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エンジンズ・アンド・インストゥルメンツ  作者: 水樹悠
ガラクタ置き場と狼と蝶
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Chap.1 ガラクタ置き場と狼と蝶 Ep.4

それから那月は月に一度ほどの頻度で彼に会いに来た。この頻度は、彼と恵香との間で話したところによる。

彼は宮本親子を疎むつもりは毛頭ないのだが、彼はそれなりに忙しく、加えて明確な休みがある生活をしていない。そのために那月を受け入れられるのは彼の仕事の都合がいいときだけであり、その時間を彼が捻出しようと努力した結果、月に一度程度になった。

時には那月が体調を崩し、予定していたときに会えないこともあったが、疎遠になることはなく、那月はいつも彼と会うのを楽しみにしていた。

彼女たちはパソコンを使わないし、自宅にインターネット環境もない。恵香はスマートフォンを持っているために彼は恵香とよくメッセージをやりとりした。だが、それ故に月に一度しか会えない那月は不満があったようだ。恵香は那月が彼に会えないことに苛立って困っているということを話すこともあったが、彼にすれば那月はとても聞き分けがよく、むしろ子供とは思えないほどにおとなしいとすら思っていた。

那月が小学校に上がっても、変わらず彼を訪問した。恵香のほうは忙しく、会社の都合で家を留守にすることも少なくないようだった。那月が小学校二年のとき、恵香は申し訳なさそうに、那月を家に一人にするのが心配なので、預かってもらうことはできないだろうか、と相談した。彼はその申し出をあっさりと受けた。彼はもう、那月が彼の仕事の邪魔をすることなどないだろうと思っていたのだ。

小学校三年になる頃から、恵香が不在でなくても那月は一人で来るようになった。恵香はそのことを、彼の迷惑になるという心配以外には気にしていないようだった。

彼の感想ではどんなに幼くても女の子は女の子である。それは、那月に女性性を感じるかどうかではなく、彼の基準から見て「男の子ではない」と感じることがあまりに多いのだ。だが那月が成長すれば、それは彼も知っている「女の子」の有り様に少しずつ近づいていった。


「真治さん、そろそろご飯にしませんか?」

彼は声をかけられて顔を上げた。時計は五時を指していた。随分と集中していたものだ。首から腰までがまるで張り付いたように固くなっている。

「ああ、そうだね。でもあとちょっと」

そう返して真治は再びディスプレイに向かった。データを眺めることで規則性をみつけ、そこからインスピレーションを得たい。彼にとってはよくあることだ。彼の仕事はブレイクスルーが訪れるまで、長く苦しいトンネルがひたすら続くものでもある。彼自身はそれほど苦には思っていないが、実際には厳しいストレスのかかる仕事であった。

だが、それにしてもディスプレイに戻ると何も進捗がないことに気づいた。もちろん、考えていても何も得られず、成果を得られない日など珍しくはない。しかし、それは表面上の話で、普通は彼の中では進捗しているものだ。だが今は、思考自体が前進しておらず、意味のないことに囚われてしまっている。那月の言葉を断っておきながら少々気まずくはあるが、彼は席を立った。


那月は中学二年生になった。大人には見えないが、子供というには彼女という基盤ができすぎている、そんな不思議な感覚であった。彼は彼女がそこにいることに苦を感じないようにはなったが、それでも彼女を自然に受け入れることはできずにいた。

最近は彼女は彼の代わりに家事をすることが増えた。彼にとっては助かるもので、彼女はそもそも家事をはじめる前にこの家にある機材がどういうものなのか教えを請うている。

そして彼女はギターを弾くようになった。彼のギターに触っている時間は、彼よりも彼女のほうが長いだろう。彼女の弾くギターは優しいもので、静かなフレーズを静かに弾くことを好んだ。

彼にとっての彼女を表現するならば、不快ではない異分子、であった。

もう四年前になるだろうか。彼は恵香からある言葉を聞いていた。

――あの子の恋心を、否定しないであげてください。白河さんには笑ってしまうような話かもしれないけど、あの子は本気なんです。

彼にすれば、恋心というものがわからない。少女の恋というものもわからない。まして、彼女のような少女が、老いゆく中年の男に惹かれることもわからない。

だから彼女がこうして彼の家を訪れることも、彼のために家事をすることも、ギターを覚えることも、彼に対する好意だと考えれば納得はできるようで理解はできず、さりとてそれ以外の何かだと納得することもできないのだ。

そしてもし仮に、彼女の好意を理解したとして、それが恋だとしたとしても、彼は老いゆくのだ。四十を過ぎてもう五十を前にしている。彼女はこれから青春の只中を歩いてゆくのだろう。そのとき、彼はもう人生の終幕に向かって歩いてゆかねばならないのだ。

彼にいっそうそう感じさせるのは、オレンジのあのバイクである。

あのバイクには彼の青春が詰まっている。仲間と集まり、他愛のない話をした、未来に憧れた、夢に向かって努力していた、そんな日々をあのバイクが象徴している。あのバイクが側にあり、乗り続けることは彼の青春が道半ばであることの証でもあった。

けれど、彼はあのバイクに乗ることが、つらいと感じ始めている。二百キロを超えるその重さは、大型バイクとしては軽いものだけれど、それでも最近は通りに出すまでに息が上がる。少し遠出をすればクタクタで、帰り道が心配になる。そのしんどさが、彼をあのバイクから遠ざけていた。そして、あのバイクが遠ざかることに、確かな終わりの感触を感じていた。

彼が彼女を受け入れることを考えないのは、単なる年齢差の話ではなかった。出口にいる人間と入口の前にいる人間では、一緒に楽しめる物語がないのだ。そして仮にそれを気にしないことができたとして、一緒にいる時間が残されていないことが彼に恋愛を絵空事として見せていた。


「……ふぅー……」

彼の話を聞いて道昭は重くため息をついた。彼には結局、このことを打ち明けるとすれば道昭以外の人間はいなかった。

「僕はなんとなく分かるよ。真治とは歳が同じだからね。うちはもう、孫がいるし、その子は息子と孫の間くらいだろう。うちり奥さん以外の人を考えるのはちょっと難しいけど、中学生の女の子に懸想されて無邪気に喜べるほど僕らは馬鹿じゃない。ただでさえ、歳を重ねればそれだけ考えなきゃいけないことも増えてるんだ。そこに中学生の女の子、なんていうのを追加されたらいつまでたっても頭は片付かないだろうさ」

サービスエリアでそんな話をしながら、彼は自分のバイクを見ていた。隣に並ぶ赤いバイクは最新型だろう。こうして並べると、自分の青春がどれほど古びたものなのか思い知らされるようだった。

「それに真治がこうして悩んで、応えようと決めたときにはもうその子の熱は冷めてるかもしれない。そんなことに悩むには、歳を取りすぎたかもしれないな」

道昭は上手に人生を歩んだ、と彼は思う。大学を出て就職し、恋愛をして結婚し、子供が生まれ、その子供も志望していた大学に入って就職し、結婚して子供が生まれた。彼は知らない苦労を裏ではしているかもしれないけれど、特異なことに悩むことにはならなそうであった。

「正直、僕は力になれそうにない。もし僕が真治の立場だったとしたら同じように悩み、結論が出せないまま終わるだろうから」

「いや、いいんだ。話せるだけでも、いくらか気は楽になる」

彼からすればあの頃過ごした皆は大人になった。それぞれの人生を歩み、形を成して今それをまとめようというところに来ている。だが、彼にすれば自身はろくな経験も積まぬまま見知らぬ状況に投げ込まれた。そのような状況ではどうしていいかなのど、まるで分かりようがないのだ。

「そういえば真治、他の仲間たちとは連絡をとってるのか?」

ちょうど彼らのことを考えていたために、その話題を振られちょっとドキリとした。彼は首を横に振った。

「それがヒントになりそうなのかい?」

「いや……」

しかし道昭は口ごもった。

「彼らの歩いてきた道がお手本になったりしないか、と思いはしたけど、あまりに短慮だった。真治が直面している悩みには一助にもならないだろう。むしろ、いらぬ心労を増やすかもしれない」

彼にとっても、あの頃の仲間は相応に仲もよく、楽しい日々だったと思う。話をしたくないなどと思おうはずはない。しかし、このような世間憚るような話に躊躇がないかといえばそうとも言えなかった。

「正直なところ、真治に恋愛の経験が足りていないことが、今の状況を悩ましくしているなどということはないのではないか。だって例え人並みに恋愛に長けていたとしても、真治のような状況で迷わず決断が出来るわけではないだろう。もしできるなら、それは浅慮で欲望に忠実なだけではないか」

「深慮で答が出るならそれでもいいかもしれないけれど、僕はいくら考えてもどうすればいいか分からないような気がしているよ」


しかし結局、うまい答は出なかった。それどころか、彼は自分がどう思っているのか、どうしたいのかすら見えてはこなかった。

彼は彼女に出かけている旨メッセージを飛ばすと、そのままバイクを走らせた。

夕暮れは瞬く間に落ちて、ゆっくりと闇が降りてくる。だが、街明かりは十分に明るく、高速道路の光はそれ以上に明るかった。そんな光の川を泳ぐように駆けていく。

昔からそうだった。いや、昔はそうだった。色んなことがありすぎて、頭がいっぱいになり、どうしていいか分からなかった。分からないからバイクを走らせた。口の中に無理やり空気を詰め込まれて、少しずつ頭がクリアになっていく。今生きている世界から離れて少しすっきりできる。理由はなんでもいい。とにかく、自分のキャパシティいっぱいいっぱいになったと思ったらバイクで朝まで走り続けたものだ。

今だって、別にやろうと思えば好きにバイクで走っていてもいい。けれど、そんなことはしなくなった。体力がなくなって、そんなことは難しくなったというのもあるけれど、それ以上に、日々の暮らしが安定したから、衝動的な行動を挟む場所がなくなった。

そう思えば、彼女の存在だけがノイズであり、彼女がいなければ無に近い凪だった。

この先。彼は未来のことを考えた。

このバイクはもうそう遠くない未来、三十年の時を走ったことになる。もともとそう数の出たバイクでもなく、事実上現存しないメーカーだ。当初からそれなりに維持は難しかったくらいで、維持できなくなる日はいずれ訪れる。

そのとき、彼は次のバイクを買うだろうか。ハイテクで、高性能な、現代のバイクを。

彼の仕事はいつできなくなるというものではないが、いつまでも働いている自分も描けない。仕事ができなくなったらなにをするのだろう。

ギターはいつまで弾けるのだろう。手が震えて弾けなくなる日がくるのか。そうなるといよいよ、心の置き場がないような気がしてくる。

自分がなんのために生きているのかということはあまり考えたくはない。日々に楽しさを求めなければ、こうして枯れゆく日に怯えることになるのだろうか。

バイクは、派手な音の割に淡々と走る。派手なようで淡々とした前進。それは彼の人生のようでもあり、ひとつの彼らしさでもあるようだ。だが、それはただの結果だ。そのように見え、そのようにしているということに過ぎない。彼を彼たらしめるものは一体なんだというのだろう。

煌々と照らされた書斎で、輝きを放つディスプレイと向き合い、価値あるものを生み出している時間は、確かに彼が生きた痕跡を残しているはずだ。その生産的な過ごし方は彼に充実感を与え、人生が意味あるものであると感じさせるには十分なものだった。にも関わらず、そんな時間が続くと彼は自分が生きているという確信を持てなくなってしまう。だからこうして時折バイクを乗り出す。こうしてバイクで走っているとき、彼は彼自身の存在を確かに感じることができる。少し大げさに言えば、こうしてバイクで走っているときだけ、生きていたいという気持ちが沸いてくる。

このバイクだって、仮にも七五〇ccもの排気量を持つスポーツバイクなのだ。淡々とした、意外とおとなしいなどという表現を用いてばかりいはすれど、実際には右手ひとつでもっと速く走らせることだってできる。だが、彼はどうだろう。その右手を縛り付けるのは他ならぬ彼なのだ。彼は、ただただおとなしいばかりの人間なのかもしれない。右手一捻りで法を破るこのバイクを解き放つように、彼の彼らしさを曝け出す日は来るのだろうか。

バカバカしい考えだと思いながらも、このバイクで走っているとそんな考えが頭を離れない。彼女は一体何を望むのだろうか。背伸びした恋愛か。ちょっと変わったステータスか。ギターの上手い温厚な彼氏か。あるいは、彼そのものなのか。

今すぐに聞いてみたい気持ちが溢れてくるが、生憎彼女にメッセージを送る方法はない。恵香を経由して聞くような話ではないだろう。かといって、面と向かってそんなことを聞けるはずもない。

そんなそわそわした気持ちは、彼が自宅につく頃にはうまく抑え込むことができた。彼は彼なのだ。ずっとこうしてきた。明日もまた、大人の顔で彼女を迎えるだろう。


それはいつのことだったか。今からすれば信じられないような日々だけれど、確かに彼にもまた青春というものがあった。

道昭とは高校からの付き合いで、特別仲が良かった。ほかに彼の幼馴染と、高校で仲良くなった女子と、この四人でいることが多くはあったが、彼自身は常に特定の誰かといるタイプではなかった。周りには女子が多かったが、遊びにいくのは男子のほうが多かった。彼はコンピュータが得意で、ちょうどコンピュータが世間的に注目を集め始めた頃だったから、ちょっとした話題を呼ぶには十分だったが、それよりもギターのほうが人気があった。

彼は明確な将来像を描いてはいない、ごく普通の高校生だった。ただ、バイクが好きなくらいだ。彼の高校は免許を取るには学校の許可が必要で、なおかつ必要な理由がなければ許可が降りなかった。それを、彼は品行方正で、かつ校内の調和において一方ならぬ貢献を見せていることを鑑みて許可が降りた。彼が生徒会に入らなかったことを残念がる教師は多かったが、実際に生徒会に入っていれば彼は「生徒代表」として学校と戦う姿勢を見せただろうから、むしろ入らなくてよかったと言えるだろう。

彼にとっての青春の本番は大学に入ってからで、大学では男子三人、女子四人の七人のグループでいることが多かった。男子のうちの一人は道昭であり、女子のうちの一人は幼馴染である。彼は勉学に熱心であったし、女子は見た目華やかであるにも関わらずこのグループそのものは真面目なグループであるとの評が高かった。

それ以外にも相変わらず、女子にはモテた。が、なんの因果かついぞ彼が告白されるような事態は訪れなかった。だが、それを理由に彼が灰色の青春を送ったとは言い難い。自分がしたいこと、すなわち勉学に傾倒しながら、傍らには気の置けない仲間がおり、時には馬鹿騒ぎもした。その時だけの若さがなければ送れない日々を、存分に堪能して青春の日々を終えた。

だが、彼の心の景色はいつも一人であった。仲間と過ごす日常がかけがえのないものであることは理解していたが、それでも彼の心を揺さぶり、支えるのはバイクだった。暑さと、寒さと、疲労で崩れそうな過酷な時が、何よりも印象に残り、彼のその時代を象徴した。

だから、彼から見える景色は変わっても、もうずっと彼は彼だった。傍らにはバイクがあり、バイクと共に旅をしては、自分が進むべき道を邁進する。その時々の周囲など、流れ去る景色の一部でしかないのだ。

色恋を望まなかった理由は判然としない。ただ、そこに渇望は生まれなかった。彼がこの先何を望み、旅の終点には何があるのか、彼自身まるで想像もつかなかった。

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