Chap.1 ガラクタ置き場と狼と蝶 Ep.3
彼の日々は変わらず単調に順調であったし、この退屈を彼は愛していた。もはや成果が出ない日々が続いても焦ることはなかった。実証過程でネガティブな結果が出て落ち込むようではまだまだだと彼は知っている。未だ見ぬ世界への扉を開く仕事といえど、そこに至る着実な前進というものがあるのだ。
そんな彼の平穏に波が立ったのは彼女との出会いから三ヶ月ほど経った頃であった。
スマートフォンのディスプレイには宮本恵香という名前が表示されていた。
「あの、ご無沙汰しております。宮本です」
恵香は彼女のことを忘れていることを懸念しているようであった。彼は努めて明るく
「はい。お久しぶりです。那月さんに何かありました?」
彼女が電話をかけてくる理由など他に思い当たらない。近所の人々は変わらず彼を忌むほどだから、積極的に関わり合いたいとは思わないだろう。
「実は、ご相談したいことがありまして……」
ひどく言いづらそうにしていたが、彼としては少しほっとした。可能性としては、那月が行方知れずとなり、片っ端から心当たりに電話しているということもあると考えたからだ。
「電話口で話しづらいことでしたら、出向きましょうか? このまま気にせずお話くださっても構いませんが」
「いえ、そんな……えと……」
彼は言いづらいの中身の類を推測した。この言い淀み方からすれば内容自体よりも表現に困っているのだろうか。整理してから電話したほうがよかったのではないかと思ったが、焦っていないところを見ると緊急ではなく、しかしやむにやまれず電話したのか。
「こんなことを唐突に言うのはおかしいと、分かってはいるのですが……」
内容自体に問題があるパターンだったか? しかし、彼としては思い当たることが何もない。
「那月と会っていただけませんか?」
「…………はぁ」
気の抜けた返事をしてしまった。那月と会う? どういうことだろうか。ありえるとしたら、またギターが聴きたいと駄々をこねたのだろうか。とてもおとなしい子であったから駄々をこねる様子は想像し難かったが、家の中であれば話は変わってくるだろう。それなら別に構わないが、彼としてはギターはわざわざ聴かせるようなものではない。人に聴かせて恥ずかしくない程度だとは思うが、わざわざ聴きに来るようなものではないというのが彼自身の評だ。
「実は、那月は帰ってからずっと白河さんの話をしているんです。最初は珍しい体験だったから印象に残ったのかと思っていたんですけど、毎日、ずっと話してまして……」
自分の話を関わりのない家族の中で出される……なんとなくくすぐったかった。
「それで毎日白河さんに会いたい、遊んでもらいたいと言い続けてるんです。迷惑になるからやめなさいと言ってもきかなくて、しばらくすれば治まるかと思ったんですけどそんなこともなく、このままだと一人で会いに行ってしまいそうで」
なるほど。親としては娘が得体の知れない中年男性に執心しているなどというのはなんとか止めさせたい。だがそれがうまく行かず、一人で会いにいくようなことになるよりは自分の目の届くところで、ということだろうか。理屈は分かるが、那月が執心する理由も、恵香が容認する理由もよくわからない。以前迎えにきたときに会っているし、そのときにも近所からは奇異の目を向けられたはずであるから、関わらないようにしたいのではないかと思うのだが。
「僕は構いませんが…… むしろ宮本さんは大丈夫なんでしょうか。娘さんを僕なんかに会わせるのは心配では?」
「えっ、いえ! むしろ白河さんでなければ絶対にだめだとなんとか言って聞かせようとしたと思います。けど、娘の言うこともわかるので…… ご迷惑、ですよね。本当に申し訳ないです。なんと言っていいか」
「いや、僕はある程度時間に自由が利くので、たまには気分転換になっていいですよ。いつにしますか?」
こうして彼は二度と会うことはないと思っていた親子と再び顔を会わせることになった。
彼にとって不思議だったのは、最初公園でということだったのに、急遽彼の部屋でも良いかと恵香が頼んできたことであった。ギターに関心を持っていたから、やはりギターが聴きたいのだろうか。というよりも、それ以外には何も思いつかない。
彼は人を家に招くのにそれほど困ることはない。理由は簡単で、扱いが大変で繊細な機材が数多くあるために、部屋は可能な限り整頓されているのだ。それは、散らかるとすぐにケーブルは絡まってしまうし、機材のメンテナンスを散らかった部屋で行えば故障につながる。そのため、着替えさえ済ませれば人を招くのにそれほど困りはしない。だが、心理的な問題は別であった。彼はずっと一人で暮らしていたし、故に彼の領域に人が入り込むという状況に非常に不慣れであった。実家にいたときでさえ、彼は彼の部屋を何人かに侵されることはあまりなく、自分の生活空間に他の人がいることをひどく居心地悪く感じてしまう。
そしてこの場合、気にしようと思えば気になることはいくらでもあった。近隣の人は彼のことを一人暮らしであると認識しているだろうし、そこに若い親子が来ることをどう見るだろうか。幼い子供を家に招くことは社会的に問題ないだろうか。この家に彼女を招くことは危険ではないだろうか。彼女が来たら何をすれば良いのだろうか。親子のどちらを相手にすれば良いのだろうか。
もっとも、「会いたい」という要望に対してどのように応えるべきなのか、まるで想像がつかない。これが相応の歳のいった女性であればなんらかの打算や意図があるものとして考えることができるが、幼子となるとそうもいかない。そうしたことを思えば不思議な居心地の悪さが居座った。だから、チャイムがなったとき少し心が踊る感覚を覚えたのは矛盾しているようで妙なものであった。
ドアをあけると那月は彼に駆け寄ってその脚に抱きついた。
「本当にすみません、ご迷惑をおかけします」
恵香のほうはとても申し訳なさそうにしていた。そして那月を窘めたが、那月は意に介さなかった。
彼はひとまずリビングに案内し、お茶を用意することにした。だが、案内した途端に問題があることを理解した。彼は常に一人で生活しており、誰かを招くことはない。そのために、リビングは存在しているし、そこには映画や動画配信を見るために四十八インチのディスプレイがある。ミニデスクトップを起動すればネットフリックスもプライムビデオも、あるいはユーチューブだって観ることができる。共通点を見つけるのが困難な相手と適当な時間を過ごす十分な機能を持っていると言えるだろう。だが、それは自分が観るためだけのものであるから、ディスプレイの前にあるには小さなガラス製のセンターテーブルと、一人がけのソファだ。複数人が同席できる場所など、この家はどこにもない。彼としては彼女らにソファに座ってもらい、彼は床に座れば良いとは思うのだが、ソファの形状を考えても彼女らがひとつのソファに座れるとは思えなかった。
かといってここにチェアを持ってくるのもそれはそれで難しい。立派なエンボディチェアをこのリビングまで持ち込むのも大変だが、高さがまたちぐはぐになってしまう。恵香も困惑していた。
「おふたりでソファに掛けられますか? 僕は座布団を持ってくるので、座って待っていてください」
そう言って彼はキッチンへ向かった。会ったときから彼にくっついていた那月だが、キッチンまでついてくることはなかった。彼はいつも通りの時間をかけてコーヒーを淹れ、それからミルクと砂糖について聞いていないことに気がついた。コーヒーでよかったのかどうか聞かなかったことについては気が付かなかった。
リビングへ戻ると二人はまだ立ったままであった。
「どうぞ掛けてください」
とだけ言って、彼は寝室から座布団を取ってきた。しかしまだ彼女らは着席しておらず、恵香は申し訳ないので自分が床で良いと言って譲らなかった。彼は何度か気にしなくて良いといったが、恵香が譲りそうになかったので結局彼がソファに座った。すると那月は彼の上に座った。即座に恵香が叱ったが、那月はそれを予期していたように反発した。ここで喧嘩するのは申し訳ないと感じたのか、恵香が困り果ててしまったが、彼は彼自身は特に気にしないと言った。恵香はだいぶ迷った上で、咎めるのを諦めたようだった。
「あ、このコーヒーおいしいですね」
「よかった。考え事をするのにちょうどいいから、コーヒーには凝っているんです」
特に会話は続かなかった。那月は彼の上に座っているだけであった。なにかしたい、見たいなどあるものと思っていたのだが、特に何かを催促するわけでもなく、彼の上でにこにこしていた。恵香のほうは、努めて気にしないようにしつつも、どうも彼の住まいが気になるようであった。そういえば前回は玄関で顔を合わせただけであったから、彼女は彼の家を見たのは初めてだ。気になる、の方向性が分からないが、興味深いのではないか、という気がした。
「部屋、気になりますか?」
「あ、いえ、ごめんなさい」
「いえ、大丈夫ですよ。あまり人の家にいったことがないのでわからないのですが、何か気になるものがありますか?」
「あ、えと…… ごめんなさい、なんだかジロジロ見ちゃって。わたしもあまり人の部屋を見たことはないんですけど、見たことないものがたくさんあるなと思って」
「ああ…… そういえば、那月さんもデスクトップPCは見たことない様子でしたね。家ではラップトップを使われているのでしょうか」
「ラップトップ…?」
「ああ、えっと…… ノートパソコンというやつですね」
「ああ…… いえ、わたし、パソコンとか詳しくなくて、家でパソコン使うことってないんです。学生の頃は使ってましたけど、那月も家でパソコン見たことはないんじゃないかな」
「おや、そうですか……」
彼にとっては全くの予想外であった。そもそもパソコンのない家庭というものが存在するというのが彼の想像の埒外であり、そのような可能性は考えたことがなかった。
「うちにはないものばかりでとても不思議な感じがします。 男の人の住まいだなって感じがして」
「はは、僕は家庭を持っていませんからね。自分の好きなことや好きなもので埋め尽くしても問題ありませんから」
そうは言っても彼も別に多趣味というわけではなくて、この家にあるのはほとんどがコンピュータだ。家の中にある趣味の形跡といえばコーヒーミルと、あとはリビングのラックに置かれたバイク用品、そしてギターくらいのものだろう。ギターは寝室にあるから彼女は見ていない。
「素敵なお部屋だなって思います」
彼はそれを世辞として受け取った。彼にすればいささかコンピュータに傾倒している程度で凡庸な部屋に過ぎない。なにかコレクションでもしていれば良いのだけど。
「人を招くことなんて考えもしなかったので、特に楽しめるようなものもないのです。ゲームも一人用のものばかりで。トランプすらなくて……退屈ではありませんか?」
「おじさん、ゲームするの?」
「こら、おじさんじゃなくてお兄さん!」
那月の発言を恵香がすぐ咎めたが、彼は苦笑して手で制した。
「するよ。ひとりで遊ぶものばかりだけどね。一緒には遊べないけど、恵香さんはなにかゲームしたいかい?」
「ううん。おじさんがゲームするとこ見たい!」
言わんとすることがわからず、彼は首を傾げた。もしかしたらゲーム配信などを観るのが好きなのだろうか。現代っ子であればありえることかもしれない。
「見てるだけでいいの?」
「うん。やって?」
彼は恵香のほうを見たが、特に何も意見はないようであった。
「わかった、じゃあ何か遊んでみよう」
リビングに置かれているのはミニデスクトップであり、そこそこ性能はあるものにしてはいるものの、本格的なゲームができるようなものではない。仮にそのミニデスクトップに本格的なゲームをプレイするだけの性能があったとしても、小さい女の子の前で血塗れになるような人気のゲームをプレイするのは適切ではないだろう。
彼はスチームを起動し、目についた2Dアクションゲームを起動した。可愛らしい絵柄でグロテスクな表現もない。問題はかなり難しいということだが。
彼はプレイを見ているだけなどというのは退屈なのではないかと思ったのだが、彼女たちは彼のプレイを夢中で見ていた。既に何度かクリアしているのでプレイはスムーズだ。彼の見事なプレイに彼女たちは拍手をし、那月は彼の膝の上ではしゃいだ。この若い親子が同じようにはしゃぐのは微笑ましい。死にゲーでまったく死なないのは観ていて面白くないだろうとも思ったが、彼女たちにとっては気にならないようだった。
特に何か話すでもなく、なにかするでもなく、こうしてとりとめもなく時間が過ぎていった。
夕方五時になって恵香は彼の家を辞そうとした。しかし、もうその時が近づいていることを感じていたのだろう。那月は少し前から彼にしがみついて離れようとしなかった。
だが、それは駄々をこねる、というようなものではなかった。ただただ、しっかりと彼の服を握りしめ、抱きついたまま泣いたのだ。顔は見えなくても服が湿る感覚が確かにあった。
恵香は困り果てていた。彼にとっても理解はできる。娘が得体の知れない中年男と離れたがらないというのは、親としてはとても困ってしまうだろう。彼にとっては、恵香を困らせたくはないし、那月を泣かせたくもない。
「また、おいでよ。今日で最後じゃないから」
彼はそう言った。
「いいん、ですか?」
恵香が驚いたように尋ねた。彼は恵香からは否定的な反応があるものという前提でどう対応するか考えていたために、この反応にはひどく戸惑った。
「はい。僕が対応できるときであれば、構いませんよ」
恵香はこの言葉に、とてもホッとしたようだった。その反応は彼にはとても不可解で、何を意味しているのか、見当もつかなかった。