入れて出す
生きてるってことは、入れたり出したりしてるってことだという話。
空気を吸う。吸いっぱなしじゃなくて息を吐く。
水を飲む。飲みっぱなしじゃなくて汗や小便にして出す。
とかく生きているってことは、入れたり出したりしている。
そこでふと思ったのが娯楽。
映画を見たり小説を読んだり、こういうのは入れる方だろう。ご飯をおいしいと思うように、面白いと感じたり感動したり、それらを入れることを良しと思うからそれをする。でも、この入ったものは出さなくてもいいのだろうか。
物語は記憶に残るだけでなく、なんらかの価値観の変化などをもたらすことで出されていると言えるかもしれない。でも、もっと直接的に出した方が健全なようにも感じる。私が小説を書きたいと思うきっかけは小説を読む、つまり物語を入れるところから始まって、それを咀嚼して変化させて自分を織り込んで新たに組みなおした小説を出したいと思ったからだ。
自分という個性は過去から生み出されている寄せ集めだ。日本語は日本人が使ってきた言葉でその言葉は過去の日本人が作ってきたものであって自分が持って生まれたものではない。何気なく会話をしている中で、近くにいた赤ん坊がその言葉の端くれを取り入れているように、過去から入れたものを未来に向けて出しているのが自分だ。
私はたくさんのアニメを見るがアニメを作ろうとは思えない。小説に比べてハードルが高い。個人で出せるものではない。そういう意味でアニメは入れっぱなし。その面白さを味わうだけ、入れるだけで出せない。それでも小説のように表現する方法がないわけではない。
小説にせよエッセイにせよ、書くことは出すことだ。でも、出すもののほとんどは過去に入れたものそのものだ。それでも出した方が入れっぱなしよりはずっといいと思う。
逆に友人と話したりして出したていることも多いとは思うけれども、昨日見たアニメの話などオッサンが同年代のオッサンとする話ではないというか話が通じない。つまるところ、出す場所が文字にしかない。
なのに書かない出さない。そういう日々が続いている。これは良くない。
ということで、また思いつきだけの短文を出してみた。これはもう便所の落書きだと自覚している。でも、もう出さないと苦しいぐらいに溜まってる。カッコつけるのをやめて垂れ流す。
なんて出してしまうと後から消したくなるんだろうな。
銀河の黒歴史がまた1ページ。