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竜の落胤 第三節

「私は二人の子どもじゃなかった」

 ふと、そんな言葉が、リャージャの頭に過った。しかし、その声は、記憶の池に投じられた小石となり、過去の波紋が次々と浮かび上がってくる。

 その波紋は、音声を映像に変え、記憶を追憶に変えた。

 リャージャの前に現れたのは、かつて自分がまだ『生まれながらの性』を維持していた頃の景色だった。そして自分が、竜の力を有する自覚も無い頃でもある。

「リャージャ、これ」

 そう言いながら、無愛想な父は、リャージャに薄い冊子を渡してきた。その表紙には『特待生制度』という文字が大きく書かれていた。

「新世界連盟の加盟国の住人なら申請できるそうだ。知能、魔力、意欲を評価して採用試験だ。受かれば今後の学費は免除、最先端の教育も受けられる。お前は俺たちに似ず、頭も良いし、魔力も高い」

 まだ九歳のリャージャは、それを手に取って眺めていた。幼いリャージャでも、興味をことさらに煽る内容は、見やすい配置と書体で書かれ、小難しい現実味のある内容は、小さく、目立たないように表記されていることぐらいはわかった。

「おとう、こんなの私が受かるわけないでしょ」

 そう言って冷たくリャージャは冊子を父親につき返した。

「やるだけなら、タダだ」

「申請書も書かなきゃ駄目だし、推薦書もいるって書いてるでしょ」

 父親は、リャージャに言われた内容を確かめるように冊子を見つめる。

「すまん……」

「良いって、もう。私は農家の仕事が好きなの。勉強小屋に籠るなんて、私の性に合わないの」

 リャージャは机から離れ、厨房へと向かう。すると、家の外から慌ただしい足音が複数聞こえてくる。そしてリャージャの家の戸が強く叩かれ始めた。何の騒ぎかと、リャージャの父が戸を開くと、外には見知った村の人間たちが、五名ほど息を切らして立っていた。

「どうしたんだい、騒がしい」

「トペゲサさん!大変なんだ!村の外に魔獣が出たんだ!それも群れてる!」

「なんだって?」

 リャージャの父トペゲサは、知人の急報に目を丸くする。それを後ろで聞いていたリャージャも、落ち着かない様子だった。

「それで、どうしたんだ?警備隊の方には連絡したのか?」

「ああ、したんだが、駆け付けるには少しかかるそうなんだ」

「そうか、教えてくれてありがとう。だが、それなら皆も早く家に戻りなさい。警備隊が来るまで、立てこもって身を守るべきだ」

 トペゲサにそう言われたが、しかし村人は戸惑った表情ですぐには引き下がらなかった。そして何かを言い渋っていることも、リャージャとトペゲサには理解できた。

「……魔獣は公民館を取り囲んでいてな。そこから逃げてきた者たち曰く、ジェセットが皆を逃がすために、公民館に取り残されたらしい」

「な!妻は、無事なのか?」

 トペゲサが取り乱すや否や、突然戸の前に立っていたトペゲサと知人が何か強い力に押されて、地面に倒れ込んだ。トペゲサが自分を押しのけた存在を、倒れながらも目で追いかける。

「リャージャ!待て!」

 彼が最後に目にしたのは、迷いなく畑を走り抜けるリャージャの姿だった。

「おかあ、おかあ、おかあ」

 祈るようにそう呟きながら、リャージャが驚くほどの速度で公民館のもとへと駆けつけていく。

 公民館に近づくにつれ、人々の悲鳴や、混乱の声が大きくなっていく。それは間違いなく魔獣たちは、未だ公民館の近くに集っていることを意味していた。

 リャージャの視界にも、公民館が映った時、突如人の喧騒以外の音が混じり始めた。それは獣の唸り声のようでもあり、古い機械が軋む音のようでもあった。その独特の音には、リャージャも聞き覚えがあった。

「魔獣……!」

 それと同時に、リャージャの脚が更に速く動く。

「頼む、間に合って!」

 公民館の前に辿り着くと、リャージャはすぐさま、異常に気付いた。憩いの場であるはずの質素で清潔な公民館が、赤紫のおどろおどろしい色彩をした魔獣に取り囲まれていた。魔獣たちの下には、逃げきれなかったのか、それとも襲撃時に襲われてしまったのか、身体の中身を撒き散らしながら倒れる人体が、複数確認できた。思わずリャージャは、その中に自身の母がいないかを探してしまう。しかし新たな獲物を感じ取った魔獣たちは、それを許してはくれなかった。まるで血に飢えた獣のように、狂乱しながらリャージャのもとへと魔獣が一気に襲い掛かってくる。

 リャージャは、身体を低くしながら、その魔獣の襲撃を掻い潜ると、公民館の方へそのまま進んでいく。しかし未だ公民館の前には、複数の魔獣が門番として、待ち構えていた。

「どけぇ!」

 牙と爪を振るおうとするその魔獣たちに向かって、頭を両腕で守りながら勢いよくリャージャは突撃していく。魔獣は二体までなら、それで蹴散らせたが、しかしすぐさま別の魔獣がリャージャに襲い掛かる。急所を守ろうとするあまり、視界を閉ざしてしまったことが裏目にでて、リャージャは魔獣の攻撃を躱すことができなかった。戦いの経験の無い農民の子供、ただ魔力が少し高いだけのリャージャに、このような修羅場を切り抜ける術などない。

 最初の一振りで、リャージャは大地に倒れ、その上に魔獣たちが我先にと一斉に乗りかかってくる。爪なのか牙によるものか、彼女の肌が次々と引き裂かれていく。彼女の美しい黒の肌はどんどん鮮血に真っ赤に染まっていく。

「……リャージャ?リャージャ!?」

 リャージャが死を覚悟したその時、突如遠方から彼女の名前を呼ぶ声が聞こえる。その声の主は、視界を魔獣の身体に妨げられるせいで、リャージャからは見えない。だが、その声を、彼女が聞き間違えるはずもない。

「おかぁ……」

 全身の痛みに苦しみながらも、自分の母の声によって、心の奥から何かが湧き出で、それが彼女の限界を超えて、その肉体を突き動かした。

 最初リャージャは、それが母への愛が見せた火事場の力なのだと考えていた。だが徐々に自身の肉体が、自分の意思で動かせぬことに気づいた。まるで、身体の底から出でた何かに、身体が乗っ取られるような感覚だった。そして微かに視界が陽炎のような揺らぎを見せた後、唐突に眼球が茹るように熱くなり始めた。奇妙にも、その熱さが体を焦がすという感覚はなく、どちらかといえば、何かが目から飛びだそうとすることに対する不快感が彼女を苛ませた。

 まるで病に臥せった時に、ムカついた胃のように、吐き出せば楽になるという期待と、吐き出すことでもたらされる惨事の間で、リャージャの心が揺れ動いている。

 だが結局、リャージャはその「瞳の熱」を抑え込むことができなかった。

「ああああああああ」

 視界が一気に、青白い光に染まった瞬間、自分に覆いかぶさっていた魔獣たちが、突然弾き飛んだ。不快な苦しみに体を捻りながら、リャージャは体を起こす。錯乱した意識と光に包まれた視界からも、自分が目にしたものが次々と破裂していることに、リャージャは気付いていた。だが身体は未だ自分の意思のもとで制御がきかず、瞼さえ閉じない。

 リャージャは必死に、自分の視界に母が映らぬように、首を動かそうとする。何とか、視界に公民館が映り込まぬようにはできたが、もはや魔獣たちの唸り声も、身動きの音も聞こえぬようになったにも関わらず、自分の目からは未だ青い光が溢れ出ていた。

 それどころか、光は徐々に威力を増していき、視界は更に青く染まっていく。

「う、うわああああああ!」

 大声で叫びながら、リャージャは一気に首を上に上げる。溢れ出た光が、空を切り裂いて、真っ直ぐ伸びていく。雄たけびととも、太陽へと挑戦するように、破壊的な熱線を三分以上吐き続けた後、リャージャの目からは光が消え、それと同時に彼女も地面に倒れ込んだ。

 だが意識を失ったわけではなく、ただ、先程の熱線を立て続けに解放し続けたことによる、疲労感が大きかった。ぜえぜえと息を切らしながら、ようやく自分の身に起きた現象を整理し始めた。だが、どうにも身に覚えのない力だったために、自分でも先ほどの変化に対する答えは愚か、碌な推論すら浮かび上がらない。

「リャージャ、リャージャ!」

 困惑するリャージャに、母が心配そうに駆け寄ってくる。

「あ、おかあ……私、一体なにが……」

「……兎に角、今は家に帰りましょう。それに、リャージャ、貴方のお陰で助かった。けど、危ない場所に、一人で来るような真似は駄目」

 まだ極度の疲労で動けないままでいるリャージャを、母親が両腕で抱え込む。

「ジェ、ジェセットさん、大丈夫ですか?」

 声の方に向き直ると、公民館から心配そうに顔だけ覗かせる男の姿があった。

「ああ、大丈夫だよ、うちの子に驚いて、『魔獣はどこかへ行った』みたい。今のうちに、逃げましょう。怪我した人は、歩ける人が庇ってあげて。私はこの子を先に村に連れていく」

「……わかったよ、ジェセットさん」

 その男は、ジェセットに言われた通り館内に戻っていく。ジェセットは、娘を抱えて、一旦辺りを見渡す。辺り一帯は、激しい戦闘があったというより、竜巻でも通ったか、あるいは空爆でもあったのかというような有様だった。リャージャの母は、その一部始終を目にしていたにも関わらず、この惨状の大半をもたらしたものが、自分の子どもであることをとてもではないが認められなかった。まるで逃げるように、ジェセットはその場から目を背け、そして足早に去っていった。




 家に着くころには、リャージャも気力をある程度取り戻し、一人で歩けないまでも、母の腕を借りて歩くことはできていた。娘を追いかけようとしたが、知人から足止めを喰らっていた父のトペゲサは、青ざめた顔のまま玄関先で立ち尽くしていたが、無事に帰ってきた妻と娘の姿を見るや否や、二人の方へと急いで駆け寄った。

「二人とも、無事だったか……!」

 声を震わせながら、トペゲサは二人の肩に両腕を回して抱きしめた。

「ごめん、おとう」

「いやいや、無事なら、それでいいんだ、それでいいんだ」

 村人たちに見送られながら、三人はゆっくりとわが家へと入っていく。周りの人は、「困ったことがあれば、遠慮なく言ってくれ」と言い残して、今は三人だけにしてやろうと、各々の家へと帰った。

 三人だけになり、母が力の取り戻しきれていないリャージャを椅子に座らせると、両親はリャージャを心配するように寄り添って立っていた。

「良かった、ジェセットも、リャージャも無事で。けど、リャージャ、あまり無茶はしないでくれ……、しかし、どうしたんだ?怪我、とかしたわけではないようだが」

 父のトペゲサが、困憊の様子のリャージャの身体を心配した様子で見まわすが、掠り傷こそ見えど、それほどの酷い外傷や痣などが見当たらないことから、なぜ自力で歩けぬほどに弱っているのか、理解できなかった。

「……ねぇ、リャージャ、私も、何が起きたかわかってないんだけど、あんな魔力をどこから引き出せたの?」

 父のトペゲサに詰められたジェセットだったが、彼女も自身の子に起きた現象を把握できていなかった。

「わからない。何か、身体の奥から変な力が湧いてきて、それで……」

「……まさか」

 朦朧とするリャージャの言葉はやはり曖昧であったが、何故かジェセットは、何かに勘づいた。

「ねぇリャージャ、身体が、乗っ取られるような感覚はなかった?」

 そう母に問われ、リャージャは首をゆっくりと縦に振る。

「どうしよう、トペゲサ、この子、竜因かもしれない」

「な、なにを言うんだ、ジェセット、君にも、僕の家系にも竜因はいないだろう?」

 ジェセットの突拍子もない言葉が、更にトペゲサを戸惑わせた。

「けどね、この子、突然凄い力を放った。それに昔、大学で竜因の講義を受けた時に、因子の覚醒に伴って、竜に意識や肉体を乗っ取られながら、莫大な力を解放、ひいては暴走することがあるということを聞いた。教授が言っていた内容と、あの時のリャージャの状態は全く一緒だった」

 ジェセットの語る内容は、とても信じられるようなものではなかったが、しかし普段の彼女の理路整然とした姿を知る二人にとって、彼女が無根拠に人を扇動するようなことを言うはずがないとわかっていた。特に身をもって自身に起きた変化を経験したリャージャにとっては、もうそれが真実だと思えてならなかった。

「それで、何より重要なことがある。リャージャ、貴方の力、公民館にいる人に見られたかもしれない」

「えっと……?」

「竜因が、今、どんな目にあってるか、トペゲサ、貴方だって知ってるでしょ」

 そう言われ、トペゲサの顔が真っ青になる。

「どうする、もし新世界連盟に告発なんてされたら……わかった、リャージャ、ジェセット、今晩、村を出よう」

 普段は優柔不断な印象のある優男だが、トペゲサはここぞの決断は、思い立ったら早い。ジェセットも、それに同意した様子だった。だがリャージャは、それが自分を思っての決意であることがわかりつつも、困惑を隠せなかった。

「いや、待ってよ。二人の田んぼだってあるのに、全部私のために捨てるの?それに、本当に村の人たちが、私を告発するかなんてわからないのに?」

 リャージャの言うことにも一理あったが、しかしそれでも両親の決意は揺らがない様子だった。

「決して、安易な決断じゃない。それにあれほどの力の解放、仮に近くで見てなくても、何かあったことは想像に難くない。それに皆、公民館の前に大量の魔獣がいたことを知っているのよ?その中心にいた貴方のような、小さな子どもがどうして大きな怪我もせず、そして魔獣が蜘蛛の子を散らしたかのようにいなくなったのか。いずれ皆、貴方の力に遅かれ早かれ辿り着く」

「け、けど……」

 リャージャが、そう言いかけた時だった。突然彼らの家の扉が何者かに叩かれる。三人とも、死の宣告でも受けたかのように、その音に心臓が止まるほど驚き、身体を凍らせた。

「ま、まさか」

「……ジェセット、リャージャを奥の部屋に」

 そうトペゲサが言うと、ジェセットは無言で頷いて、我が子を奥の部屋に連れて行こうとする。トペゲサは、それを見届けた後、未だ一定の間隔で叩かれる戸へと恐る恐る近づいていく。

「何の用かね」

 トペゲサがそう言うと、扉の向こうからは、小さく囁くような声が聞こえる。

「トペゲサ、開けて。すぐに知らせたいことがある」

 先ほどのやり取りも含め、そして扉の向こうからの知人の焦るような声に、トペゲサはすぐには戸を開ける気にはなれなかった。

「お願い。リャージャを守ってあげたいの」

 だが、その言葉に彼は何かを感じ取り、扉をおずおずと小さく開いた。戸の外には、近くに住んでいる女性が一人で立っていた。

「まずは何より、うちの旦那を助けてくれた、リャージャとジェセットに感謝を。けど、うちのは、恩を仇で返そうとしてる。リャージャが竜因、ってのは本当なの?」

「……わからない。ひょっとするとそうかもしれない。僕たちも初めて知ったんだ」

「……。うちの旦那、あちこちに知人、友人にそのことを言いふらしてる。もし本当なら、多分すぐにでも逃げた方が良い」

 そう言われて、トペゲサはその話を詳しく聞くために扉を広く開いて、彼女を招き入れる。

「どうして?」

「わかるでしょ。告発するつもり、しかもその間、逃げないように拘束するなんて言い出してる。私が何を言っても止める気なかった。そして何より、それを聞いた村人も、リャージャを私刑する気満々よ」

「……君は、なんでそれを教えてくれるんだ?」

「間違ってる、そう思うから」

 トペゲサはここまであえて感情を押し殺すように淡々と話してきたが、それを聞いて少しだけ顔に感情が浮き上がる。

「教えてくれてありがとう。けど、もう帰った方が良い。僕たちの味方をしたことを知られたら大変なことになる」

 そう言って、トペゲサは知人の女性を送り返した。

 彼女の帰っていったのを悟って、奥の部屋からリャージャとジェセットが戻ってきた。

「……逃げましょう。今すぐに」

 知人の密告で、二人の決心は更に固まった。今すぐにでも、鞄に荷物を詰めようかという勢いだったが、その一方で、リャージャもまた、何かを決意していた。

「ねえ、二人は、ここに残ってほしい」

 そう言ったのは、リャージャだった。

「何を言い出すんだ、今すぐ逃げなきゃ、殺されるかもしれないんだぞ」

「わかってる。だから私一人で逃げるよ。おとう、おかあまで一緒になることはないんだから」

 リャージャの言い放ったことは、父と母にとっても予想外のことだった。

「馬鹿言いなさい。私たちは貴方の親なの。守って当然でしょ」

「ううん。わかってない。どこに逃げたって、竜因が追いかけられるのは変わらない」

 圧倒されている両親をよそに、リャージャはその後、数秒何かを思案した後、こう続けた。

「ねえ、おかあ。竜因がいない家系で、竜因が生まれることは珍しいんだよね?」

「え、ええ。そう教わった」

「なら、私が、二人の実の子じゃない、って思われても、おかしくないんだよね」

 彼女の言わんとすることは、両親にも理解できた。

「馬鹿言いなさい。貴方、私達に、子どもを捨てろ、って言いたいの?」

「ううん、違う。『私は二人の子どもじゃなかった』。『何も知らず捨て子を預かっていただけ』。『竜因と知って怖くなって追い出した』。これなら二人を残酷な親だって言う人はいないと思うよ」

「そういう問題じゃ!!」

 声を荒げるジェセットだったが、リャージャの表情は穏やかなままだった。

「ごめん。けど三人で逃げれば、目立つし、すぐに見つかっちゃう。これが皆助かる確率の高い、一番の方法なんだよ」

 わずか九歳の少女が、なぜこのような非情な決断を下せるのか、我が子ながら、ジェセットとトペゲサは理解できなかった。だが、リャージャの提案は筋が通っている。この星は、今竜因に対する監視の目が厳しい。いや、厳しいなどと生ぬるいものではない。見つかれば、殺されても文句は言えない、そんな世界になっている。そして、自分たちの住む地域も、辺境と言えど、新世界連盟の加盟国。住人たちの情報は厳しく詳細に管理されていて、今、この星の上で、お尋ね者になろうものなら、逃亡生活など安易に過ごせるわけがないのだ。しかし例外はある。元より戸籍に登録されていない人々、あるいは管理対象から外れる、未成年たち。つまり今のリャージャならば、例え国や新世界連盟が総力を挙げても、人の海から探し出すことは、翻って極めて困難になる。それに子どもの人相は数年もせぬうちに変わる。リャージャがそこまで考えたうえで提案したかは定かではないが、しかし少なくとも両親にとってリャージャの提案は極めて合理的に思えた。

「……いや、それでも駄目だ。親の自己満足と言われても構わない。正しくないと謗られても構わない。絶対に、リャージャを孤独にさせたりするものか」

 しかし、リャージャの覚悟にあてられたように、父のトペゲサもまた、決意を更に固めた。

「……うん。そう言うと、思ってた」

 だが、トペゲサとジェセットの想定を上回る行動を、リャージャが取った。

「<炎熱(クル・ファグ)>」

 突如、リャージャは右手を家の奥へ向け、魔術を唱える。手のひらから放たれた火花は、風に運ばれ、家の奥へと飛んでいく。するとその火の粉は、たちまち家の壁から猛々しい炎が巻き起こる。

「ごめん、私、行くから」

 慌てる両親をよそに、リャージャは炎とは反対の方向へ走りだし、家の外へと出て行く。トペゲサとジェセットは、我が子が出て行った扉の外と、家の奥でごうごうと燃え盛る炎を繰り返し慌てた様子で見返していた。

「……ジェセット、あの子を追いかけてくれ!」

 そう言ってトペゲサは、洗濯用の部屋へと行き、大きめの布巾を水でしっかりと濡らすと、再び戻って、炎の上にその布巾を被せた。炎は、湿った布により、勢いを抑えられ、空気を絶たれる。父が消火作業をしている間、母は家の外に飛び出したが、しかしそこには既に娘の後ろ姿すら見当たらない。あの一瞬の逡巡が、この差を生み出してしまったのか。それでも子どもの脚とは思えないほどの速さで、リャージャはいつのまにかジェセットの目の届く範囲から消えていた。右に行ったのかも、左に行ったのかも判断がつかない。

 思わずあの気丈なジェセットが、苦悶の表情を浮かべながら、膝を折る。

「『子どもじゃない』なんて、嘘でも、言わないでよ……」

 胸に深々と刺さった、娘の言葉が、彼女の意思に反して、何度も何度も蘇っては、彼女の心を蝕んでいった。




 リャージャが最後に見た両親の表情は、自分が家を飛び出すことを決断する瞬間の困惑した顔。その後、二人とは再会していない。成長に加え、性別も中性に移ったことで、あの頃の面影こそあれ、身なりは随分と変わってしまった。ひょっとすると、今再会したところで、自分のことなどわかるまい、そう思って、リャージャは今まで自分に言い訳を繰り返してきたのだ。しかしもうすっかりそんなことも忘れかけていた頃に、まるで思い出させるかのように、この記憶が蘇ってきた。リャージャが目を覚まし、身体を起こすが、苦しい記憶のせいか、ずきりと胸の奥に痛みが走る。その痛みをきっかけに、彼女は錯乱した記憶を整理し始めた。最後に思い出せる記憶は、森の中で、魔人と対峙している自分とサネト、そしてヨベクの姿。しかも、黒豹の魔人が自分の身体を切り裂いた瞬間が、最後の景色である。即座に自分の傷口を確かめようとするが、自分の背中は見ることができない。よくよく自分の姿を見ると、上半身は服を着ておらず、代わりにその身には包帯が厳重に撒かれていた。

「これ、サネトは勝ったのか?」

「お、お目覚めか」

 部屋の扉が開くと、そこにはコップを片手にサネトが立っていた。

「サネト、ここって」

 リャージャが周りを見渡すと、何となく見覚えのある風景で、<ヴェペドヴェムン>の都市に取っていた安宿の一室だった。

「ああ、宿に戻ったんだ。どうやらヨベクが連れてきてくれたらしい」

「ん?じゃあ魔人はヨベクが倒したの?」

 サネトは手に持っていたコップを、寝台傍の鏡台の上に置き、その椅子に腰かける。

「いや、倒したのは俺だよ。けど、すぐに気を失ってな。その後、俺たちをヨベクが応急処置して、ここまで連れてきたらしい」

 コップを口に当て、一口茶を啜るサネト。リャージャが彼の姿をよく見ると、確かに生々しい傷を隠すように、包帯や綿紗などがあちこちに巻かれていた。

「……病院に、連れて行かずに?」

「そうみたいだな。言い訳は『ネーパットにそう命令されたから』だとよ」

 リャージャはそれを聞いて、特に反応は見せなかった。そう言われるだろうことは何となく予期できたからだ。

「それで、肝心のヨベクは?」

「魔人の心臓を持って、ご主人様の元へ帰還するだとよ。二人は折角の<アーヴェ>大陸、それも、大都市<ヴェペドヴェムン>にいるんだから、療養ついでに、観光してこい、だとさ」

 サネトがそう言って、再び茶を呷ると表情が突然切り替わった。何か不都合なことでもあったのかと、リャージャはその表情を見て感じたが、彼から切り出されるまでは特に言及することは無かった。そんな視線に気づいてか、サネトはためらいがちに頭を掻くと、徐に口を開いていった。

「それがな、俺たちが寝ていた間に、この街に竜大公が来たらしい」

「え?」

 それは、リャージャにとって、最も聞きたくない知らせだった。



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