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隣人の悲劇

作者: 遠山枯野

 冬の寒さも緩む3月の後半、ある晴れた休日の朝。


 由佳が電車を降りると、春の暖かい風が黒いストレートヘアを揺らした。遠距離恋愛中の彼のアパートはここから歩いて10分ほどだ。その先のデパートを待ち合わせ場所に設定していたが、最寄り駅に早めに着いてしまったので彼の部屋に立ち寄ることを思い立った。


 同じ大学で2学年上の彼とはサークルで出会い、付き合い始めた。彼が就職して、電車で2時間ほど離れた街に移ってからも、1か月に1回の頻度でデートしていた。彼が会いに来ることの方が多かったので、この街に来るのはまだ3回目だ。彼のアパートへは最初の頃1回だけ立ち寄ったことがあるので、道順はわかっていた。


 時間をつぶすようにゆっくりと歩いているうちに、小奇麗な4階建てアパートのベージュ色の壁が見えてきた。階段を上がり、206号室のインターホンを押した。せっかくだから、驚かそうと思いわざと、インターホンのカメラの位置からずれて立った。そして、ドアが開きかけたとき、声を張り上げた。

「おっはよぉーっ!駅に早く着いちゃったから、待ちきれなくてさ。先に寄っちゃったぁ。」


 ところが姿を現したのは、見知らぬ女性だった。癖のあるオレンジ色の髪の毛、背は由佳より高かった。遅れて、部屋の中から香ばしい匂いが漂ってきた。キッチンで何かを煮詰めているようだ。女性は由佳を睨みつけて言った。

「あんただれ?彼は今、外出中だよ。」

 由佳は心拍数が上がるのを感じたが、震える声を振り絞った。

「か、彼とお付き合いしているものですけど、あ、あなたこそ誰ですか!?」

「はあ?そんなわけねーだろう。あたしが彼の彼女だよ。」

「そんなはずありません!彼はあなたみたいな派手な人、好みじゃないと思います!」

「はあ?おまえみたいな、ロリっぽいヤツ、彼が好きになるわけねーだろう。」

「彼と話させてください!」

「だから、外出中だって言ってんだろう。スーパーで買い物してんの。そんで戻ってきたらで、彼の大好きなナポリタンのパスタを作って一緒に食べんの。」

「そ、そんな。私、彼とデートの約束してたのに・・・」

「知らねーよ! 捨てられたってことじぇねーの。」

 由佳はドアの外に締め出された。ドアが閉まり、鍵をかける音がした。


 由佳は混乱していた。ときどき涙が流れそうなのを必死でこらえながら駅へと歩いた。彼が心変わりするなんて。絶対におかしい。でも、なんとなく嫌な予感はしていた。前に会ったときも、態度が素っ気なかった。遠距離の寂しさに耐えられなかったのだろう。この街の方が華やかだし、社会人になったのだから出会いはいくらでもあるはずだ。もう彼のことは忘れよう。そう誓った。



 ドアを閉めた加奈子は、料理の下ごしらえに戻った。怒りがすぐに収まらなかった。あの小娘の態度もムカついたが、よくよく考えてみれば、悪いのは信雄だ。二股されていたということ。何かの間違いで、予定がバッティングしたのだろう。相変わらず、ズボラなやつ。怒りの矛先は、信雄へと向かって行った。


 お家デートに誘われたのは3日前のことだ。予想外に小奇麗でおしゃれな部屋。アンティークの家具やソファはセンスがいい。大胆な性格の信雄にこんな一面があったとは。そのギャップにテンションが上がった。調理器具の充実した素敵なキッチンを見ているうちに、自分の得意料理を披露してあげたくなった。冷蔵庫を開けるとほとんど食材がない。だから、必要な食材をメモ書きして彼に渡し、近くのスーパーで買ってくるように頼んだのだ。だが、今はもう気持ちが覚めてしまった。


 インターホンが鳴った。信雄だ。野菜と肉類の入ったスーパーのレジ袋を手に持っている。加奈子は調理包丁を手に握りしめた。



 夕方、光一が206号室のドアのレバーを捻ると、鍵がかかっているようだった。念のため持ち出していた合鍵でドアを開けると、隣人の信雄がソファに体を投げ出し、険しい顔でスマホと向き買っていた。キッチンの鍋からは香ばしい香りが微かに漂ってくる。床には食材の入ったスーパーのレジ袋。光一は恐る恐る声をかけた。

「あれ?まだいたのか。デート上手くいったか?」

「振られたよ。まじで、訳わかんねーよ。最初は、彼女も部屋を見て、えらくお気に入りだったんだ。そのうち、料理を振舞いたいって言って、冷蔵庫をのぞきこんで、スーパーでこれ買ってきてほしいって言って、メモを渡されたから、俺は買いに行ったわけ。で、戻ってきたら、彼女がカンカンに怒っていてさ。俺をののしるばかりで、訳を話してくれないんだよ。そのうち、包丁振り回してさ、危ねぇから、部屋の外に締め出してやったよ。」

「まじかぁ。それで彼女はどこにいったんだ?」

「わかんねぇ。どっかいっちまった。連絡がとれねえんだ。」

「お前が留守の間に何かあったってことじゃないのか。まあ、俺も俺でそれどころじゃなんだけどな。」

「まさか、バレたのか?俺の部屋じゃないってのが。」

「俺の名前が書いてある物は全部、引き出しに隠しておいたけどな。パソコンもロックしておいたし。」

「エロい雑誌とかもちゃんと隠したのかよ?」

「ばか言え、いまどき、紙の雑誌なんて読むかよ。それにな、そんな些細なことで怒るのか。確かにお前の彼女、気性が荒そうだけどな。それにしてもだよ。」


 信雄とは会社の同期で、借り上げアパートの隣の部屋ということもあって、またにお互いの部屋で話をすることがあった。光一はかなり几帳面な性格で、デザインセンスもいいので、部屋もおしゃれにアレンジしていた。ソファ、大型の液晶テレビ、家具、キッチン、どれをとっても一級品で、配置も完ぺき。いつも清潔で、手入れも行き届いていた。一方で、信雄の部屋ときたら、ゴミ屋敷だ。だから、話をするときは光一の部屋に彼を呼ぶことのほうが多かった。


 3日前のこと。光一の部屋でコーヒーを飲みながら話をしていると、光一は信雄から相談を持ち掛けられた。

「おまえの部屋ってほんとキレイだよな。それでさ、お願いがあってさ。」

「なんだ?」

「今度の休み、俺の彼女がお家デートしたいって言うんだよ。でさ、お前も知っての通り、俺って片付けが苦手でさ、俺の部屋、すでの修復不可能な状態だろう。でさ、部屋貸してくれ、頼む。」

「だいじょうぶか?この先長く付き合いたいんだろう。ごかましとおせるのかよ?」

「頼む、ここが正念場なんだよ。」

「仕方ないなぁ。一回だけだぞ。」

 そんなわけで、信雄が半年前に出会ったという彼女とお家デートをするために光一は自分の部屋を1日貸すことにしたのだ。ところがこの結末だ。

 信雄の彼女の急変ぶりについて彼と1時間ほど議論したが、結論が出なかったので、とうとう彼は隣の自分の部屋へ戻っていった。


*


 一方、光一もそれどころではなかった。


 光一もその日、自分の彼女と町のショッピングモールでデートする予定だったのだ。遠距離恋愛中の彼女が久しぶりに訪ねてくるのだ。その日の朝、信雄に部屋の鍵を渡し、朝から外出した。しかし、彼女は時間になっても現れなかった。Lineを送っても既読スルーだ。そして一方的に別れを切り出すメールが送られてきた。困惑しながらも、信雄と約束していた夕方には部屋に戻ったのだ。


 信雄はスーパーの袋を置いて行ってしまった。まあ、あいつが自炊などするはずがない。もったいないので使わしてもらおう。袋から食材を取り出して、冷蔵庫へ収納していった。パスタ、ひき肉、ウインナー、玉ねぎ、ピーマン、にんにく、・・・。最後に残った赤いものを見て気分が悪くなった。それを袋に入れたままゴミ箱へ入れて蓋を閉めた。そういえば、調理器具が一つ足りないような気がしたが、すぐに忘れてしまった。


*


 由佳があの女性とのやりとりを思い出して、違和感に気付いたのは次の日のことだ。彼は重度のトマトアレルギーだった。あの女が光一の彼女であるはずがない。由佳はLineのブロックを解除した。彼ともう一度話してみよう。窓の外で春の景色が再び色を取り戻したように感じた。


*


 あの惨劇から1週間後の休日、誤解が解けて、由佳は再び彼と会うことになった。1週間たって春の日差しはさらに強さを増していた。206号室のインターホンを押す。返事がない。レバーをひねるとドアが開いた。様子がおかしい。


 すぐ目の前には女性の後ろ姿。その先に男性が倒れている。光一だ。そして、床に広がる赤いものを見て、血の気が引いた。


包丁を手にした女性がこちらに振り向いた。あの女だ。ゆがんだ顔に涙が伝っている。

「ち、違うの・・・人違いだった・・・ちゃんと確認すればよかった・・・」


 由佳は膝から崩れ落ちた。春の生ぬるい風が血の匂いを運んできた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 短い文章の中にトリックがちゃんとあって面白かったです。まさに悲劇ですね!
[良い点] 悪人はいない事件でした。 光一としては部屋を貸して、彼女とは会えず、知らない女性に刺され…。 まさしく悲劇としか言いようがないですね。
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