第四話 いるはずのないモノ
依頼主の家は青空市の隣にある夢野市にあった。隣家に聞こえるような悲鳴ならば、他の家から通報がありそうだと思っていたが、依頼主の家を見て納得した。依頼主の家と隣家の二つの家以外、周囲に建物の姿はなく、田んぼしかなかったのだ。
伊美が依頼主に話を伺っている間、俺は適当に辺りをぶらついていた。こういうのは可愛らしい女性の方が向いているし、よく目つきが悪いだの、怒っているように見えるだの散々なことを言われていた俺には向いていない。
二十分ほどで伊美が帰ってきて、報告してくれる。
「『いつも、二十四時くらいに聞こえてくるのです。昨日は女の悲鳴でしたから、今日は男の悲鳴が聞こえてくるはずです。一ヶ月くらい前から、ずっとそうなんです。一ヶ月前、隣家に住んでいる夫婦の夫である満さんが誰かに殺されたんですが、包丁で何度も刺されていて、警察がたくさん来て、奥さんの恵美子さんが泣いていたのを覚えています。でも、その恵美子さんも次の日、誰かに殺されたんですよ。その満さんと同じ殺され方で。それからです、毎日、悲鳴が聞こえるようになったのは。今、隣の家に住んでいるのは、娘さん一人だけのはずなのに……』って言っていた」
「……ご苦労様」
伊美なりに依頼主の真似をしたみたいだが、声に抑揚がないせいでいつもと変わらなかった。
俺たちはその悲鳴が聞こえるという隣家に向かう。玄関の前に立ってインターホンを押そうとしたとき、嫌なものを目にしてしまった。
「げ……」
玄関の横に備え付けられた表札に、見たくない名字が彫ってあったのだ。
『神谷』
今朝、神や運命について説いてくれた少女の顔が、頭の中に浮かんだ。逃げてしまおうかとも考えたのだが、依頼を受けておいて断るのは申し訳ない。それにまだ、幸とは決まったわけではないのだ。『神谷』なんていう名字は何処にでもありふれているのだから、違う人物だという可能性も残されている。
俺は意を決して、インターホンを押す。こんな夜遅くに起きているかは心配だったが、ドタドタと階段をおりてくる音を聞いて安心した。
「今出ます」
「……まじか」
だが、その安心は向こう側から聞こえた覚えのある声で瓦解し、すぐに嫌な予感へと変わった。勢いよく開かれた扉の音が、静寂に包まれた夜の空気を吹き飛ばした。俺たちを出迎えてくれた少女は白い歯を見せた。
「神の導きを知りたくなったのですか?」
嫌な予感が現実になってしまった。
そこにいたのは神谷幸だった。
その事実だけでも頭が痛くなったのに、追い討ちをかけるように、さらに驚愕の事実が襲いかかってくる。一人しかいないと聞いていたのに、暗闇の向こう側から、足音が聞こえてきたのだ。それは確かに生身の人間が産み出す足音と質感が同じだった。
「――なんだ? 幸の友人か?」
「はい、そうです、お父様」
向こう側から歩いてきたのは、死んだはずの幸の父親――満だった。
「悟」
「なんだ、伊美」
「あの男……生きているように見えるけど、偽物」
「……そうだろうな」
思ったよりも厄介な依頼のようだった。
*・*・*
「……酷いな」
誰にも聞こえないよう、小さな声で独り言ちる。
家の中は外の世界と隔絶されているかのように、壊れていた。床には窓や電球、鏡などの破片が散らばっているし、壁や天井には所々穴が開いているし、金属のような臭いが空気中に混じっている。死んだはずの満は散らばっている破片を踏みながらも、表情を変えずに居間の方へ歩いていくし、あまりにも奇怪過ぎて、情報の処理が追い付かない。
「こちらへどうぞ」
そう幸に言われて通されたのは、さらに壊れた異質な空間だった。部屋の真ん中には小さな祭壇があり、壁に沿うように棚が並んでいる。そこには厚すぎる本(聖書のようなものだろうか)や、十字架、なにかを模した小さな銅像などが隙間を失うくらいに飾ってあった。
祭壇の前で幸は正座をし、手を合わせて祈り始める。俺たちも彼女に倣って同じことをする。祈りは五分ほど続いた。
「……なあ、幸」
「なんですか?」
祈りが終わったのを確認してから、名前を呼ぶ。
「幸はさ、本当に神を信じているのか」
する必要のない質問だ。幸のこたえは決まっているのだから。
「勿論です」
屈託のない笑みで、予想通りのことを断言した。
「じゃあさ、なんで幸は神がいると思うんだ」
「それは私には神の声が聞こえるからです」
聞く人によっては電波と捉えかねられない言葉だった。神の声が聞こえる……なんとも荒唐無稽な話だ。
「でも、俺は神の声なんて聞いたことないが。伊美、お前も聞いたことないだろう」
「……うん」
「それは二人が神の存在を心の底から信じていないからです。信じていれば、聞こえます。信じていれば……救われるのです」
幸は当然のように言う。俺はその言葉に嫌悪を覚えた。信じていれば救われる……要するに、信じたいから信じているだけなのだ。いる、いないは関係ない。自分がいると思っていれば、それは自分にとって存在していることと同義になる。幸は理想に溺れているのだろう。
「……悟さんは神の存在を否定しているみたいですが……どうして神がいないと思うのですか?」
「神は人間の創造物でしかないからだ」
自分の意見を率直に言う。人間という生き物は都合がよすぎるのだ。例えば、受験に合格しますようにと祈ったとしよう。合格した場合、神様ありがとうございますとなるだろうが、落ちてしまえば、神様なんて存在しないとなるのだろう。自分を救ってくれる。そう思っている間は幸せでいられる。神は責任転嫁するための、都合のいい存在だ。
「そうですか」
神を否定されたことを責めるわけでもなく、幸は全てを許すような慈愛に満ちた笑みを浮かべる。その笑顔を眺めていると、いきなり視界の中心に十字架が出現した。
「……信じていなくとも……神は全ての人間に平等です……平等に愛してくれます。だから、全ての人間を許してくれるんです」
幸はそれだけ言うと、俺に向けた十字架を元の場所に戻し、部屋を出ていった。
「……神は全ての人間に平等、か」
幸が言ったことを自分でも呟いてみたが、やはり舌に馴染まない。もう一度、口に出してみようとしたとき、時計の短針が0を指した。
「――ああああああああああああああああああああああああああああああ!」
瞬間、一階からの野太い悲鳴が空気を震わせる。本当に二十四時くらい異変が起きた。
「ああああああああ……あ…………あ………………ぁ…………」
悲鳴は段々と小さくなり、聞こえなくなった。重い静寂に空気が包まれる。
「見にいくか、伊美」
「……うん」
俺たちは歩いて、悲鳴が聞こえた一階の居間の方へゆっくりと歩きだした。急ぐ必要はない。多分、既に死んでしまっているだろうから。
血の生臭いにおいが、空気に混じりだす。俺は居間の扉を開く。
「……こりゃ酷い」
凄惨な光景が目に飛び込んできた。真っ赤な血の海に、満の死体が浮かんでいた。虚ろな瞳は、天井の隅の方を見ている。喉元から溢れだした血は、止まる気配がない。
そんな酷い状態の満を先程まではいなかったはずの恵美子は、嘲笑うように見下していた。一目見ただけでわかる。彼女が、自分の夫を殺したのだ。
長年連れ添ってきた絆も、育んできた愛も、この瞬間に全てが砕け散ってしまったというのに、恵美子は解放されたと言わんばかりに、晴れ渡るような表情だった。彼女は包丁を持ったまま洗面所がある方へと歩いていく。人殺しをする人間の心理など理解できないし、理解するつもりもないが、頭は至って冷静らしく、自分の体を洗ったり、返り血を浴びた自分の服を処分したりして、証拠隠滅をはかるつもりのようだ。
俺は死体へと生まれ変わった満を見つめる。彼が殺されるに至った理由はなんだったのだろうか。浮気、夫婦喧嘩、長年の鬱憤……エトセトラエトセトラ。挙げればきりがない。
「……どいてください」
気がつけば、背後に幸が無言で立っていた。言われた通り横にどくと、彼女は満の死体へと近づいていく。その手には大人一人分入るくらいの大きな麻袋が握られている。幸は慣れた手つきで死体を麻袋に突っ込むと、地下室へ引きずっていく。小さな体で成人男性一人の重さを引っ張っていくのは大変らしく、かなり遅かった。俺たちはその背中を追いかけ、薄暗い地下室に入る。
「……ほう」
眼前で展開されている異常な光景に、思わず感嘆の声を漏らしてしまう。何故なら、地下室の半分を埋め尽くすほどの数の棺桶が置いてあったからだ。
幸は部屋の中心辺りで立ち止まると、こう呟いた。
「棺桶」
すると、不思議なことが起こる。空中のなにもない場所が発光したのだ。その光の中から腐敗臭や血生臭さを外に漏らさないような、かなり高級そうな棺桶が出現した。幸はその中に父親が入った麻袋を入れると、あいているスペースに置いた。毎夜、彼女は親の死体を片づけているのか。
鼻から空気を取り込んでみるが、血の臭いや腐敗臭はしない。
――これで、わたしの話は終わりです。もし、興味があったら、そのパンフレットに書かれている住所に行ってください。では、わたしには片づけないといけないものがあるので……さようなら。
今朝の幸の言葉を思い出す。この後、幸は父親を殺した母親と共に、家の掃除に時間を費やすのだろう。壁や床についた血を拭きとったり、包丁を処分したりして。
「……〝創造力〟」
「そうだな……幸は自分が想像したものを創造できるみたいだ」
何処まで力が及ぶのかは定かではないが、もし、お金や隕石などを創造できたとしたなら、世界征服だって夢じゃないし、お金にだって困らない。
それこそ、神の力だ。
「申し訳ありません。酷い光景を見せてしまって」
幸は一言謝罪すると、俺の横を通り抜けていった。