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ノックの音

作者: 榎町清志郎

 彼女は確かにそこにいた。足をバタつかせて、そこに座っていたはずだ。

彼女の姿を見なくなってもう一年が経つ…。あれっ? なんで僕は彼女のことなんか考えているのだろう? 心配などしているのだろう? 僕には彼女自身を思い返すことも見かけなくなってからの時間を懐かしむことも許されていない。許されていない、というよりもそんなことをする義理がないと言った方がいいかもしれない。彼女と僕には会話がなかった。そう、僕は彼女と話したことがないのだ。一度も話したことのない人間のことを思い返すなんて馬鹿みたいだ…。

 突如、舞い降りた思考を僕は振り払い、今まで読んでいた文庫本に目を落とした。


 ガタンゴトン、ガタンゴトン。電車の走る音を表す擬音を僕はこれ以外に知らない。昔から「ガタンゴトン」だったはずだ。幼少期、プラレールで遊ぶ時もこの言葉を無意識に口にしていた。あの頃は電車に乗れるのは年に数回だけ、電車が好きだった僕はずっとその時を待ち望んでいたのだった。それが今は毎日電車に乗り仕事に向かっている。電車に乗るのが日常、それがこんなにも楽しくないとは、夢にも思っていなかった…。

 社会人になって五年、朝はガタンゴトン、帰りもガタンゴトン、暇つぶしのために文庫本を読むようになってもガタンゴトン。電車に乗るたびにガタンゴトンというBGMが僕の中を流れていっている。

ガタンゴトンというBGMが徐々に静かになり、駅に停車するために生じる衝撃が身体に伝わってくる。そしてキィ~という耳障りな音を立てて電車は停止した。駅のホームには明かりがついており、電車を待っていたらしい何人かを確認できた。電車のトビラが開き数人の新たな乗車客が乗って来る。長椅子に座っていた僕と隣の乗車客の間に存在する僅かな隙間にたった今乗って来たばかりの男が割り込こむように座ってきた。僕の隣だった乗車客はあからさまに嫌な顔をしながらも何も言わない。心では何を思っているのか…。

「…あ、すいません…」 蚊の鳴くような小さな声を発してロングシートの隅の隅に肩を縮こまらせたのが僕だった。僕の声は発せられたのが嘘のように水蒸気となってどこかに消えていってしまった。もちろん僕の声に反応する他人ひとはいない。昔からこうだったから慣れたもんだ、いちいち気にしていてはやってはいけない。そう自分に何度も何度も言い聞かせる。それが今みたいに自分の存在の一部が否定された時の対処法だった。他人に存在が認められないのならば、自分で僕はここにいるから大丈夫、と存在を必死に創造する。かき消されないように…。

再びガタンゴトンと鳴り響き始めた車内は混雑した状態だった。肩を縮めこませた隅の隅であっても座っていられるだけましであり、ありがたく思ってしまう。それでもとても文庫本など読めた状況ではなく僕は大人しく鞄の中へとしまった。文庫本が読めなくなってしまい、何もすることがなくなった僕は周りの人達を眺める。ほとんどの人達はスマホという小型の画面に目を落とし、ネットの世界へと入り込んでいる。僕も仕事柄スマホを持たないわけにはいかない。メールと通話以外の機能を使用したことはまだないが、だからと言って僕はこのネットの世界に入り込める小さな画面を正面から否定することは出来ない。もはや人間には必要な物である。

ネットの世界に入り込んでいる以外の人達は友人との会話を楽しんだり、疲れているのか寝ていたりしている。中には一月の下旬に入ったこの時期が勝負なのか、制服姿で参考書を読みふけっている受験生であろう生徒の姿もある。学校の帰りであるからに少し休めばいいのにと思ってしまう。彼らに知られれば他人事だなあ、と思われるだろう。でも受験生だった当時の僕もそう思っていた。所詮、苦労している人間の心の内なんて他人にわかるわけがないのだ。誰だって自分が可愛いに決まっている。その人の周りの人の出来事なんて他人事でしかない。苦労する彼らの頭の中は様々な分野の単語や図式でいっぱいなのだろう。

友人との会話を楽しんでいる人達の笑い声が急に大きくなった。参考書を読んでいるとある彼の表情が曇る。苛ついているのか、どんな風に考えているのだろう、と深いところまで読み込もうとした寸前のところでやめておく。後悔してからでは遅いのだ。

「はあっ、」と息を吐くと同時に視界が曇った。僕の掛けている眼鏡が曇ったのだ。その原因はわかっている。普段はつけ慣れていないもの、マスクをつけているからだ。昨日までは付けていなかったマスクを今日になって付けた理由、それは近日インフルエンザが大流行との情報がニュースでやっていたからだ。

それはそうと世の中にはマスク依存症と言われるものが存在するらしい。他人に移さないため、自分に移るのを避けるため。それらの予防とはまた違う使い方。マスクをつけていないと他人の前に出ることが出来ない人間が世にはいるらしいのだ。そういう彼らの心理はマスクを装着していれば落ち着くらしい。僕には到底考えられない。僕は昔からマスクが大嫌いだった。眼鏡が曇るという理由ももちろんあるが一番の理由は息苦しいからだ。マスクをしていれば安心できるって? 冗談じゃない、中に熱がこもって気持ち悪ささえ覚える。

マスクのことを考えていたせいか思い出したかのように耳が痛くなる。マスクの紐のせいだ。これも僕がマスクを嫌う理由の一つだ。マスクをしている自分が嫌で急に気持ち悪くなる。えずくのを防ぐために二、三回咳払いをした。

その直後のことだ、僕の心中に言葉が流れてきた。

『まったく迷惑な奴だ、こういう奴がインフルエンザを流行らせているんだ、こんな奴らは電車に乗ってくるなよな』

恐らく僕のことを言っているのだろう。いや、正確には思っているのだろう、が正しい。この声(心の声)の持ち主は僕のすぐ目の前にいた。僕の座っているロングシートの前に吊革につかまって立っている男、この他人の声だ。

ああ、嫌だ。なんでこんな初めて顔を合わせ、これから会うことも無いであろう男の声なんか聞いてしまったのだろう。僕は昔から他人の僕に対する嫌悪する気持ちを読み取ることが出来る。いや、読み取るというよりも勝手に自分の中に流れてきてしまう。ガタンゴトンというBGMと同じように勝手に流れてくるのだ。なぜ、流れてくるのが自分に対する愛交の気持ちではなくその逆の嫌悪する気持ちなのか? それは僕の方が知りたい。

勝手に流れてくる自分に対するその人の嫌悪感、それは聞いていて気持ちの良いものではないのは当然だ。こんな能力、相当なドMじゃない限り有効活用出来ないのではないかと僕は思うのだが…。そしてこれとはもう一つ、能力が僕にはある。それは自分から相手の心の中に話しかけにいくというものだ。しかし、人々は僕が心の中に話しかけたとしても答えてはくれない。多分、僕の声が聞こえないんだと思う。

僕が心に話しかけにいっても答えてくれはしないものの、その人の考えていることを読み取ることは出来る。これは実際に資料を読み取る作業とよく似ている。その人の様々な人たちに対する気持ち、それが一枚一枚、資料となっているようなものなのだから。

人間には五感がある。それは視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の五つとされる。そして時たまに第六感を持って生まれてくる人間がいるのだ。その第六感は霊感とされていたりして超常的な能力に思われがちだが僕の場合はそんな大層なものではないと思っている。僕が持つ第六感、それは心の感覚、心覚しんかくであると思うのだ。これは心の感覚が他の人達よりも少し優れているだけであって別にサイコキネシスのようなことが出来るわけではない。だからエスパーのようなカッコいい存在とも違う。

だけど僕はこの心を読み取るという力を使わないことにしている。勝手に流れてきてしまう僕に対する嫌悪感はどうすることも出来ないから無視するに限る。それでも家に帰って泣いてしまうこともしばしばある。心を読み取る力、僕はこいつを乱用していた頃もあった。それは中学生の頃だった。

中学生、それは思春期を表す。好きな異性が一人、二人いてもおかしくない時期だ。僕はそんな時期にあらゆる女の子の心を盗み見た。誰が誰を好きなのか、誰が誰を嫌っているのか、そういうことを僕は全部把握していた。今思えば最低な奴だと思う。まったく、プライベートも何もあったものじゃない。そんな最低な僕は当たり前のようにクラスで浮いていた…。

クラスで浮いていた僕。クラスの隅で存在しているのが嘘のようにひっそりと息をしていた。クラスの隅と言ってもそんなにうまい具合に教室の端っこという意味ではない。実際は教室の真ん中で授業を受けていた。そのクラスでの存在意義が隅だったのだ。底辺と言ってもいい。そんな僕に話しかけてくるような物好きはクラスにはいない、と思っていた。がいたのだ。僕にも話しかけてくる子が一人だけいたのだ。

「道端くん、おっはよー」 道端みちはし 太陽たいよう、太陽というまったく似合わないであろう名前が僕にはあった。そして彼女は健気にも毎日僕にこんな風に挨拶してくれたのだ。そんな彼女に僕は蚊の鳴くような声で挨拶を返す。

「…あ、おはよ…う…」 毎朝がこんな感じだったと思う。それ以上僕と彼女が会話をすることはない。というより会話をするための内容がなかったのだ。クラスで一番元気で男子にも女子にも一番人気があった彼女を楽しませる材料を残念ながら僕は持ち合わせていなかった。それなのに朝のただ一言の挨拶をしてくれる彼女を僕は好きになってしまっていた。こんなにも叶わなくて敵わない恋があるのだな、と自分では理解していた。それでも恋は盲目とはよく言ったものだと思う。僅かな希望を持って僕は彼女の心を盗み見た。

彼女の僕に対する嫌悪感は確かになかった。それまで一度も僕の中に流れてきたことは無かったのだから。だから、嫌われてはいない、大丈夫だと思っていた。そんな彼女から見た僕に対する資料、そいつは空白だった…。

なにも書かれていなかった。見事までの真っ白。読み取り不可能の資料。今までにそんな何も書かれていない資料を見たことがなかった僕は混乱した。それでもしばらく考えてみてわかった。毎朝僕に挨拶をしてくれる彼女、そんな彼女には僕になんの興味のかけらもないということを。

そう、資料作成はその人の見ている他人に対する気持ちによって作成される。つまり彼女は僕をなんとも思っていない。見ていなかったのと同じだ。名前を知っていてくれたのにも関わらずその他人のことをなにも思っていない。そんなの人間にはありがちなことだ。

そう僕はその恋で学んだ。

それから僕は他人の心を盗み見るのが怖くなった。他人が自分のことをどう思っているのか、真実が知れるとしてもそんなもの見るべきではない。そう思うようになった。その恋が終わってからというもの僕は他人を出来るだけ意識しないようにした。勝手に流れてきてしまう嫌悪感、それに潰されることが時折あったとしても自分からは知ろうとしない。これらを心がけて生きることにしたのだ。

何よりも他人が心に何を思って生きているのか、それを考えただけでゾッとする。人間なんて汚い生き物。表で言っていることと裏で思っていることがまるで違う。そんなことは知れたことなのかもしれないが彼女の心を盗み見た結果、一層そのことに敏感になってしまっていたのかもしれない。まあ、元々クラスでは浮いた存在だった僕は常に口を閉じ、最低限度の会話しかしないようになった。他人と正面から向き合うことをやめたのだ。

そして時は流れた。他人の心は読めても時の流れまでは止められない。電車の座席の隅の隅で肩を縮めこませている僕が出来上がった。必要最低限のことしか話さなくなった僕、その理解者は社会人になった今もまだ現れない。別に理解者が欲しいわけでもないが…。

僕の降りる駅は終点から二つ前の駅だ。徐々に田舎へと向かうローカル線、だからなのか僕の降りる頃にはあんなに込んでいた車内は嘘みたいに席が空く。肩を縮めこませずに済むのは僕が乗車して一時間ぐらい経過してからだろうか。僕以外に降りる他人がいない駅のプラットホームに一歩、踏み込むように飛び降りた。

プラットホームに降り立った僕はそこからしばらく五分ほど歩く。どこの都道府県にもあるのだろう片田舎を数十メートル先ごとに取り付けられている街灯を頼りに歩く。散村のため建てられている家と家の距離が遠い。自分の住む家までに歩く僅かな距離の間に他人が住んでいるのか、住んでいないのか同じ町の住人ながらわからない家をいくつも通り過ぎる。まさに静謐な空間である。限界集落、とまではいかないだろうがそれに近づいていっているということがここを歩くたびに感じる。

真っ暗な神社を通り過ぎたところで自分の住まいである三階建てのここらでは大きい方の建造物が見えてきた。名称は翌檜コーポである。古い建物だが明るいライトクリーム色に全体が彩られ、若者用にリフォームされている。

翌檜コーポをぼっーと見上げる様に歩いているとふと、おかしなことに気づく。

あれっ? 三階に電気がついている。おかしいな、現在翌檜コーポに住んでいる人物は自分と管理人さんを合わせても四人だけのはずだ。それに一番上の三階、そこの部屋は全部で二つあるが住んでいるのは僕だけのはずだ。誰かが越してきたのだろうか、でもそんな話、管理人さんからは一つも聞いていないと思うのだが…。

あらゆる説を頭で立てながら翌檜コーポに入り、一階にあるエレベーターの方に向かう。途中、管理人室からひょっこりと顔を出したのは管理人の前野さんだった。

「ああ、道端君、今お帰りですか?」 季節外れと思われる擦り切れた下駄をカランコロンいわせ、白い長そでのワイシャツを着て、藍色のスウェットを下に穿いたアンバランスな服装のおじいさん、前野さんが話しかけてくる。裸足で下駄、寒くないのか?

「…あ、はい…今帰りました。…あの…、」 僕は嫌いなマスクを外して答えた。

「ん、何でしょう?」

「…あ、いや、…やっぱり、何でもないです」 三階のことを聞こうと思ったのに何に躊躇したのか自分でもわからないままそう答え、前野さんの前を通り過ぎた。そしてそのままエレベーターの呼び出しボタンを押した。エレベーターは三階に止まっていたらしく一階まで来るのにしばらく時間がかかる。

早く、早く、早く来い。心の中で何度も呟く。何をそんなに急いでいるのだろう? 自分でも不思議に思う。その時だった、「ああ、そうそう!」と大きな声を上げて何かを思い出したらしい前野さんがエレベーターを待っている僕のそばに駆け寄って来た。

「いや~、ごめん。急な話で申し訳ない」

「え…っと…?」 急に謝られ何の話のことなのかわからずに戸惑っていると再び前野さんが言葉を補うために口を開いた。

「道端君、ここ来るときに三階、電気がついているのが見えたでしょう?」

「…あ、はい…」

「実はね、今朝急に連絡があって、私の孫がここに引っ越してくることになったんですよ。それでね、ここだけの話なんだけど…、」 前野さんは僕に耳を近づけ、少し小声になって話を続ける。

「うちはほら、男しかいないから心配で。二階の吉野さんは何してんのか、ずっと部屋に入ったきり出てこないし、同じく二階の村上さんはごっつくて怖いから何するかわからないし、たった一人のかわいい孫を置いとくには不安だったんだよね。だけどね、道端君なら真面目そうだし、きちんとお勤めにも行っているし、安心かなって思ったんだよ。だ、か、ら、同じ三階の住人同士仲良くしてやってくれないかなぁって。…道端君、お願いできる?」

吉野さんと村上さんは同じくこの翌檜コーポの二階に暮らしている住人だ。前野さんの言う通り吉野さんの姿は滅多に見ないし、村上さんはたまに会うけどちょっと怖い。が、それをここまではっきり僕に言うとは前野さんは正直な人だ。

僕のことも言っていたが悪いようには言っていなかった。その時にも僕に対する嫌悪感は流れてこなかった。どうやら前野さんは本当に僕のことを信頼してくれているらしい。

「え、えっと…」 それでも二つ返事で答えていいものなのか、それにどうやら話の流れによれば前野さんの孫というのは…。

「大丈夫、大丈夫! そんなに気張らなくても。うちの孫はいい子だよ。多分、道端君も仲良くなれるって。それにかわいくて美人だからさ。あ、でも手出したらダメだからね。ああ、でも道端君ならそこんとこも大丈夫か~。ハハハハハ」 そう笑って前野さんは僕の肩をバシバシとたたいた。

一体何が大丈夫で大丈夫じゃないのか、ちょっと複雑な気持ちだった。そんな僕の気持ちなどまったく知らない、気にならないかのように前野さんは「じゃあ、お願いね!」と言って管理人室へと消えていった。僕はその前野さんの後ろ姿に向かって小さく「はあ…」と呟いただけだった。

エレベーターはとっくの間に一階へと到着していたが誰も乗ってこなかったためすでにその扉を閉じてしまっていた。再び呼び出しボタンを押す。今度はすぐに扉が開いた。僕はエレベーターに乗り込みながら前野さんに頼まれたことを考えてみる。

仲良くしてやってくれないかなぁ お願いね! 僕は自分からその孫に話しかけに行かなくてはいかないのだろうか?

もし行くとして僕は何と言えばいいのだろうか? こんにちは、管理人さんから頼まれました。お隣の者です、なにかわからないことがあったら遠慮なく僕にきいてねっ! こんな感じだろうか。いいや、もっと真面目に、初めまして隣の道端です。荷物の整理、お手伝いましょうか? こうだろうか。いやいや、初めましてで、頼まれてもいないのに荷物の整理の手伝いって馬鹿か、僕は。

三階に行くまでの僅かな時間、僕はそんなことで頭を混乱させていた。

でも、その時の僕は知らない、その考えが全て無駄になることを。なぜなら僕の心配をよそに管理人さんの孫はエレベーターから降りる僕のことを待ち伏せしていたのだから。


 僕一人を乗せたエレベーターは三階に着くと扉の外に立つ何者かのシルエットを見せた。このエレベーターの扉は透明なガラスではないものの外に人が立っていれば中からでも確認できる。しかし先ほどまでの僕の心配はどうやって前野さんの孫に話しかけるか、だった。まさか向こうからやって来るとは思わない、結果どうしようもない。

 エレベーターの扉が開いた。

「うわあ! 道端さんですよね? 待ってました! いや~、助かります。おじいちゃんが道端さんなら何でも手伝ってくれるからって。あ、ああ、わたし管理人の孫の橋波はしば 詩歌乃しかのです! 以後お見知りおきを」 管理人さん、前野さんのお孫さんはとにかく元気だった。別の言葉で表すのならばうるさかった。それでも嫌な感じは一切しない。その声は全体的に早口にも関わらずはっきりとしていて聞いていて心地よかった。そして彼女は僕の言葉を待たず次のように続ける。

「道端さんって呼んでいいですか? ああ、そうだ。わたしのことは名前で呼んでくださいね。詩歌乃ちゃんでもそのまま呼び捨てでもいいですから」

「…しかの…さん…」 僕には初見の女性を呼び捨てや「ちゃん」付けで呼ぶことなど到底できない。だから「しかのさん」、そう呼ばせていただくことにした。

「…ん、しかのさん。あっははは、まるでシカゴ産みたいだね。でもわたしは生まれも育ちも日本。外国には一度も行ったことはないんだ、これが」

「…そう、なんですか…」 

「…」 僕は久しぶりにプライベートで他人と話した。それも女性と。でもなんだか僕が口を開くたびに的外れなことを言っている気がして怖い。

「う~ん、まったく。おじいちゃんが言ってた通りの人みたいだね、道端さんって。そっか~、よし。道端さんは明日から土曜日だけどお休みですか?」

「え…、ええ…」 そんなことを聞いてどうするのだろうか、考えられるのは荷物の整理を手伝ってくれということだろうか。

「良かったら、今から一緒に食事に出ませんか? せっかくお隣さんになったんですから親睦を深めるということで。…いけませんか?」

「えっ⁉ …僕と…ですか?」 何が楽しくて、しかのさんは僕の様な人間と食事に行こうと誘っているのだろうか? 彼女からは嫌悪感が流れてこない、僕は久しぶりに強く他人が何を考えているのか知りたくなった。

「これから何か予定がありましたか? それともわたしが嫌なの…?」

「えっ…い、いや、そうじゃない…です。とんでもない…です」

「…んふふっ、嫌だ、冗談なのに。真に受けちゃって。予定がないなら大丈夫ですよね。近くにファミレスがあるのを来るときに見ましたから。おじいちゃんに車、借りていきましょう」 しかのさんは半ば強制的に僕の手を掴み、翌檜コーポから外へと連れだした。女性の方から手を掴んでくるなんて初めての経験だった。前野さんから一言断りを得て、車のキーを借りた。そのまま二人で駐車場に停めてある前野さん車に乗り込む。翌檜コーポの駐車場は全部で八台くらい車を停められるが二台しか停まっていない。前野さんの車はスズキのジムニーだった。

「わたしが運転でいいよね」 乗車する前に彼女はそう言って運転席に乗り込む。僕は助手席に乗った。見ればジムニーはマニュアル車だった。

「…マニュアル、運転できないんです…」 僕はオートマの免許しか持っていない。

「あ、そうなんだ! 最近少ないもんね、マニュアル車。それはそうと道端さん、初めて道端さんから喋ったね!」 彼女は手慣れたようにエンジンをかけ、ジムニーを動かし始めた。

不思議と僕は運転しているしかのさんの方に目がいった。会って間もなくの関係なのだから当たり前だが初めてこうやってまじまじと彼女の姿を見た。

しかのさんは映画エクソシストの黒いパーカーを上に着ていて下は青いジーンズを穿いていた。髪型はショートカットで黒い。僕とは違ってくせ毛などは一本もない艶がかったストレートヘアー。顔は美人というよりも童顔で幼い頃から変わらないのだろうなと思わせられる。特徴的なのは笑った時の顔でいたずらっ子の少年を思わせた。さすがに前野さんとは違って下駄は履いていない。気になったのはパーカーにプリントされているエクソシストの文字。ホラー映画が好きなのだろうか?

「ん、あっははは。そんなに見ないでくださいよ~。何か気になることでもありました?それとも少しでもわたしに興味持ちました?」

「…あ、すいません! そんなにじっと見ていましたか? …すいません!」 僕は何をやっている、しかのさんに気持ち悪がられたいのか。そんなわけがない。僕はとにかく謝った。

「謝らないでくださいよ。まるでわたしが怖い人みたいじゃないですか~」 そう言われて、すいませんと僕は呟く。呟いてから、あれっ? と無意識に言っていた。

「あっははは! おもしろいですね、道端さんって」 おもしろい、その言葉の意味は単純、だけど他人から言われたのは初めてかもしれない。

「…おもしろい、ですか? …初めて言われたかもしれません…。ありがとうございます」

「真面目か! あっははは!」

しかのさんはよく笑う。楽しそうだ。そんな彼女を見ていると懐かしい感情が僕の心に芽生えた。他人が何を考えているのか知りたい、そんな気持ち。しかのさんの心を盗み見たい。そんな欲求…。

「道端さん?」

「え…?」

「着きましたよ、ファミレス…。早くいきましょう」 ジムニーを走らせて五分程度、いつのまにか、しかのさんはファミレスの駐車場に車を停めて僕の顔を不思議そうに見つめていた。

店に入って僕たちはテーブル席に座った。しかのさんはハンバーグステーキ、僕はただのハンバーグを、そして二人ともドリンクバーを付けて注文した。注文し終わった後に、しかのさんは席から立ち上がった。

「わたし、飲み物取ってきますよ。道端さんのも良かったら…」 この先を女性に言わせてはいけない、誰の教訓かは知らないが、何となくそう思った僕はしかのさんの言葉を遮ってこう口にしていた。

「僕が行ってきますよ! …あ、えっと、飲み物、何がいいですか?」 

僕の言葉に少し驚いた顔をしかのさんはしたが、すぐに元の顔に戻って「…ありがとう、それじゃコーラをお願い」と言った。

飲み物を取りに行きながら、僕はなぜ今までになく自分がこんなにも他人と会話をすることに積極的なのかを考えた。いつもと明らかに違う自分がいる。しかのさんをもっと知りたい、純粋にそう思った。それはしかのさんが女性だからとかそういった意味は微塵もない。

なぜだ、今まで他人を散々避けて、興味を持たないようにして生きてきたのに。他人を知りたいと思っても傷つくだけなのに…。傷ついたとしてもいい、しかのさんを知りたいという欲求の方がそれに勝っている。

なぜなのかをわからないままに僕はコーラを持ってテーブル席に戻った。コーラの入ったグラスをしかのさんの前に置く。

「ありがとう、道端さん」と言って一旦しかのさんは口を閉じた。しかし、すぐにうん?と不思議そうな顔をして口を開く。

「…でもね、自分の分は?」

「…ん、え…?」 最初、彼女が何を言っているのかわからなかった。彼女は今僕が置いたばかりのコーラの入ったグラスをトントンとつつき、答える。

「飲み物~、道端さんの分の飲み物は~?」

「あ、えっ…、取ってくるの…忘れた…」 しかのさんのことを知りたいという理由がなんなのかを考えるあまりに自分の飲み物を取って来るのを忘れたのだ。

「キャハハハ! え、なに、道端さんって天然? あっははは! もう最高!」 さすがに恥ずかしくなった僕はすぐに飲み物を取りに行った。僕がウーロン茶を持ってテーブル席に戻って来ると先程とは一転して真剣そうな顔をしたしかのさんが待っていた。僕が席に座ると同時にこれまた真剣な声でしかのさんが聞いてくる。

「道端さん、なにか悩んでいることがあるんじゃない? …もし、…もし、わたしで良かったら聞くよ!」

その瞬間、僕がなぜ、しかのさんを知りたがっているのかがわかった。僕は他人が自分に興味がないものだと思い込んでいた。そうなのだと決めつけていたのだ。だけど彼女は違う。彼女は僕に興味を持った上で話しかけてくれている。しかのさんの心を盗み見なくてもはっきりとわかった。例え、僕の行動がおかし過ぎてしかのさんが僕に悩みがあるのだと誤解しているだけだとしても…。

「…え、えっと、あはは…は…は、」 どうしていいかわからず僕は曖昧に笑った。だけど、しかのさんの真剣な目は僕を見て離さなかった。

「道端さん、わたしはまだ、二十歳の社会を知らない子どもです。道端さんに比べたら笑っちゃうくらい、本当になにも知らない…。そんなわたしが話を聞くって言ってもバカみたいかもしれない…。だけど、なにか…、なにか思い悩んでいるのなら教えてください」

そう言われて僕のしかのさんに対する気持ちが大きくなる。僕がもし、自分には他人の心が読めてしまう能力があるんです、としかのさんに言ったら彼女は信じてくれるだろうか? 今まで他人にこんなこと話そうと思ったことは微塵もない。彼女が初めてだ。

「あ、あの…」 気づけば震えて、怯えて、情けない声で僕は口を開いていた。

「はい!」 しかのさんは力強く答える。

「僕は…、実は、こんなこと…言っても、信じてくれるか…、わからないですけど…」



目の先に見える真っ暗な空間からは潮の香りと共にほどよい冷たい風が流れてきている。冷たい風を顔に受けているのにも関わらず僕の顔は熱く紅潮していた。それは僕がしかのさんに全てを話したからだ。僕が他人の心を盗み見ることが出来ること、第六感である心覚のこと、僕がその力を乱用していた過去のことまで、全てを話した。僕が話している間、彼女は黙って聞いてくれていた。全てを聞いてくれたあとしかのさんは急に立ち上がり僕に言った。

「道端さん、海見に行こうっ!」 その提案は予想すらしていないものだったが、僕は彼女に従った。会計をしている間も、ジムニーに乗車して近くの海に向かっている間も僕らは何も話さなかった。その沈黙は何を表すのか、それはしかのさんの心を盗み見ない限りわからない。もちろん、僕にはそんなことは出来ない。出来るわけがない。

「おほっ~、日本海!」 海の見える道の駅に着き、ジムニーから降りたしかのさんの第一声がそれだった。暗闇で海は見えないが波音が聞こえてくる。高台になっており、昼間なら見下ろす感じで海が見渡せるのだろう。

「暗くってよく見えないですね…」

「…」 しかのさんはなぜ僕をここに連れてきたのだろうか、まさか本当に海を見に来たわけではないだろう。

「…道端さん…、わたしが今、何を考えているかわかります? …さっき話してくれたことから道端さんがその…、心覚? でしたっけ。その能力を使うのが怖いっていうことはわかりました。それを承知で言います。…その能力、実際にみせてくれませんか⁉」 

しかのさんはまるでヒーローに出会った少年が実際にそのヒーローに向かって必殺技をみせてくれ、と言っているようにキラキラと輝いた目をして言った。

「あ、あの~。それ、本気で言っていますか?」 思わず僕は尋ね返す。それに対してしかのさんは即答だった。

「もちろんです。わたしの心の中に読まれて困ることなんて一つもありません。だから見てください。わたしが道端さんの能力を信じることができるいい機会じゃないですか」

いい機会、か。まさか初めて能力のことを話した人にやって見せてくれと言われるなんて、思ってもいなかった。でも、確かにいい機会、なのかもしれない。

「…あ、じゃ、あ、見ますよ?」

「どうぞ」

「…本当に、見ますよ?」

「ん、もう、しつこい。どうぞ、見てください」 僕は集中力を高めた。目を細める様にしてしかのさんの心を見た。傍から見たら睨まれているような感覚なのだろうか? 彼女はぎゅっと目をつむり、落ち着かなそうにしていた。だけど、もう止めることは出来ない。

 僕は探す、彼女の持っている資料の中で僕のことが書かれたものを。しかのさんとはさっき会ったばかりだ。恐らくそんなに多くの情報は得ていないはずだ。だからあまり多くのことは書かれていない、と思うのだが…。

 ……あ、あった! これだ。しかのさんの僕に対する気持ち、印象…、それは空白ではなかった。そこに書かれていたのは一言、「おもしろい人」だった。

 おもしろい人、おもしろい人、おもしろい人…。僕の心の中では、とある言葉が蘇る。

「おもしろい人ですね、道端さんって」

これはジムニーの中で僕がしかのさんから言われた言葉だ。どこまで正直な人なんだろう、読み取った言葉がすでに彼女から言われたことがあるものだったとは…。しかも、その一言だけしかない。こんな経験初めてだ…。そこで僕は思い出す、しかのさんの祖父である前野さんもやけに正直な人だったことを。これは…、遺伝、なのか、もしれない。

僕はしかのさんの心を見るのをやめようとした時、妙に存在感のある資料を見つけた。その資料は僕の資料だけでなく他のものと比べても随分分厚い。気づけば僕はその資料を読み込んでいた。


「どうでした? わたしの心の中は。正直者、だったでしょう?」 心を読み取った後にしかのさんは僕にそう尋ねた。

「ええ、正直者でした」

「えっへへ、そうでしょう、そうでしょう。それで、何かわかりました?」

「しかのさんの僕に対する気持ち…、それは、おもしろい人でした」

「…あれっ? それってわたし、言いませんでした? 他に何かありません?」 不満そうな声をしかのさんは出す。だけど不満に思うのも当たり前だ。しかのさんは正直に「おもしろい人」だと僕に伝えてくれていた。これでは、僕の能力を証明したことにはならない。

「しかのさん、あなたは僕に悩みがあるんじゃないかと心配してくれました。ですけど、本当に悩みがあるのはあなたの方ではないですか?」 しかのさんは驚いたように瞳孔を はっ! と開く。それでもすぐに元の顔に戻り、答える。

「人はみんな生きていれば、悩みの一つや二つぐらいあるよ。それはわたしも例外なく、ね…」

「…もちろん、しかのさんの言っていることは正しい。だけど…、」

「だけど? なに?」 少し苛だったようにしかのさんは僕を急かす。言っていいことなのか、いけないことなのか、僕は迷った。それでも彼女だったから、他でもないしかのさんだったから。隠さず伝えてくれて、自我の殻を壊すよう促してくれて、僕にチャンスをくれた人だから。しかのさんの心を見たことで僕はもう一度、人と正面から向き合うことに決めたのだから。

「おばあさんのことであなたは悩んでいる。違いますか?」 読み取ったしかのさんの悩みを包み隠さず僕は口にした。

僕の言葉を聞いたしかのさんは何も言わず、平静を保っているように見せているが、その心は動揺しきっている。僕は強く呼びかけた。

「…しかのさん!」

「うるさい! 黙れっ、黙れっ、黙れっ、黙れっ! おまえに何がわかって言うんだ、メソメソしたクズ男なんかにわかってたまるか! ふざけんな!」

「…っ…」 彼女のあまりの豹変ぶりに僕は言葉を続けられない。だけど僕にはわかる、しかのさんは強がっているだけだ。真意を突かれたせいで、動揺しているだけだ。

「いいえ! わかります。あなたのおばあさんは二年前に患った重病のせいで精神的に病んでしまっている。その病気が治ったにもかかわらず」

「…っゔ…、」 しかのさんは不自然な声を発して涙目になる。

「そしてしかのさん、あなたが気にしているのはここからです。病気になられたのは母方の方のおばあさんで、その精神的な病みはやがて認知症に変わってしまった。おばあさんが認知症になってしまったことで家族関係までもが変わってしまった…」 僕が言葉を続けようとすると、しかのさんが先に口を開いた。

「…やめて! お願いだから…、もう、やめて…。道端さんの能力は十分にわかったから…」 しかのさんは泣いていた。ついには、地べたに座り込んで涙の跡を作っていた。

ただ、申し訳ないことに涙はその童顔にとてもよく似合っていた。


「はい、どうぞ」 ジムニーに乗った僕は先に車内で待っていたしかのさんに紙コップに入ったコーヒーを渡した。コーヒーは道の駅の自動販売機で買って来たものだ。

「…ありがと…」 コーヒーを受け取ったしかのさんは泣き止んでくれたものの、瞼は赤く腫れてしまっている。

 僕は自分用に買ってきたコーヒーを一口すすった。苦い…、ブラックなのはわかっていたがいつも飲んでいるものより苦い。ここで僕はしまった、と後悔する。しかのさんはブラック、大丈夫なのだろうか。慌ててしかのさんの方を見る。

「…おいしいです…。わたし、甘いの苦手で…、だから、おいしいです」 僕の心配に気づいてのことか、しかのさんがそう言ってくれたおかげで僕は胸をなでおろす。でも、一つ僕には謝らなければならないことがあるだろうと、口を開いた。

「あの、先程はすいませんでした! 気に障ることを言ってしまって…」

「あ、いや、そんな、わたしが道端さんを試すようなマネをしてしまったから…。それに道端さんの言ったことは正しいです。全て見抜かれていました…。わたし…、」 そこでいったん、言葉を区切ったかと思うと、口をキリッと結び、覚悟を決めたしかのさんは再び話し始めた。

「わたしのおばあちゃんは明るい人でした。遊びに行けばいつもニコやかにわたしや父と母を迎えてくれて…。ずっと、いい家族だと思ってました…。だけど道端さんの言うようにおばあちゃんが認知症になった途端、父がいつもと違う対応をとるようになって…。母はかばってくれてはいたけど、今度は父の両親を馬鹿にするようになって。しかも、二人ともそれを直接、言い合ったりしないんですよね。それぞれわたしに愚痴を言うようになって…。最後に、なあ、しかのも、そう思うだろうってわたしに同意を求めるんですよ。じゃあ、いったい、あのいい家族はなんだったんだろうって思うようになって、そしたら、急に人の裏を見たような気分になって、一緒にいるのが嫌で嫌で仕方なくなった。だから、大学に入ったらおじいちゃんのやっているアパートに行こうと思ったんです。そうすれば、施設に入ったおばあちゃんの傍にいられるし、両親からも離れて暮らせるので」

 そうだったのか、と僕は理解したと同時にしかのさんの気持ちがよくわかった。僕も人の裏を見るのが嫌で今まで人と距離を置いていたのだから。心を読み取ったからといって、もちろん事の成り行きなどの全てがわかるわけでは無い。本人から直接話を聞いてわかることもある。

「人の裏を見てしまって、人と関わりたくない、信じることが出来ないっていう気持ちになるのは僕もよくわかります。だけど、しかのさんにわかってもらいたいのはそんな人間ばかりじゃないってことなんです。…説得力ないですよね、僕も今日、そのことがわかったばかりなんですから…」

「えっ、それって…?」 まさか、と言ったような顔をしかのさんは僕に向ける。

「ええ、しかのさんのことです。今日、あなたに会えて、能力のことを話せてよかったです。僕はしかのさんに救われました」

「…んん! …よく、そんな恥ずかしいことがすらすら言えますね。最初はあんなに話すのが嫌そうだったのに…」

「それは、何というか…、否定はしませんけど、でも、しかのさんのことはもっと知りたいと思っていましたよ!」 その瞬間、しかのさんは驚いたような顔をしたかと思うと、顔を赤くさせていた。

「…へ、へぇ~、わたしのことが知りたい…、意外ですね、そんなことを思っていたなんて。…いいですよ、わたしのことぐらいなら、何でも答えますから」

「あ、じゃあ、しかのさんってホラー映画好きなんですか?」 僕がその質問をした瞬間にしかのさんはちょっと残念そうな顔をした。

「えっ…、なんだ…、そんなことか…」

「ダメですか?」

「ダメではないけど、なんでそんなことが知りたいんですか?」

「その、エクソシストのパーカーのことなんですけど…、最初車の中で見た時から気になっていて…」 僕はずっと気になっていたしかのさんの着ているパーカーを指差して尋ねた。

「ああ! これか。このパーカーはわたしの趣味ですよ。今はエクソシストですけど、一番のお気に入りはフレディ・クルーガーです」

「エルム街の悪夢ですか」

「ええ、そう!」 

その後、数時間を通してホラー映画を語る彼女はその日一番の笑顔で楽しそうだった。



 ガタンゴトン、ガタンゴトン。僕が乗った仕事帰りの電車はいつも通りのBGMを奏でていた。今、僕の手の中にはスマートフォンが握られている。画面に表示されているのは某無料通話アプリのトーク画面だ。

 本日は月曜日、しかのさんと出会った金曜日から二日が過ぎた。しかのさんが僕の能力を知った次の日の朝早くから彼女は僕の部屋に訪れてきた。要件は荷物の整理を手伝ってもらえないか、と言うものだった。僕には断る理由なんかない、もちろん二つ返事で了承した。しかのさんの部屋は僕の暮らしている部屋とあまり変わらない広さで、段ボールがいたるところで山積みにされていた。僕が手伝ったのは段ボールから中身を出すことだけで、物の配置は彼女がしていた。その配置された物というのはホラー映画界に君臨する数多くのキャラクター達だ。映画の広告ポスターなどもあり、部屋は簡単なお化け屋敷のような状態になる。お昼になれば前野さんが部屋に訪ねてきて、出前取るからと僕もご一緒にということになったので遠慮なくいただいた。

 日曜日にはほとんどの物が片付いたので、再びジムニーを前野さんから借りてしかのさんの運転で近くのスーパーマーケットに行った。色々とお世話になったから夕食を作らせてくれとしかのさんは言った。一度はこれ以上甘えては悪いと思い断ったが、しかのさんは、表情を曇らせた。そして、そのまま彼女の瞳が…。その瞬間、僕の背筋に寒気が走った。慌ててそういえば冷蔵庫に何もなかったからやっぱりごちそうになってもいいかな、と彼女に尋ねている自分がいるのに僕は驚いた。

 どうやら、僕はしかのさんに泣いて欲しくないらしい。いくら、彼女の童顔に涙が似合うとしてもだ。

 夕食を済ませ、食事のお礼を言い、自分の部屋に帰ろうとした時、しかのさんは僕の電話番号を教えて欲しいと言い、某無料通話アプリもしないかと誘ってくれた。僕はそのアプリをインストールし、アプリ上初めての SHIKANO と友達になったのだった。

 手の中のスマホが振動した。画面の上の方に SHIKANO の名前が出る。あ、しかのさんだと僕はたった今来たばかりのメッセージを見た。

 :お仕事、お疲れさまです !(^^)!:

 たったそれだけの言葉だったが、嬉しさが込み上げてくる。電車の中なのに、周りに人がたくさんいるのに、どうしても口元がにやけてしまう。

 しかのさんともっと会話がしたい、だけど僕の話なんか彼女にはつまらないだろう。それならば、僕はもっと彼女の話が聞きたい。そう思ってこう返事した。

 :ありがとうございます。また、ホラー映画の話、聞きたいです:

 返事はすぐに帰って来た。

 :それなら、今週末一緒に映画でも観ましょう。とっておきのを借りておきますからね:

 :楽しみに待っています:

 次の週末もしかのさんと過ごせると思うと何となく胸が躍った。スマホを鞄にしまいながら、代わりに文庫本を取り出す。そこで、僕はあれっ、と気づく。さっきまで僕はこの電車に乗っている人達と同じようにスマホを操作していた。しかも僕の友達? でいいのだろうか。恋人ではないが、ただの友達とも違う。そうだ、理解者だ。しかのさんは僕の理解者だ。

つまり、僕が気づいたのは二日前までスマホで連絡を取るのは仕事関係の人達ばかりだった。それが、しかのさんと出会ったおかけで、僕もこの電車に乗っている人達と同じように何気なくスマホを操作していたのだ。当たり前のことが出来ている幸せ、そいつを僕は噛みしめていた。その時だった…、

『トン、トン、トン。失礼しまーす。な~んって言っても聞こえないか』

僕は驚きで文庫本を落とした。しかし、拾うこともしないまま、急いで顔を上げる。

どこだ? どこだ? どこにいる? 必ずいるはずだ。僕はロングシートに座ったまま必死に辺りを見回した。僕の周りにいた乗車客の何人かは突然きょろきょろしだした僕を怪訝な目で見てくる。だけど僕は気にもとめなかった。

『え、どういうこと? もしかして、聞こえて、る?』

再び声が流れてきた。……はっ! と僕は目の前を見る。車内はいつも通り混んでいる。それでも人々の立っている僅かな隙間の向こうにいるようだ。目を凝らして向こうの座席を見ようとする。すると、黒いスカートからのびている細くて白い綺麗な足をバタつかせている人物がいるのがわかった。どうやら、僕の心の中に話しかけてきた張本人は目の前にいるらしい。

『トン、トン、トン。聞こえてますか?』

『は、はい、聞こえています』 僕は心の声で人々の向こうにいる声の主に言葉を返した。

 『うそっ、本当に私の声が聞こえているの? 今までこんなことなかったのに…』

 『僕も初めてです。まさか、僕以外にこの能力をもっている人がいたなんて…』

 僕たちは心の声を利用して話し合った。声の調子からして女性であるようだった。

 『…本、取ったらどうですか? 周りの人達に怪しまれていますから。早く…!』 そう言われてようやく僕は落とした文庫本を拾った。そのまま何事もなかったように文庫本を開く。文章を読む振りをしながら向こうにいるのであろう僕と同じ能力を持つ女性に話しかける。

『あ、あの~、聞いてもいいですか?』

『もちろんです。私も色々と聞きたいことがありますから』

『そ、それじゃあ、えっと、いつからこの能力を?』

『生まれた時から。…あなたは違うのですか?』

『僕もそうです』

『ん~っ…、でも、この能力をもった人間が本当に私以外にいるんですね、驚きです。…そうだ、自己紹介がまだでしたね、私は桝野ますの 素直すなお、です。一応、花の女子高生やっています』

 女子高生! まさか…、と僕は素直に驚き、それをそのまま、心の子で呟いていた。

 『うそじゃないですよ、そこまで慌てる必要がありますか? …ああ、でもお互い顔が見えませんからね。その驚いたところから見て私より年上ですか?』

 『もう、5年間、大学卒業してから会社に勤めているよ』 どんな顔をしているのかはわからないが、素直と名乗る少女の話し方からして知的なものを感じる。

 『…嫌じゃない? こんな能力をもっているなんて…、心は読まなきゃ、知ることは出来ないけれど、それでも一番知りたくない感情はどうしても流れてきてしまうから…』

 『悪心のことですね、そういう場合はそいつの心を読んで弱みを握ってやりますよ。それと、この能力を嫌だと思ったことはないですね。素晴らしいじゃないですか、使えるものは何でも使わなきゃ損じゃないですか。学校のテスト一つをとっても賢い人間の心を覗けばその回答を知ることが出来るんですから。ま、私はそんなことしなくても自力でできますけどね、テストぐらい』 その子の言葉を聞いた僕は衝撃を受けていた。まさか、そんな考え方があったとは…。でも、そういう能力の使い方があったとしても僕には出来なかっただろうな、と思いいたる。

 『あなたは使わないんですか? この能力』

 『道端太陽…、僕の名前だよ』 彼女は名乗ったのに、僕だけ名乗ってないのはおかしいと思い、自分の名前を告げた。

 『…そういえば聞いていませんでしたね。…覚えておきます道端さんですね』

 『僕は…、あまり使いたくないな、この能力。僕は心覚って読んでいるんだけど…』

 『心覚……、いいんじゃないですか。おもしろい名称だと思いますよ』 素直という少女はどこかつかめない雰囲気というか、性格をしている、なんとなく僕はそんな気がした。

 『それと、心覚を使うか、使わないかも道端さんの自由ですよ。私は使うことを選んだ人間ですが。この先の人生でも幅広く利用してやりますよ。…ああ、私は次の駅で降りるんで。私はだいたいこの時間のこの車両にいますから、いつでも話しかけてください。私的には話し相手が出来てとても嬉しいです。それでは…』 素直がそう言うと同時に電車が駅に停止した。停止と同時にたくさんの乗車客たちが立ち上がる。どうやらその全員がこの駅に降りるらしい。最後まで素直がどのような人物なのか確認することは出来なかった。


 チーン、と音を立てて電子レンジが停止する。僕はすぐに電子レンジから夕飯の弁当を取り出した。これは会社から帰る際に閉店間際の店に寄り、定価より安く買って来たものだ。

弁当のフタを外し、付いてきた割りばしでいただく。

「能力は使わなきゃ…、損か…。そうかもしれない…、でも嫌だな」 本日、帰りの際に偶然出会った素直の言葉を僕は思い出していた。初めての同類とでも言おう素直は僕と真反対の考えをもった少女だった。それでも、こうも言っていた。使うか、使わないかは自由だと、否定されたわけでも固定されたわけでもない。つかみどころのない少女ではあったもののそこまで悪い人物にも僕には思えなかった。

 大体毎日、あの電車のあの車両に乗っていると素直は言っていた。何が知りたいわけでも、何かが知れるという確証があるわけでもない。だけど、僕にはもっとこの能力について知らなければならないという使命感が漠然と芽生えていた。

 次の日の帰りの電車、僕と素直は再び会うことが出来た。それでもやはりこの時間帯は電車が一番混むのか、向こうの座席にいるはずの少女の顔は見ることは出来なかった。最初に僕は昨日考えていた質問を投げかけた。

 『君は、この能力についてどう思う? なんで僕たちなんだと思う?』

 『それは…、どうなんでしょう。でも、この能力を授かったからには何かわけがあるんだとは思います。これは父が以前に言っていたことなんですけど、物事にはそうなるわけがどこかに必ずあるものだと。だから、私たちがこの能力を手にしたのにも何かわけがあるんでしょうね。まあ、それを知りたくて私は相手に何振り構わず話しかけていたんですけどね。心のドアにノックするつもりで…』 そうか、それで彼女の声が聞こえた時、「トン、トン、トン」と言っていたのか。それにしても、僕と同じ能力を持った人間に会うまで素直はどれだけの人達に話しかけたのだろうか? 気になった僕はそのことについても問う。

 『え、ええっと、昨日も言ったように私には生まれつきこの能力がありました。だから、結構幼い頃から人の心には話しかけに行っていました。ですけれど、答えてくれたのは道端さん、あなただけです。数に表したらとんでもない人数でしょうね』

 そうか、そう考えると僕と素直、同じ能力をもった者同士、出会ったのはほぼ奇跡に等しいことなのかもしれない。

 『それにしても、今日も混んでいますね。道端さんの顔を見ることもできませんよ』 突如、そう彼女は言った。

 『まったくだね、お互いの顔が見えないんじゃ、他の場所で会ったとしてもわからないからね』

 『そうですね。それでは、もう少しお互いのことが知れる様に心の読み合いでもしますか? ああ、でも道端さんはあまり人の心を読むのが好きではなかったのでしたね』

 僕は少し抵抗を覚えながらも、別にいいよ、と素直に答える。だけど…、

 『良くないですよ。嫌なことは嫌とはっきり言いましょうよ。そりゃあ、私でも嫌と言えないことはあるでしょう。ですが、同じ能力を持つ私達なんですから、他でもない私達なんですよ』 そう、素直は言ってくれた。僕の方が年上なのに情けなかったが、ありがたかった。そこで、僕たちはルールを決めた。お互いのプライベートは侵さないように自分たちの心は見ないこと、話すときは心に直接語り掛けて話し合うことと。

『それでは、私から質問いいですか?』

 『もちろん、何でも聞いていいよ』

 『道端さんは、恋人いますか? 現在系でお願いします』

 『残念ながら、いないね…』

 『そうですか、私もです』 このやり取りに意味はあるのか、ないのか、恋人はいますか、の質問を最初としたこの後、素直が電車を降りるまでの間、素直による質問攻めにあった。質問の内容は好きな食べ物はなにか、どんな趣味があるか、など心を見れば知れることを素直は律儀に一つ一つ聞いてくれた。

『なるほど…、普通ですね』 全ての僕の答えを聞いた素直の感想がそれだった。

 『それでは…、私はここで降りるので、また』 そう言って素直は立ち上がる。それでも、周りの人間のほとんどが立ち上がるので素直の顔は確認できない。

 今日も素直の顔は見えないか、とあきらめた時だった。最後に電車を降りようとしていた制服の少女がこっちを振り向いた。振り向いた瞬間に少女の肩に乗っていた長い黒髪がフワッと風を受けたように膨らむ。

 こっちを見た少女の顔は儚く、薄い唇が印象的だ。薄い唇の端をほのかに上げ、こっちを見ながら微笑んで見せる少女は大人しそうな印象に反して大きく手を振っていた。

 あの少女が素直か。なぜか、能力の有無に関わらず親近感を感じた。しばらく見つめて素直がマスクをしていないせいだと気づく。マスク、嫌いなのだろうか、と思った。遠慮なく大きく手を振る素直に対して僕は小さく手を振り返すことしかできなかった。その僕の様子を見た素直は『何ですか、もっと大きく手を振ってくださいよ』と心に語り掛けてくる。

 『…ごめん、気が小さいもので…』と僕は申し訳なさそうに謝った。

 僕たちはそれからよく話すようになった。真剣に心覚について話し合うこともあれば、どうでもいい日常のことについて相談しあうなどして時間は過ぎていった。正直言って僕は充実した日々を過ごしていたと思う。能力を理解してくれているしかのさん、同じ能力者である素直、彼らと知り合うことが出来たことは僕の人生において転機と言えるだろう。



 『どうでもいいことですけど昨日、猫を拾いました』 一年間において僕が一番嫌いな季節、春に入った四月上旬、素直はそう話しかけてきた。ちなみに僕が春という季節を嫌う理由、それは慣れ親しんだ環境を追い出される可能性が僕にはあったからだ。僕の属する仕事場の移動、それが僕には嫌だった。でも今年はそうならずに何とか済んだ。昔からクラス替えが嫌いだった僕は春を良い風に言っている人達の言葉が信じられなかった…。

 『へぇ…、猫か。名前は決めたの?』

 『モニャさん、っていいます』  へぇ…、それは、また、すごい名前にしたものだなと思ったがもちろん声には出さず、その名前にした経緯を僕は聞いた。

 『それはもちろん、モニャ~って鳴くからですよ。まだ子猫なんですけど全体的に灰色でモフモフしていますよ』

 『…モニャさんは何か言ってた?』

 『ああ、そうそう、それを言おうと思ってたんですよ。動物の心って読めませんよね、私達の能力でも…。でもモニャさんは言っていました拾ってくれてありがとニャンって』

 『……そ、それは良かった』 素直にこんなことを言う一面があるとは思わなかった。どうやら、僕が思っているより普通の女の子なのかもしれない。

 電車がキィ~と嫌な音を立てて駅に停車する。あ、素直の降りてしまう駅だ、と僕はまだ話していたくて、名残惜しく思ってしまう。

 『…また、会えますよ。それでは、また…』 心を見ていないはずなのに素直はそう言ってくれた。もしかしたら、名残惜しいのは僕だけではなく、素直も…、いや、やめよう。考えるのはよそう。


 僕が素直と別れ、翌檜コーポの自分の部屋のある三階にエレベーターから降りた時、部屋に入ろうとしていたしかのさんと鉢合わせになった。四月になった今彼女は推薦で受かった大学に通っている。

「んん、道端さんじゃないですか~。 お久しぶりですね。今帰りですか?」 僕の姿をとらえた途端にしかのさんは僕の傍まで寄って来た。

「こんばんは。僕は今帰りだよ、しかのさんも?」

「はい、そうです」

「大学には慣れた?」 しかのさんの通い始めた大学は海洋学の専門大学であって僕には彼女が何を学んでいるのかさっぱりわからない。

「どうなんですかね。何人かとは話しましたけど、友達になれるかどうかはわからないよ。でもまあ、わたしには道端さんっていう話し相手がいるから大丈夫ですけどね~?」

 え…、それはどういう意味だ。今のしかのさんの言葉の真理が知りたい。そう思った途端に素直の言葉、「使えるものは使わなきゃ、損じゃないですか」が蘇る。僕は迷いなくしかのさんの心を見た。一度目と違ってスムーズに彼女の心が読める。


 誰も話しかけてくれない。でも、わたしから行くのは嫌だ、怖い…。誰もわたしのことはわかってくれない。他人と話すのは嫌だ。人間は怖い、嫌い。…でも、道端さんならわかってくれる…。あの人なら…、


「…それじゃ、ダメだよ」 自分でもびっくりするくらい冷たい声で僕は答えていた。

「えっ…?」

「しかのさん、僕みたいな人間と一緒にいて満足しているだけじゃダメだよ。本来、僕は君みたいな明るい子と仲良くなるような人間では断じてないんだ。しかのさんだったら友達くらい簡単に作れるはずなんだから」 自分でも何でこんなことを言っているのかわからなかった。だけど、言っていることは正しいはずだ。もし、僕みたいな人間に関わったばかりにしかのさんが友達を作ることをやめてしまったら…、しかのさんはそんな風に言っているように僕には聞こえたんだ。

「なんで…、なんで、そんなこと、言うの? わたしは邪魔ですか? いらない人間ですか? わたしはただ、道端さんと話していたいだけなのに…」

「…い、いや、そうじゃなくて…、」 僕の言葉を聞く前にしかのさんは走り出していた。エレベーターには乗らず、そのまま階段を駆け下りてゆく。僕は鞄を傍に置いて、その後を追いかけた。

「おじいちゃん、車借りるね」 一階に向かって走っている途中、しかのさんがそう言っているのが聞こえた。車でどこかに行く気だ。走りながら僕が思ったこと、僕は走るのが遅い! なめているのかって言うぐらい遅い!

「しかのさーんっ! 待って!」 僕はほぼ叫ぶように声を出す。視界には大声を出して走る僕を管理人室から茫然と眺める前野さんがあった。だけど、そのまま僕は駐車場まで走る。あと一歩、というところでブォーンとエンジン音をふかして、しかのさんの運転するジムニーは僕の前を走り抜けていった…。

「はあっ、はあっ、はあっ~!」 僕は手に膝をついて呼吸を確保する。ああ、クソったれ、僕のバカ野郎! 言葉を選びやがれっ!

「ああ~、何でだ! なんでこうなるんだ!」 感情的になって思わず口に出てしまう。すると突然、ポンと肩を叩かれる。はっと後ろを振り返れば、あとを追って来た前野さんが立っていた。

「まあまあ、詩歌乃はすぐに戻ってくるよ。何があったかは知らないし、聞かないけど、とりあえず中に入ろうよ、道端君」 

「…あの、すいません…」 僕はその一言しか言えなかった。


「まあまあ、座ってよ、道端君。今、お茶入れるからさ」 僕は前野さんに促されるままに管理人室に入り、パイプ椅子に座らされた。正直に言ってこのまま何事もなかったかのように自分の部屋に戻るのは嫌だった。数か月前までは一人でいるのが当たり前で、それが一番落ち着く時間だった。だけど、今は違う。人と話していたい、一緒にいたいと思う時が多くなっている。僕はどうしてしまったんだ…。

「はい、お茶」と言って目の前に暖かいお茶の入った湯呑を前野さんは置いてくれた。

「ふぅ~っ…」と言って前野さんも僕の前にパイプ椅子を持ってきて、腰を下ろす。

「上手く言えないけどさ、君も詩歌乃も人間臭いよね」 しばらく沈黙が続いたのち、お茶を一口すすった前野さんは突然、そう言った。

「え…? 人間臭いですか?」 何のことかわからず僕は聞き返す。

「そう、そう。…いや、悪いことじゃないんだよ、むしろいいことだと思うよ。私も全部見ているわけじゃないし、当然知らないこともある。……そうだ、前から聞こうと思ってたんだけど詩歌乃は君にとってどう見えた?」

「…最初は明るい人だと思いました。だけど、無理している面もあると思います」 僕は思っていることをはっきりと伝えた。

「うん、そうだね。…君も知っていると思うけど、詩歌乃は数年前に大きな病気を抱えってしまってね…、長い間、学校を休んでいた」 その瞬間、驚きで言葉が出なかった。前野さんは僕の驚きに気づかないのか説明なしにそのまま話を続ける。

「二十歳で大学に入ったんだ。長い間、人と接することがなかったから、怖かったと思う。だから、少しでも人に慣れるように君を紹介したんだ。君にならあの子をわかってもらえると思ったしね」 何かの間違いじゃないのか、あのしかのさんが病気だったなんて…。いや、間違いであってほしい。そうだ、前野さんはしかのさんの祖母と勘違いをしているのじゃないか? そんな現実逃避のような考えを僕は我慢できずに口にした。

「あ、あの! 病気なのはおばあさんなのでは?」

「ああ、それも知ってたの! 随分と仲良くなったんだね、詩歌乃がそんなことまで人に話すなんて…、やっぱり君に頼んでよかった…」 本当に安堵した表情で前野さんは言った。

「そうだよ、詩歌乃の祖母、つまり私の妻になるんだが、ちょっと記憶がね、今は施設に入っているんだけど。詩歌乃も随分と心配してくれていたなあ」

 何ということだ。僕はまったくしかのさんの病気のことなんか知らなかった。二十歳だと聞いた時も特に気にしていなかった。心を見ても彼女の病気に関する資料なんか一切なかった…。

もしかして…、彼女は…何も気にしていないのか…? 自分が病気だったことなんか…。それどころか、自分の祖母の心配や僕の心配をしてくれていた…。

やっぱり、この能力なんかに頼っているだけじゃ、重大なことを見落としてしまっている。僕は何と言った、しかのさんになんて言った。

「それじゃ、ダメだよ」

これを聞いた時のしかのさんはどんなにつらかっただろう。彼女は彼女の辛いものを乗り越えていたんだ。それを知らずに僕は…、なんて馬鹿で、愚か者なんだろう。

しかのさんは今、どこにいるんだろう。どうしたら、どうしたら、どうしたらいい? どうするべきなんだ?

そうだ。僕はしかのさんと交換した某無料通話アプリのことを思い出してポケットの中を探る。ない、ない、ない、なんでない? …鞄の中だ! 僕は鞄を三階に置きっぱなしにしてきたんだ。僕は思い立ったらすぐに立ち上がっていた。

「すいません、前野さん。しかのさんに電話してもいいでしょうか? 携帯は三階に置きっぱなしにしてあるんですけども…」

「…ふっ、アハハハ。…道端君、君も突然だね。まったくっ、いいとも、いいとも。ただし、メッセージじゃだめだよ。電話してあげなさい。きっと、詩歌乃もそう望んでいるはずだから」

「ありがとうございます!」 僕はそう言って、すぐに三階に向かった。

「そういうところが人間臭いんだけどなぁ、道端君は…」 道端太陽が走り去った後、管理人室では管理人前野がそう呟いた。


 僕は三階まで走った。三階に着いた僕は廊下に転がっている自分の鞄を手にとる。中からスマホを取り出し、アプリを起動させ、 SHIKANO の名前を見つけた。タップして電話を掛けようとしたところで手が止まる。

もし、もし、しかのさんが電話に出なかったら、僕の事なんか嫌いになって、二度と会話も出来なかったら…。そんな恐ろしい考えが頭をよぎる。嫌だ、それは嫌だ。僕はしかのさんに嫌われたくなどない。

だけど、ここで電話しなかったら…、僕はもう二度としかのさんに顔向けできなくなってしまう。ここで、謝るんだ。意を決した僕は通話の部分をタップした。

プルルルッ、プルルルッ、プルルルッ…、出ない。三十秒くらいがとても長く感じる。

やっぱり、もう、僕は…。諦めて電話を切ろうとした時、電話に何者かが出た。

「…もしもし…。詩歌乃ですけど…」 電話に出たのはもちろんしかのさんで声は当たり前のように不機嫌だった。

「…良かったぁ~…。じがぁのざ~ん、ごめん、なさい…」 それでも、電話に出てもらえた安堵感は強かった。気づけば僕は泣いていた。涙が次から次へとあふれてきてかけている眼鏡を濡らして視界を悪くさせる。人を思って泣いたのはいつぶりだろうか、それほどに僕はしかのさんに嫌われたくなかった…。

「…ふっ…、それでなにか、御用でしょうか?」 声が少し明るくなり、ちょっと笑ったようにも思える。

「しかのさん、まずは謝らせてください。この度は誠に申し訳ございませんでした…。僕は…、僕は…、あなたを知ったつもりでした…。だけど本当は何も知らない。心は読めても、あなたの過去までは知らなかった。だからって、あなたを傷つけたことには変わらない…。本当に…、ごめんなさい」 僕は謝った。心の底から謝った。涙が握りしめているスマホを伝って手までを濡らしてくる。しかのさんはどう思ってくれたのか、許されるなどもちろん考えてはいない…。

「…はあ…、とりあえず泣かないでくださいよ。女であっても好きな人に泣かれるのは気が引けるんですから…」

「ゔえっ! い、いま、何とおっしゃいましたでしょうか?」 も、ももも、もしかして、しかのさんは、す、好きって言わなかったか!

「ふんっ、二度も言うわけないでしょう! 帰ったら返事聞かせてください。今から帰りますから」 そう言ってしかのさんは通話を切ろうとする。

「あ、あ、ちょっと待ってください。切らないでください。一つだけ言わせてください!」

僕がしかのさんにどうしても言いたかったこと、それは理由になっていないけれど、どうしても言いたいこと、言わなくちゃいけないこと。

「僕はあなたの全てをわかってあげることは出来ないけれど、あなたと共に歩みたいと思っている、忘れないで…。それでは翌檜コーポの前で待っていますので、気をつけて帰ってきてください。それじゃ…」

通話を切る間際、しかのさんが小さく「バカっ…」と呟くのが聞こえて通話は切られた。

僕は鞄だけを自分の部屋に置いて、玄関に向かった。管理人室の前を通る時、前野さんと目が合ったが、それだけで全てを彼は悟ったようで一言だけ呟いて、管理人室の奥に引っ込んでいった。

「車のキーは明日でいいから、そう言っといて、それじゃ、おやすみ…」 前野さんが奥に入ると管理人室の電気は消えた。

そのまま僕は駐車場に出た。翌檜コーポの前には樹齢何年かはわからないが幹の太いしだれ桜が一本だけ生えている。もう満開であって、辺りに桜の花びらをまき散らしている。最初僕がこの翌檜コーポにやって来た時は五年前の春過ぎだった。もう、すでに花の散ってしまったしだれ桜は柳の木にしか見えず、薄気味悪いなと思ったものだったな、とふっと思い出す。

 駐車場に出てきて十分くらい経っただろうか、どこからともなく前野さんのジムニーのエンジン音が聞こえたと思うと、間もなくしてジムニーが駐車場に入って来た。ジムニーのヘッドライトが眩しく、思わず目を細める。運転席には間違いなくしかのさんが乗っており、目が合うと、わざと違う方向に目を逸らす。ジムニーのギアをしかのさんは慣れたように動かし、綺麗にバックで駐車した。

「…返事…、聞かせてください…」 ジムニーから降りたしかのさんが発した最初の言葉がそれだった。いきなりか、と思いながらも僕の中ではもう返事は決まってしまっている。

「しかのさん、僕の気持ちはもう決まっています。このまま返事をすることは出来るけれど、それでは男としての僕の気持ちが収まりません」

「えっ?」 しかのさんは意味が解らないといったような不思議な顔をする。

「僕もあなたが好きです。しかのさん、僕とお付き合いしていただけませんか?」

「あ、え…、はい…。…よろしくお願いします…」 

 僕はしかのさんに右手を差し出す。僕の顔は恥ずかしさと付き合えた嬉しさで真っ赤になっていることだろう。ああ、顔が熱い。しかのさんもうつむき気味でそっと僕の手を握ってくれた。僕は強く手を握り返す。

「あの、道端さん。気持ちは…、とっても嬉しいんです、本当に…。だけど、なんか、ズルくありません? 告白したのはわたしの方ですよ!」

「ああ、えっと、その点はごめんなさい。これからの課題と言うことで…」

「意味が解りません!」 しかのさんが反抗の声を上げ、僕にグッと近づいてきた。何かが僕の中で込みあがって来る。どういった感情が動いたとか、働いたとかの理屈はすべてどうでもいいと思った。そのまま衝動的に僕は空いた左手でしかのさんの肩を引き寄せていた。お互いの瞳がぶつかると思うぐらい近づいた時、僕たちは唇を重ねていた。


『いつもとは違って浮かれていますね』 この日の素直に会える時間帯の電車は珍しいことに空いていた。いつものロングシートの座席ではあっても詰めて座っているわけでは無く余裕がある。立っている乗車客もまばらだった。そのおかげで僕と素直は知り合って初めてお互いの顔を見て心の中で話すことが出来ていた。

 ここまで乗車客がいないのならば普通に声を出して話せばいいのだろうが、僕も素直もその提案をしなかった。もはや、僕と素直の関係ならば、こっちの方がお互い気兼ねなく話せているような気もした。そして僕の顔を見た素直が言った言葉が先ほどのものだった。

 『何か、いいことがあったのでしょう? 何ですか、教えてくださいよ』 そう続けて素直はしつこく僕に尋ねる。

 『そんなに、浮かれているかな? いつもと同じだと思うけど…』

 『道端さんが、いつもそんな気持ちの悪い浮かれた顔で電車に乗っているとおっしゃるのならば、素直に軽蔑します。素直だけに、ね』 あ、は、は、は…。ここは笑うところなのか、それとも本気で素直は言っているのか、どっちなのだろうか。それはそうと僕は素直に言うことにした。僕が顔を見ただけで浮かれているとわかるくらい、浮かれている理由を。

 『素直、実はね、正直に言うと僕、彼女が出来たんだよ』

 『それは、それは。おめでとうございます。心から祝福しますよ。…これは、聞いてもよいのですかね、どんな人なんですか?』 素直は表情をパアッと明るくさせ、微笑んだ。どうやら本当に心から祝福してくれているらしい。僕と二回目に会った時には僕に「恋人はいますか?」の質問をしてきたものの素直本人にはあまり、こういう色恋沙汰の話は興味がないように今までの様子から思っていた。だけど、僕の恋人には興味を示してくれているようだ。

 『う~ん、何だろう。一言でどういう人なのかは言えないけど、僕にとっては、一緒に歩んで行きたい人かな…』

 『道端さんが言うのならその通りの人なんでしょうね。ところでつかぬことをお聞きしますが、…デート、はもう、しましたか?』 デート? なんでそんなことを聞くのだろうと思いながら僕は正直に答える。

 『残念ながら…、まだだね。考えてはいるんだけど…、付き合っているとは言ってもなかなか誘えなくてね…』

 『そうですか、それは…良かった』 えっ、何で、何がいいんだ? と思ったが、僕が言葉を挟む前に素直が続ける。

 『実は、私が高校の方で属しているダンスクラブなんですけど、四月の二十八日にダンスの発表会があるんです。どうですか? それを初デートの場としませんか?』

 『ああ、なるほど、そういうことね。でも、何て言って、彼女を誘えばいい? 誘ったとしても、知り合いでもいなければ普通はそういうところは、よほどダンスが好きじゃないと行かないと思うけど…』 しかのさんは僕がダンスを踊るような人間ではないことぐらい知っているだろう。

 『それですよ! それ! 私と知り合いのフリをしてくれればいいんですよ。実は知り合いの子がいて、今度、ダンスの発表会があるんだ、良ければ、一緒に行かない? 的なノリで誘えばいいんですよ』

 『それは、いいね! …なんか、ありがとう、素直。色々と考えてくれて』

 『いいんですよ、こんなことぐらい。私の方もダンスを見に来てくれるお客が増えて助かります』 ここで、僕はあれっ? と思う。素直の両親は見に来てくれないのだろうか、と。

 『気になりますか? 道端さん。そんな顔をしていますよ。…私の両親はダンスに興味がなくて見に来てくれないんですよ~、もう~、娘の大事な晴れ舞台なのに~、酷いでしょ? って言えればどんなにいいか。はあ…』 どういうことだろうか、素直は何が言いたいのか? 僕が何も言えないでいると素直は微笑を浮かべながら左腕の袖をまくる。そこには…、

 『蝶々、とでも言いましょうか』 素直の手首よりも下、肘よりも上の箇所の白い肌には赤黒い丸い跡が複数ついていた。素直はそれを自虐的に蝶々と表現したが、確かにそれに見えないことも無い。

「はあっ…!」 僕はわかりやすく目を見開き、息を呑んだ。アレはまさか…、

 『身の危険を感じますよ。私もモニャさんも…』

 『す、素直、それは…』 僕がそう尋ねると素直は左手のそれを見えないように袖を戻した。

 『道端さん、私にも話したくないことぐらいあります。それでは…また、明日にでも』 そう言って素直は立ち上がる。まだ、素直の降りるはずの駅は二つ先のはずだ。素直は僕の方を見ようともせず、僕から離れていく。今日はもう話したくないということなのか、このまま素直をほっといてもいいのか。僕はおもむろに立ち上がった。

 『ついて来ないでください!』 素直は歩みを止め、振り返り、睨むように僕を見た。あまりの迫力に僕はそれ以上動けなくなる。

 『…すいません、道端さん。少し話し過ぎました。同じ能力を持つ者同士、私はあなたを信頼しています。あなたが私の為に何かしたいという気持ちはどうか、捨ててください。やっと、あなたも幸せを掴んだところじゃないですか。私ではなく、その恋人さんに向けてやってください。道端さんならわかってくれると思っています』 素直はそう言うと、また歩き始め、違う車両に移動し、僕から離れていった。僕は追いかけることも出来ず、そのまま腰を下ろした。


 チーン、と音を立てて電子レンジが止まった。僕は温まった弁当を取り出す。割りばしを割り、フタを取って一言、「いただきます」と呟いた。食べ物を口に運びながら、頭では素直のことを考えている。電車の中で見た素直の左腕の蝶々…、アレは一体、何の跡なのか。痣ではない、もっと酷いもののように思えた。はっきり言ってアレが何の跡なのかぐらいは僕にもわかっていた。ただ、認めたくないのだ。

 素直には無縁のものだと僕は思っていた。いや、思いたくなかったのだ。それを嗜む人間じゃなくてもそれを押し付ければ、ああなってしまうことぐらいわかる。

アレは煙草を押し付けた跡だ。煙草の先端は七百度にもなると聞いたことがある。そんなものを複数回押し付けた跡が素直にはあったということなのか…。僕は考えれば考えるほど気が狂いそうになる。

ピンポーン、僕が頭を抱えていたその時、部屋のインターフォンが鳴った。誰だろうと僕はヨロヨロと立ち上がる。玄関まで行き、ドアアイを覗き込む。

玄関の前にはしかのさんが立っていて、嬉しそうな様子で何か黒い袋を手に持っている。僕はすぐにドアを開けた。

「あ、道端さん、こんばんは。突然ごめんなさい」 しかのさんの声を聞いた時、僕の中では何かジュワッと熱いものが込み上げてくる。それが安心感であるということが僕にはわかった。僕はしかのさんの童顔をじっと見つめる。

「道端さん、大丈夫ですか? ちょっと疲れているように見えますけど…」 しかのさんも僕の顔をじっと見つめてくる。

僕はしかのさんを抱きしめたいという欲求にかられる。その欲求を否定することは出来なかった。そのまま欲求に従い、しかのさんを玄関先で抱きしめる。しかのさんの左肩に頭を預けるような形になり、首筋に顔をうずめる。しかのさんの匂いがする。

「…あ、あの、え、えっと…、」 しかのさんの混乱する声がして、身体をよじっている。だけど彼女は僕を引き離そうとはしなかった。そのことが嬉しくて、愛おしくて、気恥ずかしくて、抱きしめている腕に力がこもってしまう。

「よしよし」 ワサッ、ワサッと僕の頭に手の感触があった。しかのさんの右手が僕の頭に左手が僕の腰にあるのがわかった。僕は体から徐々に力が抜けていくような感覚に陥る。

「僕の方こそ、すいません。突然に、こんなこと…」

「ん~ん、いいんだよ。どうせ、道端さんのことだから何かあったんだろうと思うし、急に抱きしめられちゃってビックリはしたけど、嬉しかった。…ねえ、わたしたちって恋人…、なんだよね?」

「そう、です。そうですよ。僕たちは恋人です。誰が何と言おうと恋人です」

「だよね。なら、良かった」 傍から見れば玄関先で抱きしめ合っている場所を考えない、非常識なバカップルだろう。だけど、それでいいと思った。バカでもいい、僕たちはそれでいい…。


 僕は今入れたばかりのお茶をしかのさんの前に置いた。「ありがと」と呟いてそれをすすっている姿は見ているだけで自然と笑みがこぼれてくる。僕がしかのさんの部屋にお邪魔したことは何回か今までにもあった。主に二人だけのホラー映画観賞会ではあったが。

だけど、しかのさんが僕の部屋を尋ねて来るのは付き合う前も付き合ってからもこれが初めてだ。

「道端さん、部屋にまでお邪魔しちゃったけど大丈夫でしたか?」

「…えっ、大丈夫、大丈夫。むしろこんな汚い部屋で良ければ、いつでも来てくださいよ。…それより、何か用があったんじゃないですか?」 僕がしかのさんに部屋を訪ねてきた理由を尋ねると、あ、そうだった、そうだった、と呟きながら、しかのさんは手に持ってきていた黒い袋の中を探って何かを取り出す。

「新作の映画、借りてきたんで一緒に観ようと思いまして…」 キラキラと輝いた目で僕を見る彼女の手には血痕の様なデザインに彩られたDVDがあった…。

「また、ホラー映画ですか?」

「…嫌、でしたか?」 申し訳なさそうな表情でしかのさんが僕を見てくる。その顔を見ていると自分は悲しくなってくる。そんな顔しないでよ、しかのさん…。

「とんでもない、大歓迎ですよ」 僕は胸を張ってそう答えていた。

 その夜はそのまま、しかのさんとホラー映画を観た。ホラー映画のワンシーンにはグロテスクな表現も含められていて、そんなシーンを観た時にはどうしても、素直の左手の蝶々が頭をよぎった。明日、素直に会ったら話しを着けよう。僕は密かにそう心に決めた。


 いつも通りの電車、いつも通りの混雑した車内、僕はいつも通りのロングシートに腰かけていた。姿は見えないが、向こう側の座席に素直もいるはずだ。

 『素直、聞こえる?』 いつもなら素直の方から僕の心に語り掛けてきていた。だけど、今日に限って彼女の方からは語り掛けてくる気配はなかった。だから僕の方から素直の心に語り掛けたのだ。

 『ええ、聞こえていますよ。…どうしましたか? なんて聞く必要もありませんよね、道端さん。言い忘れていましたね…、』 まさか、僕が聞く前に素直の方から教えてくれるのか? あの左手の蝶々のことを…。と思ったが素直が言ったのは素直の高校の名前と属しているダンスクラブの発表する時間帯だった。

 『…ありがとう…』 昨日、素直は左手の蝶々については話したくないと言ったのだ。やっぱり、僕には聞いてはいけないことだ。そう思った。

 『あまり思いつめないでください、道端さん。あなたが気になるのも無理はありません。ですけれど、昨日も言ったように私にも話したくないことはあるんです』

 『さすがだね、素直。…わかった。もう、聞かないよ』 僕は素直の左手の蝶々のことは忘れることにした。素直のことだ、きっと何か対策があるのかもしれない、そうとも思った。

 『道端さん、これだけ言っておきましょう。私とあなたには他の人にはない能力がある。ですけれど、それだけに過信を持つのはいけません。もしかしたら、知らないだけでとんでもないどんでん返しがあるかもしれませんから』 素直はそれだけ伝えると再び黙り込んだ。もう、話しかけても無駄だろうと思い僕もそれ以上は何も言わなかった。それはそうと素直のこの言葉には僕も納得した。この能力に過信を持つのは良くない、それを僕は身をもって経験している。しかのさんの病気のことを読み取れなかったのは事実なのだから。ガタンゴトンというBGMが流れる中、僕の中では素直の先ほどの教訓が繰り返されていた…。


四月二十八日は土曜日だった。午前九時頃、僕はしかのさんを連れたって翌檜コーポを出た。素直との約束、素直のダンスクラブの発表を見ること、それとしかのさんとの初デートをするためだ。僕が彼女、しかのさんに知り合いの子のダンスを見に行かない、と誘った時、嬉しそうに言ってくれた。

「えっ、道端さんの知り合いの子のダンス? へえ~、ダメじゃないの、私も行って?」

僕はさも当たり前のように答えた。

「ダメなんかじゃないよ。一緒に行きたいんだ、君と。というより、一緒に来て…」 

しかのさんはじっと僕を見た後、「…いいよ、行く。というより、行きたい。…これって、デートってことでいいんだよね?」と試すような目で僕を見てきた。

「もちろん」 僕は彼女の目を見て答えたのだった。

素直の通っているという高校は県内の中でもトップクラスの偏差値を誇る進学校だった。そこまでは二人で電車に乗って行った。高校から最寄りの駅に着いた時には素直の言っていたダンスの発表する時間にはまだ早かったので僕たちはその学校に行く前に近くの店を色々と見回ることにした。進学校でありかなりの規模であるその高校は生徒数も多く、何かと店の需要があるのか、種類豊富の店が並んでいた。カフェ、雑貨屋、本屋、ファミレス、ゲームセンター、いずれも子どもが入りそうな店だ。

僕たちは時間を潰すためにまず、本屋へ行った。飽きたら雑貨屋、ゲームセンターもちょっと覗いてカフェに入った。なんとなく初めてしかのさんと来たファミレスを思い出した。そして何となくあの時と同じようにテーブル席に座った。注文を終えた後、しかのさんが僕の方を眺めて何となく話し出す。

「道端さんの知り合いの子って凄い学校に通っているんだね。…そういえば、聞いていなかったけど…その知り合いの子なんて名前なんですか?」 ここは正直に答えても別に素直も困りはしないだろうと思い答える。

「素直だよ。素直な人の素直っていう漢字をまるまるそのまま使って、素直っていうよ」

「へえ~、素直ちゃん。いい名前ですね」 そこで注文したコーヒーが運ばれてきて、僕たちはそれぞれ、それを一口飲む。するとしかのさんが再び口を開いた。

「でも、不思議ですね。こんな新入生が入って来たばかりで、まだ一ヵ月も経っていないのにダンスクラブの発表会なんて」 確かにそれはそうだ。なんで今まで気にならなかったのだろう? でもそもそも僕は素直が何年生なのかも知らない。ダンスクラブの発表会をするのだから一年生ではないだろうと思う。

だとしたら、考えられるのは三年生だろうか、新入生を除いて三年生だけで最後の思い出に踊る、これならば納得はいくのではないだろうか。素直自身も言っていた。「晴れ舞台」だと、このことは嘘ではないのかもしれない。

しかのさんには「確かに、不思議だね」とだけ答えておいた。

僕たちが素直の学校に着いたのは約束の時間の五分前だった。二人で手をつなぎ、校門前まで来たところで僕としかのさんは声を揃えて「あれっ?」と呟いた。

その理由は校門に「保護者授業参観日 学校公開」と書かれた大きく立派な看板が立てかけられていたからだ。

「ねえ、道端さん。あれって、わたしたち、入れるのかな?」 しかのさんが僕の顔を覗き込むようにして不安そうに聞いてくる。

「多分、大丈夫だよ。学校公開って書いてあるから誰でも自由に入れるとは思うよ」

「へえ~、学校公開ってそういう意味なんですね」 しかのさんは関したような反応をしているが僕は混乱していた。素直は授業参観の日にあるとは一言も言っていなかったはずだ。素直において言い忘れていた、なんてことは考えにくい。じゃあ、一体なぜ?

わからない。だけど、素直がもし嘘をついていると考えたとして、こんなことをして何になる。素直が無駄な嘘をつくはずがない、そういう確信がなぜか、僕の中にはあった。

「とりあえず、入れるなら入りませか」というしかのさんの言葉に僕は一旦考えるのをやめて、しかのさんに従い、校内に入った。

校内は授業参観ということなので、当たり前のように人がたくさんいる。学校公開なので恐らく保護者だけでなく地域住民などもいるせいだろう。それにプラスして全く関係ないとも言われかねない僕たちもいるのだから。

先程も言ったが僕は素直が何年生なのかは知らない。可能性のある三年生にかけてみることに決めた僕はしかのさんと共に三年生の教室がある階までやって来た。人のいる気配のする教室を順番に見ていくことにした僕たちだったが三年生の教室を全て回っても素直を発見することは出来なかった。

「ねえ、道端さん。こんなことはないと思うけど学校、間違えてないよね?」 しかのさんがそう尋ねて来るのも無理はない。だけど…、素直は確かに…、いや、自信がなくなってきた…。

「…まいったな…」 僕がそう呟いた時だった。

学校の外から突然、大きな声が響き渡った。それは、もう怒号と言ってもいいくらいに…。


近くにあった窓から僕は外を見てみた。僕のその行動を見て何人かが同じような行動をとる。学校の正面にあたる駐車場にはもう既に何人かの人だかりが出来ていた。よく見てみると全員、教員のような雰囲気がある。数人の男性教員は上を見上げて「やめろっ! バカなことはやめろっ!」と叫んでおり、数人の女性教員は青ざめた顔で同じように上を見上げている。

上に何かいるのか…? 僕は突然のことに上手く頭が回らないでいたが、しばらく考えてとある恐ろしい考えが頭に浮かんだ。どうやら僕の周りにいた人たちも同じようなことを思ったらしく、慌てだす。

もはや授業どころでもなくなったらしく、授業の途中であった教師たちもチョークを放り出して教室から出てくる。

しまいにはどこか遠くからパトカーのようなサイレンまで聞こえてきた。どうやら、これはもう僕の考えに間違いないはないようだ。そう思った時、誰かが叫ぶように言った。

「誰かが屋上から飛び降りようとしている!」

僕は一応の確認をするために走って、来るときにも利用した学校の出入り口に向かって走った。

「ちょっと、道端さんっ!」 走ってどこかに行ことしている僕の背後からしかのさんの呼ぶ声が聞こえた。僕は走りながら後ろを振り向き、答える。

「すいません、しかのさん! ちょっと緊急事態かもしれません!」 しかのさんがどんな反応をしたかなど確認する暇もなく僕は再び前を見て走り出す。

頼む、頼むから、どうか違っていてくれよ…。ただそうやって心で祈りながら。

走りながら自分で額に汗をかいていることに気づく。口の中も乾いてカラカラだ。それでも足は休むことなく外まで走ってくれた。駐車場に出てきたところで僕は上を見上げる。

そこには…、屋上のフェンスを左手だけで掴み、右手には白い何かを抱えて、僕の顔をじっと見降ろす少女、素直がいた…。

「すなおおぉっ!」 気づけば僕はそう叫んでいた。


『来てくれたんですね、道端さん…』 素直は寂しそうにそう心に語り掛けてきた。

『ああ、来たよ。せっかく君が誘って来たんだから、来ないわけないだろう。…だから、だから、早くそんなところから降りてきてくれよ』 僕は懇願するように言った。

『すいません、…残念ながらそれはできません…』 

『なぜだ! なぜ、君がそんなことをする必要がある? 死んだって何にもならない。そんなことぐらい素直、君にも分かるだろう?』 僕は後悔した。激しく過去の自分を悔やんだ。なぜ、あの時、素直から左手の蝶々をみせられた時、もっと強く聞かなかった? 素直がそうは望まなかった、なんて言うあまい言い訳が通用するわけがない。

学校の駐車場は大騒ぎになっていた。突然、屋上から飛び降りようとしている少女の名前を叫んだ男、僕の存在も騒ぎの原因には含められているだろう。だけど、この場にいる全員はそんなことを気にしている場合ではないということぐらいわかっていた。教職員たちは関係のない人間をその場から立ち除かせようと行動し始めていた。遠くで聞こえていたパトカーのサイレンもうるさいくらいに聞こえており、段々近づいてくるのがわかる。

『…さて、道端さん。時間もないことですし、一度しか言いませんからよく、私の話を聞いてください』 素直が僕の顔を見たまま、再び心に語り掛けてくる。

『そんなもの聞きたくない…』

『いいえ、聞いてもらいます。…あの日、電車の中で見せた蝶々、道端さんならもう気づいているでしょうが、あれは煙草を押し付けられた跡です。誰に、という質問はしないでくださいよ。決まっているでしょう? …私の両親にですよ』 素直の顔は恐ろしいぐらいに歪んだ。一度見たらわかる。ああ、この子は本当に心の底から親を恨んでいるんだな、と。

『私は我慢しました。どんなに身体に傷をつけられようと、痣を作られようと、煙草を押し付けられようと…。ですけど、どうしても我慢できないことが二つ同時に起きてしまいました。それはこの子にまで被害が及んだこと』 素直の右手に抱えられていた白い何かが弱弱しく、微かに動いたように見えた。目を凝らしてよく見てみると毛が生えており、尻尾があるのがわかる。

あれは、素直が拾ったと言っていた子猫、モニャさんか。そうか、素直は自分だけでなく、モニャさんにまで暴力が及んだことが許せなかったのか。あと、一つは…、

『もう一つは、父親が私に性的な目を向けてきたことです。行為にまでは及びませんでしたが、今日、もしこのまま、何もなく家に帰っていたら、間違いなくあの男は…、私に…』 

そう言って素直は口をつぐむ。

『…わかった…。素直が今までどんな目に遭ってきて、どんなに辛かったか、それを全部僕が代わりに背負うことは出来ない。だけど、わかってあげることは出来る。今日、家に帰っていたら、というのも父親の心を見たからだね? わかっていてもそれを証明することは出来ない。それが僕たち、この能力を持つ人間の運命だから。それでも、僕は素直の気持ちをわかってあげることは出来る。周りの人間がどんなに君を信じなくても僕は君を信じる』

僕は伝えた。僕たち、人の心の読むことが出来る人間の運命を。だけど、僕は味方だということを。

『…ありがとう、道端さん…。実は、一つお願いがあるんです。この子、モニャさんの世話をお願いしたいんです。何があってもこの子を守ってあげてください』

『わかった、約束する』 僕は真剣な眼差しを素直に向けて約束した。

『あと、見ていてください。この私の命を賭けた最大の復讐劇を…』

「は…」 僕は不意を突かれた思いで、思わず間抜けな声が出た。僕の気持ちなど考えず素直は続ける。

『これはショーなんですよ。私がここから飛び降りることによって果たされる復讐劇。私が死ねば警察もその原因追及のため動き出すでしょう。いじめはなかったか、教師は無能じゃなかったか、家族はどうだったか、てね。そして見つけるんです。家宅捜索をした際に私が日々、書き連ねておいた私に対する親の扱いを…』

『…す、な、お…。き、君はなにを…』 僕は気の抜けた小さなそんな言葉しか出てくなかった。

『道端さん、それでは…また』 素直はそう言った後、その薄い唇の口角を少し上げたかと思うと、屋上三階から飛び降りた。



 僕は今まで読んでいた文庫本からふと、顔を上げた。いつもの電車と何一つ変わらない人混みとBGMがそこにはある。だけど一年前とは大分違う。素直がいなくなったからだ。素直が三階の屋上から飛び降りた時、僕は彼女が落ちてくるであろう場所を予測して、その場所に駆け寄った。もちろん落ちてくる素直を僕は受け止めることは出来なかった。

それどころか、素直はモニャさんを抱き抱えたまま飛び降り、彼女の身体が地面にたたきつけられる瞬間、モニャさんを僕の方に投げた。僕は何とかモニャさんを受け止め、そのまま地面に倒れた。上体を起こした後、そこには…、言わなくてもわかるだろうから、察してもらいたい。

素直が飛び降りる前に素直の名前を叫んでいた僕はことの後、警察に事情を聴かれた。僕は直接、素直と面識はなく、このモニャさんを探していただけだと言い張った。不可解な点も多くあっただろうが、素直と僕に会話がなかったのは確かなことだった。警察も粘ったが僕はまもなく解放された。

それは素直の飛び降りた直接的な原因だと思われる素直の両親の虐待を裏付ける証拠が見つかったからだ。つまり、素直が目ろんだ通りにことは運んだのだ。ちなみに素直の肉体はまだ生きている。ただし、素直の肉体は一年間、眠り続けたままなのだ。もう、二度と目を覚まさないのではないかという診断も出ているらしい。僕も何度か眠り続ける彼女の身体をしかのさんと共に見に行った。見た目的にはとても穏やかに眠っているようにも見えた。

それはそうと、しかのさんと僕の関係は今も続いている。仲の良い恋人同士であると言えると思う。しかのさんが二年になってから週末はかならずどちらかの部屋で過ごすようにもなった。夜は彼女の選んだ映画を見るのが日課だ。ほとんど、いや、毎回ホラー映画ばかりではあるが。

 電車が嫌な音を立てて、駅に停車した。おっと、僕の降りる駅だった。僕は文庫本を急いで鞄にしまい、電車を降りた。いつも通る道をトボトボと歩き、我が家、翌檜コーポへと向かう。住人は一年前と変わらない。管理人の前野さんも相変わらず元気だ。僕と素直の間柄をちょくちょく気にしてくれている。

 翌檜コーポの入り口を通り、管理人室の前を通る。

 通り際に「おかえりなさい、道端君」と前野さんが挨拶をくれる。僕は「こんばんは、お疲れ様です」と顔を見て答え、エレベーターに乗り込んだ。

 翌檜コーポの住人は変わらないと先ほど述べたが、僕の部屋には一人、居候が増えた。僕は鞄から部屋のキーを取り出し、開錠する。扉を開いたとことで部屋の奥から「ニャーン」と声が聞こえ、肉球と床の擦れる音がして白い生き物が僕に向かってくる。

 子猫から、大分成長したモニャさんだ。僕はモニャさんを玄関で相手などせず、そのまま靴を脱いで部屋に入る。スタスタ、と近づいてくるモニャさんを無視して通り過ぎた。部屋の電気をつけ、冷蔵庫から、鮭の切り身の焼いたものを取り出し、皿に移し替えて、モニャさんの前にしゃがみ込んで置いた。

 モニャさんは一口それを食べて、僕の方を見て「ニャーン」と鳴く。

「おいしいかい、モニャさん。…いや、素直…」

 『ええ、おいしいですよ。道端さん』 僕の心に言葉が流れてくる。これは確かに素直の声だ。

 『なんせ、正真正銘の猫舌なので、熱いのは苦手ですから、冷えているのがおいしいですよ。でも、やっぱりキャットフードは抵抗がありますよね』

「まあ、それは無理ないでしょ、だって一年前は人間だったんだから」 僕は心に話しかけるのではなく、直接口でそう言った。

「動物の心って読めませんよね」 いつだったか、素直が僕にそう言ったことがあった。それは心が読めないだけではなく、こっちからも心に語り掛けることは出来ないらしい。だから僕は直接、素直に話すことにしている。

『道端さんのお世話になり始めて一年が経ってしまいましたね。そろそろ、何か考えないといけませんね。いつまでもこのままというわけにはいきませんからね。この子の身体にも寿命はありますし、私自身の身体もあのままというわけにはいきませんからね』

「素直、急かすわけではないけど、ちゃんと考えてね。猫一匹くらいは養えるけど、僕には…」

『わかってますよ。しかのさんでしょう? そこはもちろん配慮して週末には二人だけの時間を作ってあげているじゃないですか。いくら飼い猫とは言え、心は人間なのですからセックスを見られるのは嫌でしょうからね』 はあ…、僕は思わずため息が出る。なにもそんな飛躍した話はしていないじゃないか、と言いたくもなる。赤面した顔を隠すように僕は立ち上がった。

一年前、モニャさんを飼い始めた初日に初めて話しかけられた。最初聞いた時は気のせいかと思った。素直の飛び降りと言う事実を信じられず、ショックを受けているせいだとも思った。だけど、違った。

素直は飛び降りたあの瞬間、モニャさんの身体に自分の心を移し替えたのだという。本人曰く、これはお互いの身体が死の危機に直面していなくては出来ないことだという。モニャさんの身体は確かに憔悴し切っていた。だからあの後、素直との約束を守ろうとする一心で僕は動物病院に駆け込み、何とか命をつないでもらったのだ。

それなのに、僕が助けたのはモニャさんではなく、素直だったのだ。いいことなのか、どうなのか、一年経った今も答えは出せていない。それもそうだろう、素直の言っていることが正しいのなら、現在病院で眠っている素直の身体にはモニャさんの心が入っているということになるのだから。

これは、最初から素直が仕組んだ計画だったのか、あの騒ぎもすべて、素直が自らの両親に罪を償わせるためにやったことなのか…。そう考えると僕は素直という存在がとても恐ろしく思えてきて仕方がない。そもそも、素直の心を入れ替えるという能力は僕にも備わっているのか、どうなのか、それすら怪しく思えてくる。

僕は今の考えを忘れるためにテレビの電源を入れた。適当にチャンネルを回す。

「ニャオーン」 僕の背後で素直がわざとらしく鳴いた…。


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