第二話 神と運命
俺たちの家は山奥に存在する。人気のない道を歩き、山の中に入り、立ち入り禁止の看板を乗り越えようとする、
「……待って」
その前に伊美に呼び止められた。
「どうしたんだ」
「……看板……ないはず」
「……そうだな」
言われて気がついた。そうだ、こんな場所に立ち入り禁止と書かれた看板はなかったはずだ。屋敷を出て帰ってくる一時間で、こんな看板が設置されるとは考えにくい。
「ん、これは」
看板には一枚、紙が張りつけてあった。剥がして読んでみると、『天航会』だとか、『神』だとか、宗教勧誘のような内容が書かれてある。どういうことかと考えていると、背後から地面を踏みしめるような音が聞こえた。
「――ふふっ」
「……お前は」
振り向くとそこには、コンビニの前で不良に恫喝されていた少女が、不敵な笑みを浮かべて立っていた。茶色がかかった髪を後ろで束ね、とても清潔な感じがする。目は少しだけ垂れ目で、優しそうな少女だった。だが、頬は少しこけ、体はとても細く、元気がなさそうに見えた。彼女はゆっくりと前振りもなく話し出す。
「あなたは運命を信じますか?」
瞬間、様々な疑問がない交ぜになって頭を駆け巡る。この立ち入り禁止の看板を置いたのは彼女なのか、その質問を俺にぶつける理由は、そもそも運命とは、どうしてここまで追いかけてきたのか、伊美と同じくらいに見えるが未成年なのか、成人しているのか。
俺と少女の間を冷たい風が吹き荒ぶ。
「質問に質問を返すようで悪いんだが……君はその運命とやらを信じているのか」
他にも聞くべきことがあるだろうに、俺はそんな疑問を投げかけていた。少女は俺が興味を持ってくれたと勘違いしたのか、微笑を浮かべる。
「まず、わたしの自己紹介から。わたしの名前は、神谷幸と言います。神は上ではなく、人間を作り出された方を指す字の方で、たには谷間の谷、幸は幸せと書きます」神谷幸と名乗ったその少女は、丁寧に一礼をする。「あなた方の名前を聞かせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「……俺の名前は雨無悟だ。で、こいつが雨無伊美。漢字は別にどうでもいいだろう。それで、教えてくれるのか。えーと……神谷さん」
「幸でいいですよ。わたしの方が年下だと思うので」
幸は微笑む。こうして見ると本当に年頃の女の子にしか見えない。
嵐のような強い風が吹き、木々から鳥が弾けるように空へと飛び去り、森全体がざわめきだす。
「では、自己紹介が終わったところで、運命について語らせて頂きます。何度も申し訳ないのですが、わたしが自己紹介したのは今から見ていつでしょうか?」
「はあ」
「〝現在〟から見て、〝未来〟なのか、〝過去〟なのか。さて、どちらでしょう」
「……そりゃ、〝過去〟だろう。未来はまだ訪れていない時間のことを言うんだから」
「その通りです。わたしが自己紹介をしていたときは〝現在〟だったのに、今は〝過去〟になってしまったのです。理解できますか?」
「ああ……言っていることは理解できている」
だが、幸が言いたいことがなんなのかまでは、理解できなかった。彼女は淡々と続ける。
「これってつまり、〝未来〟から〝現在〟へ、そして、〝現在〟から〝過去〟へと……時間が流れているってことになりませんか?」
「……ああ」
なるほど、言いたいことがここでやっと少しだけ理解できたような気がする。
「歌の歌詞で頻出する、未来へ歩いていくとか、立ち止まってはいけないみたいな意味の言葉は、逆だと思うんですよね。時間が〝未来〟から〝過去〟へ流れているってことは、〝未来〟は、向かうものじゃなくて、訪れるものということになります」
「…………」
「あと、未来は過去によって規定されるみたいなこともよく言われますよね。過去の選択によって未来は変化するって。でも、それは〝過去〟から〝未来〟へと歩いていくイメージでの話です。本当は時間は逆に流れている。ならば、過去は未来によって規定されるはずです。未来によって過去が決まる……それを人は運命と呼ぶんじゃないんでしょうか」
幸は饒舌に、まるで歌い上げるように言う。一縷の迷いも含まれていない、心の底からの清らかな言葉のように聞こえた。
「……幸の言いたいことは理解できた。でもさ、もし、運命が本当にあるとして……その運命を定めたのは誰なんだ。世の中には苦しい思いをする人が腐るくらいにいる。そんな運命を定めた奴は……かなり残酷な存在だと思うんだが」
仮に人に運命とやらを背負わす者がいるとしたら、そいつは人の不幸で私欲を肥やしてる、狂者にしか思えない。
幸はまるで行き倒れた猫を見るような、憐れみの視線を俺に注ぐ。そして、子供に聞かせるような優しい声で言う。
「その運命を定めているのが神なんです」
その言葉を聞いて、俺は驚愕とも困惑とも取れるような、複雑な気持ちになった。今の御時世、天国や神様をなにかの例えに使うことはあるだろうが、心の底からその存在を信じている者はいないだろう。
だが、幸の言葉には明らかに神への信仰のようなものが含まれていた。
よく言えば純粋。悪く言えば盲目。度が過ぎれば、社会から排除されかねない不安定さを持っていた。
「神はわたしたちに試練を科しているのです。人間は愚かであり、何度も間違いを犯してしまいます。ですが、神は許してくれます。罪を犯しても、償えば……」自分に言い聞かせるように、幸は言う。「これでわたしの話は終わりです。もし、興味があったら、その紙に書かれている住所に行ってください。では、わたしには片づけないといけないものがあるので……さようなら」
言いたいことだけ言って、最初の質問の『あなたは運命を信じますか?』の、俺のこたえも聞かぬまま、幸は何処かへと走り去っていった。俺は手に持っていた紙を無造作にポケットの中に突っ込んだ。
全く興味がない。
神や運命などあるはずがないだろう。あるという根拠もなければ、いないという根拠もないが。
「…………」
「ん、どうした、伊美」
今まで口を開かなかった伊美が俺の腕に触れてくる。
「幸が言ったこと、おかしい」
「……そうだな」
神が俺たちの運命を定めているのだとしたら、俺たちが罪を犯してしまうことも、既に決まってしまっているわけだ。許すも許されるもなにも、罪を犯すことを決めたのは神なのだから、人間に罪はない。自分の責任を押しつけているだけだ。そんな存在を崇めるなんて、とてもじゃないができない。
「それで、伊美」
「なに?」
「幸からなにか感じたか」
「……うん」
俺を見上げる伊美の目は、何処か猫に似ていた。
「多分、〝創造力〟」
断定することなく、言葉を濁していたが、伊美が言うのならそうなのだろう。彼女には〝霊能探知〟という異能がある。姿を見るだけで、相手がどのような異能を持っているかを知ることができる力だ。
俺は空を見上げる。朝焼けが、夜に染まった山を食べようとしている。
「……帰るか」
「うん……」
伊美の手を握り、俺たちは山の頂上付近にある、我が家へと急いだ。
世界には様々な種類の人間がいて、様々な出会いがあるが、地球はいつも通り回転して、今日も朝がやってくる。
しかし、天航会ね……もっと、話を聞くべきだったかもしれない。