1. 夢か現か
その日……人熱れでむせる歓楽街は、明日からの週末に弾む人々で溢れていた。
普通ならその場に身を置くだけで心が浮き立ちそうなものだけど……ざわつく街の雑踏とは対照的に僕の足取りは鈍い。
理由は……来週の月曜日に僕を標的にしているいじめグループから呼び出されているせいだ。
“……お前が学校に居られるのは誰のおかげか分かってるよな? そのお前が俺達にどんな誠意を見せてくれるのか……月曜を愉しみにしてるぜ(笑)”
僕は重い足を引き摺り、夕日に染まる雑踏を抜けると、饐えた匂いがこびりついた裏路地に入った。
そして路地の一番奥にあるアパートの鍵を開け、一步中に踏み込んだ時……一つの結論に達した。
「……死のう」
イジメが状態化した学校からかろうじて逃げ出し、なんとか家に帰り着いた僕は……既に限界まで追い詰められていた。
「……もう楽になってもいいよね」
毎日毎日ブタだの家畜だの言われ、なけなしの生活費を絞り取られる人扱いされない日々。そんな日々にもう疲れ果ててしまった。
物置から洗濯紐を取り出す。ナイロンを撚り合わせたロープは、見た目は細いが僕の体重を支える程度の強さはあるだろう。
― カラカラッ ―
ベランダの引き戸を少し開けたのは飼い猫のためだ。元々は両親が飼っていた猫で僕にはちっとも懐かない奴だったから……こうしておけばそのうち逃げ出すだろう。
無言のままロフトの手摺にロープを掛け、椅子の上に立って結んだ輪の中に顔を突っ込む。
「母さん、父さん……今からそっちに行くよ」
僕は勢い良く椅子を蹴った。首がロープに絞られて血流が遮断され……
(これで……何もかも終わる)
瞬間的に意識が無くなり、全ての苦痛は消える……そのはずだった。
…………
……………
………………
そのはずだったんだ。
――――――――――
勢いに任せて椅子を蹴った結果どうなったのかって?
一応言い訳しておくと僕は本気で死ぬつもりだった。多分に衝動的だった事は否めないけど死にたいと思った気持ちに嘘は無い。
ただ結果として──僕は必死になって首に巻き付くロープを外そうと藻掻いていた。
……首吊りというのは失敗するととんでもなく苦しい。
そしてその苦痛は、たかだか15年しか生きていない中学三年生の覚悟を嘲笑う様に身体を突き動かした。
首に食い込む縄を外そうとして、バリバリとロープを掻きむしる僕の指先。本来ならそんな事をしても無駄だ。体重で引き絞られた縄がそんな程度で外れるはずも無い……
だが……たまたま首との間に挟まった制服の立襟が、体重によってロープが引き絞られるまでに刹那の猶予を作った。そして──身体の生きようとする本能が、かろうじてロープと首の間に指を潜り込ませる事に成功する。
持ち主の意思に反して生きる事を選択した身体は、残った生命力の全てを消費するかの様に暴れた。そのおかげ……というのも何だが、
― バキィッッ ―
派手な破砕音と共に首に食い込んでいた圧迫が消えた。ついでに身体全てに掛かっていた重力も奇麗に消えた。
― ドッ ―
「ゲッホゲホッゲホゲボっ」
激しく咳き込む身体は無秩序に空気を欲しがるが、落下の衝撃をモロに受けた横隔膜は、僅かに残った肺の空気を容赦なく絞り出した。
地面の上を転げ回り、肺と胃から空気と胃液を吐き出しながら地面に生えた雑草を握りしめた僕は……
「かはぁっ」
精一杯肺に空気を取り込もうとして力一杯のけぞった。
― ズボッ ―
落下の衝撃でろくに動かなかった横隔膜がやっと機能し始め、同時に吸い込めるだけの空気を吸い込んだ。その瞬間……
― ギョァーーーーー ―
絶叫が僕の鼓膜を激しく震わせる。その声は耳からアイスピックを突き刺されたと感じる程強烈で……
僕の脳は──スイッチを切ったみたいに意識を手放した。
――――――――――
「ニャゴッ!」
「痛っ」
小さな痛みが顔に疾る。目を開けると……
「シャー ッ 」
虎鉄が僕の顔に猫パンチを叩きつけている!
「おい! 何をして……イツツ」
首元に走る痛み。途端に今の状況を思い出した。
「……くそ。僕は死ぬ事すら満足に出来ないってのか?」
がっくりして首に巻き付いたままの紐を外し──その時やっと自分の状態がおかしい事に気がつく。
「なんだ? なんでこんなに泥だらけなんだ?」
僕の身体はまるで土の上を転げ回ったみたいに泥だらけになっていた。
「なんでこんな??」
おかしい……僕は確かに自分のアパートの床に居るのに身体が泥だらけなのだ。いや……そう言えば僕が死にかけた時、夜の土の上を転げ回った様な記憶が……
「いったい何が……うわっ!? 何だこれ?」
僕は間抜けにも、その時になって初めて手の中に変な草を握り締めている事に気がついた。僕はビックリしてその場に手の中の草を放りだした。
「何なんだよいった………」
「シャーッ!!!」
また虎鉄が怒っている。僕は反射的に時計を見た。時間は18:36……餌の時間はとっくに過ぎている。
「なんだよ……僕の心配をしてたんじゃないのかよ」
僕はあちこち痛む身体で立ち上がり虎鉄のフードを彼のお気にいりの皿にぶち撒けた。
虎鉄はやっと出てきた自分の夕飯に顔を突っ込んでカリカリとやり出した。その姿を見てフッと力が抜けた僕は、その場に座り込んでもう一度自分の身体を見た。あちこちに泥汚れを付けた制服……
「……何なんだよ。意味が分からないよ」
『知りたいか?』
「ひっ!」
何だ?! 今の声何処から聞こえた??
慌てて部屋中を見渡すが……当然誰も居やしない。
『そう怯えるなよ……こんな事態になったのも、元はと言えばお前がオレを無理やり収穫したせいなんだぜ?』
おかしい?! 周りには誰も居ない筈なのに……耳元でやたらドスの効いたオッサンの声が何か喋っている!
『誰がオッサンだテメェ! こちとら生後5分のバリバリ赤ちゃんだぞコラ!!!』
「ヒィッ! 何で口に出してないのに僕が考えてる事が分かった??」
いったい何がどうなってるんだ?
『OK、OK、 先ずは落ち着け。全部説明してやっから……おっと……その前にお前の足元を見ろ』
「?」
理由も分からないまま、そっと足元を見る。そこには僕が投げ捨てた雑草が落ちていた。
奇妙にねじくれた小振りの人参みたいな根には、湿った黒い土がこびりついていて……引き抜かれてからまだ僅かな時間しか経っていない事が分かった。
「そうだ……身体の汚れもだけど──僕は何でこんなの握って??」
『こんなの……だと? 無理やりオレを収穫したくせに随分な言い草だな?』
「ひっ!?!」
何だよこれ?! 収穫??? もしかしてこの変な声はこれが?!
『やっと理解したか? どんくさい野郎だ。ほら、さっさとオレを拾え。オレは自分じゃ殆ど動けねぇんだからな』
また心を読んだ?? どうなってるんだ?? 首吊りの後遺症で頭がおかしくなったのか?
『ククククッ 残念ながら夢なんかじゃねえ。おら、説明してやっからさっさとオレを拾って……そうだな、とりあえず水に浸せ。早くしないと萎れちまう』