第5話 『プロローグ3 独りの少女』
森の中を、亀よりも遅く、地を這いながら移動する生き物がいた。
およそ人間の形をしており、髪は黒く染められていて艶がなく、肌は土と雑草で化粧がされている。
全身を泥で汚し、髪を煤でぐちゃぐちゃにして、服だったものは色を失い擦りきれている。
誰が見ても、正気を疑う装いをしていたが、それは人間の少女だった。
名前は、クリスティアーネ。年齢は十六歳。
「しにたく、ない」
そこはカナリア王国、王都から百キロ離れた位置にあり、自然に囲まれ、道すら作られていない場所だった。
「……みず」
朝露に赤い舌を這わせ、ぎりぎりで飢えを凌ぐ。そんな事を、すでに1ヶ月あまり繰り返していた。
体は瘦せ細り、女らしさは失われていた。
寝るときは、ムカデがその身を這うのも気にせず、茂みの中で息を殺す。そこまでするのは、純粋に生きる為だった。
「まだ、しねない」
クリスティアーネは、国から追われ、逃げている。理由は、少女の両親が国家反逆を問われ、下された沙汰は『一族皆殺し』という、死刑より重い罰。
飾られた罪状など、少女は欠片も覚えていない。
結論から言えば、自由に生きすぎた結果、社会から抹殺された。信念を曲げず、権力に従わず、攻撃されたら全てを破壊した。そこに善悪はなく、等しく全てを敵にまわした。
クリスティアーネの記憶には、度重なる不敬を理由に、王族から無茶な要求を受けた両親が、勅命を無視。その報復として、自宅に百人の近衛騎士が押し掛けた。
その返礼として、押し掛けた近衛騎士を含めた、連隊規模(1500人前後)の武器防具のみを徹底的に破壊した事件が、昨日のことのように思い出された。
厳密にいえば、クリスティアーネも砦の武器庫への破壊工作に参加していたので、あながち罪がないとは言えない。
被害額は、国家予算に匹敵したと噂されている。
過去には、王族だけでなく、理不尽な要求をしてきた貴族全てに、同様の対応をしてきた。
クリスティアーネとしては、あえて評判のよくない冒険者相手に、王族が最初から恫喝しながら近付き、甘い戦力分析で手痛い反撃を受けたにすぎないと考えていた。
微かな怒りで、気力を奮い立たせながら、少女は生きる為に、足掻き続ける。
「苦い……」
手には、蜘蛛が握られている。
食料は既に尽きており、生で食べられる虫など、嫌悪感を殺しながら口に入れ、齧ることで食い繋いでいる。
火は発見の恐れがあり、使えない。襲撃は月に一度の間隔であり、火を起こせば確実に居場所が割れる。
人間らしい生活など、少女には、遠い記憶のように感じられた。
ふと、物音が聞こえ、少女は身を固くする。
「……っ」
獣や魔物とは違う、人の意志を感じる音が聞こえる。数は三つ、その内二つが走り去るように遠ざかる。
少女が逃亡を初め、三か月が経過していた。辛いことばかりで、心は折れそうになる。
(死ねば、楽になるのかな?)
辛い思いをしてまで、なぜ生きるのか。鈍る思考が、死ねば楽になれるかを想像する。
「ぅ……」
それは死神の囁きであり、気の緩みから、無駄な力が入り、微かな吐息か漏れる。クリスティアーネは、それが誰にも聞こえていない事を祈り、気を張り詰める。
付近を探っていた人間が、その違和感を感じて、立ち止まる。
(終わった……)
泥まみれの少女は、本能のままナイフを抜き放つ。それは首を狙った一撃を、正確に弾き返す。
「――」
金属の打ち合う音が、少女の頭に痛みを発生させる。
「いたぞ!」
交戦の直後、襲撃者が集合を伝える声をあげる。
「……ぁぁ」
十を越える足音が、集まってくる。クリスティアーネは、枯れたはずの涙を浮かべながら、なおも直感で刃を弾き、打ち合う度に、ナイフの刃は欠けていく。
「ごめん……なさい……」
今度こそ、助からないという確信。覆らない、死の予感。溢れる言葉は、誰に対してか分からない、謝罪の言葉。
返す一撃で、敵の胸元を切り裂き、倒れた人間へ馬乗りになると、体重をかけ、刃を深く突き刺す。
(私も、すぐ逝くね)
気持ちが諦めると、四肢に伝達される信号が、わずかに遅延する。
その瞬間、何かが弾かれる乾いた音がして、少女の肩から矢が突き出す。衝撃に身を任せて倒れれば、命の雫が地へと染みる。
「っぁぁ……」
喉に響く音は、言葉にならない。最後の力で矢を抜きながら、空を見上げるため、身を捻る。
――もう、苦しまなくて、いいのかな?
頭に当たるはずだった矢が、その動きで外れる。それは悪運ですらなく、死に損なっただけだった。
「(なんで)」
声は掠れ、音が出ない。雲を掴むように、手をあげる。
痛みを感じる機能は、既に停止していた。
クリスティアーネは、とても眠かった。
生きているのが奇跡で、意識が遠くなっていく。
「――ティア」
自身を呼ぶ声が、思考を繋ぎ止めた。
――誰?
頭が真っ白になり、目の焦点が合わない。
「ティア!」
「ぇ……?」
涙で濡れた瞳が、幻覚を見せる。誰かが、クリスティアーネを守るよう、戦っているように見えた。
「パパ……?」
二本の短棒を持ち、敵から武器を奪いながら、舞うように人を殺める猛獣がいる。気合いを入れる力強い声が、咆哮みたいに響く。
ティアとは、クリスティアーネの愛称である。それを呼ぶのは、亡き両親をおいて、ほかにない。
だが、少女の目は焦点が定まらず、姿が分からない。
声は女性のものだった。
「あきらめるな、ティア!」
歩き方、敵を倒す優先順位、間合いの取り方。徐々に回復した視界が、目の前の人物を写し、記憶にある姿に重なる。
「ぅぁ……」
女性は武器を投擲し、クリスティアーネに迫る暗殺者を無力化する。
「死ねっ!」
武器を投げた隙を見て、切りかかる男がいたが、残った一本がそれ絡め取る。諸刃である剣が首へ誘導され、太い血管を切り裂き、致命傷を与える。
またひとり、血を流しながら倒れていく。
「囲め! 敵は一人だ!」
女性はその声で、場を仕切る人物へ視線を動かす。同時に、それを見逃さなかった暗殺者は、音もなくクリスティアーネを狙う。
「はっ!」
死人から武器を奪っており、剣に乗せた魔力による遠当てが、クリスティアーネの前で斬撃を結ぶ。その技が来ることを想定しなかった暗殺者は、首と胴を両断されて、即死する。
女性が駆ければ、さらに人が死ぬ。
叩く、切る、殴る、蹴る、抉る。
指先まで滑らかな殺意で撫でれば、脆い人間は簡単に壊されていく。
気付けば、死体の数は十を超え、それは戦闘とは呼べぬ虐殺だった。
「化け物……」
最後のひとりが、戦意を失い武器を落とす。
降参は許されない。
最後に残った暗殺者は、相手の顔をただ眺める。
振り下ろされる一撃が、脳天に触れ、骨を砕きながら、体に侵入して男の耳に届く。
クリスティアーネは、この時だけは男に同情した。刃物で死ぬより、鈍器で切られる方が、はるかに残酷だったから。当たった場所が、悪かった。身体は動かないのに、わずかな時間、命が残ってしまった男は、視線で恨みを言っていた。
クリスティアーネを助けたのは、千歳 優紀だった。
優紀は、ひとりの少女を抱き起こし、頬に触れ、身体に視線を這わせて、怪我の様子を確かめる。
血と内臓と汗と、何もかもが混ざった異臭など、気にならない。
クリスティアーネは、視界が正常に回復すると、自身とそう変わらない年齢の人物へ、問いかける。
「パパ……だよね?」
「……」
否定も肯定もない。それでもクリスティアーネは、願望でも妄想でもなく、理由すら分からないが、目の前の人物が父親であると、直感が告げていた。
「……今は、優紀と呼んでほしい」
優紀は、なんとも言えない気持ちを味わっていた。生まれ変わって、前世を思い出してから数年が経過したのに、その世界は、自分が死んで数か月しか経過していなかった。
前世に未練はないと、思っていた。
しかし、大切だった数々が、まだ失われてない世界だった。
日本で思い出して、最初に諦めた未練が目の前にあり、答えの出ない後悔ばかりが募っていく。
情報屋で、クリスティアーネが逃亡し生きている可能性を知り、全力で考え、全力で走った。
「ティア、よく頑張ったね……」
クリスティアーネ――ティアは、その言葉を聞いて、緊張が解けたのか、気を失ってしまう。
優紀が髪に触れれば、泥と煤が手のひらに広がり、衣服の色など分からないほど汚れている。
臭いもひどく、風呂どころか水浴もできない極限状態で、骨と皮しかないほど痩せ細った少女の姿に、悲しみが沸き上がる。
今生の優紀には、子供などいないはずなのに、前世の記憶に感情が引きずられていく。
「とりあえず、治療しようか」
ティアは魔力が人より多く、衰弱して為、油断はできないが、治療すれば生き延びる可能性はある。
周囲に転がる死体から、荷物をあさり綺麗な布と、サイズは合わないが着替えを何枚か手に入れる。
水筒から水を拝借し、鍋を持っている者が何人かいたので、火を起こして沸騰させる。一応、暗殺者たちの持ち物なので、食料や水に、毒がないことを、自ら試して確認する。
泥と血と汗とそれ以外と、もはや不衛生を通り越して汚物となった少女の衣服を、ナイフで破きながら脱がせ、清潔な布を濡らして傷口を拭き取ると、血ではない汚れで黒くなる方が早かったので、気休め程度で傷を広げないよう、軽く拭き取る。
そのあたりに生えてる、薬になる薬草を湯通しし、柔らかくなったものを傷口に当て、新たな布で止血を兼ねてきつく縛る。
平行して、保存食である干し肉をわずかに入れた回復食を作る。小さめだが、お湯が入った鍋に、塩で漬けた肉を指先で一切れちぎっただけの、ほぼ水みたいなもの。それを、肉が形を失うほど煮込む。
優紀の記憶では、筋肉質でスレンダーな見た目の健康的な少女だったティアが、ほとんど骨しかない状態まで痩せた。
今すぐ普通の食事をすれば、身体が耐えられず死ぬ。魔力が高く体が頑丈なことを考慮しても、致命傷ぎりぎりで血も足りない状況と合わせれば、確実に死ぬ。
現状ですら、目が覚めないまま、死んでもおかしくない状況なのだ。
結局、その日は起きず、優紀は横たわる少女の横顔を、無表情で見つめ続けた。