見た光景は忘れられない。人々は痩せ衰え、子供たちは栄養失調で次々と命を落としていた。彼らに必要なのは、美しい食器でも、洗練された調理法でも、高尚な食卓の会話でもなかった。ただ、生きるための、明日のための『食料』だったのだ!」
ボーローグ:(拳を握りしめ)「我々が開発した高収量の小麦が、彼らの畑で黄金色の穂を実らせた時、人々の顔に浮かんだ安堵と喜びの表情…あれこそが、私にとっての食の原風景だ。まず、腹を満たすこと。生存の恐怖から解放されること。それがなければ、文化も芸術も、平和な社会も成り立たない。『平和は空腹の胃袋では築けない』…私の信念だ。」
ボーローグ:「もちろん、腹が満たされれば、人々はより美味しいもの、楽しい食事を求めるようになるだろう。それは自然なことだ。だが、忘れてはならない。その『文化』や『楽しみ』は、安定した食料供給という、しっかりとした土台の上に乗っているということを。」
あすか:「まず、生存の土台があってこそ…。ボーローグ様、ありがとうございます。その力強いお言葉、胸に響きます。…では、サヴァラン様。ボーローグ様のおっしゃる『土台』の上に花開く『文化』としての食。その価値や重要性について、どのようにお考えですか?」
サヴァラン:(ボーローグの言葉を静かに受け止め、そして穏やかに語り始める)「ムッシュ・ボーローグのおっしゃる通り、生存が全ての基礎であることは論を俟ちません。そのご尽力には、人類全体が感謝すべきでしょう。しかし、ですな。」
サヴァラン:「人間が他の動物と一線を画すのは、単に生存するだけでなく、その生をより良く、より豊かにしようと希求する点にあります。そして、『食文化』こそ、その希求の最も根源的で、最も普遍的な現れの一つなのです。」
サヴァラン:(指を折りながら)「考えてもみて下さい。我々はただ栄養を摂取するためだけに食事をするのではありません。家族や友人と食卓を囲み、語らい、笑い合う。季節の移ろいを旬の食材で感じ、祝い事には特別な料理を用意し、旅先ではその土地ならではの味覚を楽しむ…。」
サヴァラン:「これらは全て、食事が単なる生存維持活動ではなく、我々の生活に彩りを与え、社会的な繋がりを育み、記憶やアイデンティティを形成する、かけがえのない『文化』であることを示しています。『美味礼讃』にも記しましたが、食卓の社交性(convivialité)こそ、人間社会を円滑にし、幸福をもたらす重要な要素なのです。」
サヴァラン:「ですから、食文化は決して『贅沢品』などではない。むしろ、人間が人間らしく、豊かに生きていくために不可欠な、精神的な栄養であり、生活の質そのものに関わる本質的な要素だと、私は考えます。」
あすか:「生存の土台の上に花開く、人間らしい豊かさとしての食文化…。ありがとうございます、サヴァラン様。では、辻様。ボーローグ様の『生存』、サヴァラン様の『文化』、この二つの視点を踏まえ、どのようにお考えになりますか?」
辻:(両者の意見に頷きながら)「お二人の先生方のお話、どちらも非常に重要であり、深く共感いたします。私自身は、食における『生存』と『文化』は、対立するものではなく、むしろ密接に結びつき、相互に影響し合うものだと考えています。」
辻:「例えば、世界各地に存在する伝統的な食文化の中には、その土地の気候風土に適応し、栄養バランスに優れ、さらには食材を無駄なく使い切る、持続可能な知恵が数多く含まれています。日本の発酵食品や、地中海式の食事などが良い例でしょう。これらは、まさに生存の知恵が洗練され、文化へと昇華した形と言えます。」
辻:(教育者の視点から)「また、食文化は、地域経済を活性化させる力も持っています。その土地ならではの食材、料理、レストラン、あるいは食に関連する祭りや観光は、多くの人々を惹きつけ、雇用を生み出し、地域のアイデンティティを育む上で重要な役割を果たしています。これは、人々の生活、つまり『生存』の基盤を支えることにも繋がります。」
辻:「さらに、食文化を通じて異文化に触れることは、相互理解を深め、国際的な友好関係を築く上でも大きな意味を持ちます。食は、言葉や理屈を超えて、人々の心と心を繋ぐ力を持っているのです。」
辻:「ですから、食料の安定供給という『生存』の基盤を確保すると同時に、多様な食文化を尊重し、保護し、次世代へと継承していくこと。その両方が、人類社会の持続的な発展のためには不可欠だと、私は考えます。」
あすか:「生存の知恵が文化となり、文化が生存の基盤を支え、人々を繋ぐ…。ありがとうございます、辻様。非常に包括的な視点です。…さて、魯山人様。これまでの議論…生存、文化、相互理解…どのようにお聞きになりましたか?」
魯山人:(やれやれ、といった表情で)「文化だの生存だの、相互理解だの…どうも高尚な話は好かんな。わしには関係のないことだ。」
魯山人:「ただ、わしがやってきたことは、結局のところ、『旨いものを食いたい、作りたい』、ただそれだけよ。最高の素材を探し、それを活かす器を焼き、どうすればもっと旨くなるか、そればかり考えてきた。」(少し遠い目をして)「それが結果として、日本の食だの、器だの、まあ、あんたたちの言う『文化』の一部になったのかもしれんが、そんなことは知ったことではない。」
魯山人:(再び厳しい表情に戻り)「だがな、一つ言えるのは、本当に旨いものは、その土地の風土と分かちがたく結びついているということだ。日本の水、日本の土、日本の気候があってこその味がある。無理に異国の真似事をしても、それはまがい物にしかならん。」
魯山人:「生存だなんだと言っても、人間というものは、結局、自分の舌に正直なものよ。理屈ではなく、身体が喜ぶものを求める。小賢しい文化論なんぞより、その土地で採れた旬のものを、素直に味わうこと。それが一番確かなことではないのかね?」
あすか:「その土地の風土と結びついた味、身体が喜ぶもの…。魯山人様、ありがとうございます。高尚な議論は好かん、と仰りながらも、食と文化、そして人間の本能について、非常に示唆に富むご意見です。」
あすか:(議論を整理するように)「ボーローグ様は『生存』の土台の重要性を、サヴァラン様は人間らしい豊かさとしての『文化』の価値を、辻様はその両者の相互関係と多面的な意義を、そして魯山人様は風土と結びついた『本物の味』と人間の本能を語ってくださいました。」
あすか:(クロノスに世界の食文化の映像を表示しながら)「食が持つ二つの側面、『生存』と『文化』。これらは時に補い合い、時に緊張関係にもなりうるようです。ラウンド3後半では、グローバル化が進む現代において、この関係性がどのように変化しているのか、そして私たちは多様な食文化とどう向き合っていくべきなのか、さらに議論を深めていきたいと思います。」