第七話 モブと認知に関する考察
今回用意した話は私が興味深いと思うテーマなので、存分に生徒Bの『疑似科学』を楽しんでもらえたらと思います。
「街中で清楚なお姉さんと鎧の西洋人を見たら、パラレルワールドに紛れ込んでしまったのではないかと心配になるだろうが、臆することはない。それはやばいやつをひとり連れただけの、いたって無害な三人組だ。
え、ふたりしかいないって? その場合、よおく目を凝らすことだ。
人間は見たもの聞いたものを認識しているのだと勘違いしている人が稀にいるが、事実は真逆である。
人間という生き物は認識しているものを見て、聞いている。もっと正確に言うなら、認識したいものを見ようとし、聞こうとする。
だから視覚効果を利用した『目の錯覚』というものがあるし、歌詞を見ずには聴き取れないデスボイスも、一度歌詞を見てしまえば歌詞通りに歌っているようにしか聴こえなくなるのだ。
アニメや漫画、ノベルゲームなどでモブキャラが高確率でのっぺらぼうだったり、ぱっとしない髪型やファッションだったりする理由も、実はこの理屈で説明できる。
製作者側は主役となるキャラクターを最大限に見てもらいたいのであって、道行く人々は映像をリアルにするための小道具に過ぎない。
視聴者をその世界に目一杯没入させるにはエキストラという脇役は必要不可欠なのだが、あくまでも主役を目立たせる存在である。
それ故、いわゆるモブ枠のキャラは、地味でどれをとっても代わり映えのないデザインにされるのが一般的だ。
そうすることによって、視聴者は無意識のうちにどのキャラクターがこの物語において重要なのか理解し、自然と主役たちを目で追うようになるのだ。
見せたいものと、別にそこまで重要ではないものの視覚的な差別化。
これによって製作者側は、この物語において『見なければならないもの』を視聴者の潜在意識に植え込み、実際にそれを見てもらうこと、そして同時にそれ以外には目を向けさせないことにおおよそ成功する。
あるいは映画のディレクターズ・カット。
あるいは編集されたニュース番組やノーカット放送。
これらは『見せたいもの』と、逆に『見せたくないもの』を巧みに操作し、視聴者の受ける印象や感情を操作するものの最たる例と言えるだろう。
改めて、人間は見聞きしているものを認識しているのではないと分かる。
誰かの『見せたいもの』や『聞かせたいもの』と、我々の『見たいもの』『聴きたいもの』が一致した時、相互合意の上の洗脳が完成する。
そしてこれらの『見たいもの』『聴きたいもの』は、『認識したいもの』に変換される。
事実ではなく、現状でもなく。
『認識したいもの』を見聞きする我々はもしかすると、目を開けていながらも盲目で、耳を澄ませていながらも聾者であると言えるかもしれない。
そして、のっぺらぼうなモブキャラも本当は顔も個性もあるのだから、誰かが見せたい、見たいと思うならば、彼らは真なる姿を表すかもしれない。
モブキャラだって本当はいい性格だったり、容姿が淡麗だったりする可能性はゼロではない。
だから音那詩シヲリとハイラント・エアレーザー勇者がふたり組で歩いていたと錯覚した人は、しっかりと現実を見た方がいい。
特に彼女らから伸びる影の個数と、背景に紛れている人のシルエットを見よ。
『俺はそこにいる』」
と、日記兼『モブキャラに隠された人間の認知科学と思考・世論操作の関係について』の論文の一部を脳内でまとめていると、ついに目的地が見えてきた。
生徒Bがいずれどこかの学会に提出したいと考えている論文はさておき、有杉高校に到着したようだ。
正式な名前は県立有杉高等学校。
治安もよく進学率もいい高校として有名だが、生徒Bのようなモブキャラに言わせてみれば、身分格差があり過ぎる高校だ。
「ふぅ、この土地は暑いの……。甲冑の中が汗だくになってしまったぞ」
「そんな歩くサウナみたいな格好してりゃ、そうなるわな」
生徒Bはそう言うなり、再び自分がツッコミというモブキャラらしからぬ役割を果たしてしまったことに気づき、はっとした。
頭の中で警鐘のように鳴っている不穏な音の錯覚。
それは、彼のモブキャラとしての自己が瓦解していく兆候に他ならなかった。
今回も生徒Bの思考を追う回になってるからストーリー自体は進まななかったけど、次からはちゃんと進行します。
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