閉鎖病棟
暗く真っ直ぐなリノリウムの廊下、閉鎖病棟に続く鉄扉の前。
笈川は左手で懐中電灯を持ちながら、右手で鍵束のうちのひとつを鍵穴に入れ、重い扉を押し開けた。中に入ると、笈川は閉められた扉を背にして靴を脱ぎ、靴底を捲る。その奥には、銀色に光る二本の鍵が入っていた。懐中電灯で照らしてそれを確認すると、素早く靴底を元に戻した。再び履いて、つま先を床でとんとんと軽く叩く。全ては細心の注意を払って行われ、無駄がなかった。
静まり返った廊下を進む。
夜中二時過ぎということもあり、患者たちはベッドに横になっていた。眠れない者もいるが、彼らは夜中に何度も看護師が睡眠チェックのためにやってくるのを知っている。笈川も、看護師のようにそれぞれの個室を見て回った。時折うなり声がするが、彼を不審がる者は誰もいない。
懐中電灯の丸い光はぐんぐんと奥へ進み、ついに六宮の鉄格子を照らした。と同時に、うずくまる黒い影をもその端に捉える。まるで、六宮の部屋を守るガーゴイルだ。
「君……何でここに」
小暮が、膝を抱えて座り込んでいた。急に当てられた電灯の光がまぶしいらしく、大きな目を精一杯細めている。
「せんせい……笈川先生ですか?」
「先生ですかじゃないよ、一体ここで何してんの」
「先生を待ってたんです」
小暮はふら付きながら立ち上がった。
「今日だとは思いませんでした。けど、ここで待ってたらいつか来るだろうと思って……看護師の山村さんに頼んで、僕が入った後に閉鎖病棟の扉を施錠してもらったんです」
「オレが恋しいのは伝わってきたけど、結局何がしたかったんだ?」
笈川は呆れ顔だ。ふと鉄格子の中を見ると、ベッドの中で六宮がもぞもぞと動いた。二人の声で起きてしまったのかもしれない。
「場所を移そう。オレを捕獲できたことだし、もうここにいる必要はないんだろう?」
「はい」
戻りながら、笈川は手の中で鍵束を弄んだ。その中から、比較的小さめの鍵を選び出す。
「折角だから、この鍵使ってみようか」
「何ですか?」
「屋上だよ。行ったことないだろ?」
屈託のない笑顔で言う。
「今日はきっと星見えるんじゃないかなあ」
小暮はまだ迷っていた。信じたい気持ちと疑いとの狭間で葛藤する。そんな気持ちを知ってか知らずか、笈川はいつもの柔和な顔で階段を登っていった。
この大阪府精神科医療センターは二階建てだ。すぐに屋上への扉にたどり着き、鍵を差し込む。あまり使っていなかったせいか、滑りが悪く少々手間取った。
「涼しい……」
「閉鎖病棟の患者さんにも、早くこういう空気を吸ってもらいたいよなあ」
後ろ手にドアを閉めると、笈川は柵に歩み寄った。普段は入れないようになっているが、かなりだだっ広い。左側には給水タンクや空調機器がある。屋上の周囲に二メートルほどの金網柵が張り巡らされていること以外、人が来ることを想定して作られてはいない様子だった。
「月、明るいですね。懐中電灯がなくても良いくらい」
「もうちょっとで満月だったのにねえ」
笈川は懐中電灯を消し、コンクリートの床の上に置いた。軽く金網に指を絡ませ、振り返る。
「で……何の話だっけな。告白?」
「いえ、残念ながら。――僕、今日ずっと考えてたんですよ。始めは気づかなかったけど、カンファレンスルームで先生と話してて、急に気づいたんです」
「何に」
「あのとき……笈川先生が目を刺されたとき、どうして閉鎖病棟にいたんですか」
小暮は、微動だにしない男の顔を見た。動揺する様子もなく、いつも通りの笑顔を貼り付けている。
「どうも気になったんでね。そんなに珍しいことじゃないはずだけどなあ」
「笈川先生は、他の先生よりも患者さんとの関係が密なのは分かっています。あのときの目当ては、六宮さんですよね?」
「そう。搬入されてからまだ三日しか経ってなかったからね」
「けど、他の患者さんに比べて落ち着いていました。先生も自分で言ってたでしょう? 薬もちゃんと飲むし、会話も続くし、易怒的なところもなかったって。抑制帯も外すよう指示したくらいでした。それと比べたら、他の患者さんの方がよっぽど気になるはずです」
笈川は、どこか笑っているような、曖昧な表情で聞いていた。
「それに……話は変わりますが、あの救急隊員さんのこと覚えてますか? 自治隊に捕まった人です」
「ああ。オレと君が当直してたとき、六宮君を運んできた人だよな」
「そうです。あのときの自治隊非難を、誰かに密告されたんです」
「まったく可哀想にねえ」
「僕、ずっと考えてたんです」
一瞬のためらいがあった。小暮は敢えて視線を外すと、思い切ったように口を開く。
「密告したの……先生ですよね」
笈川の表情は、なお変わらない。しかし小暮は、今や彼の微笑がとても白々しいものに感じられた。月光を受けた包帯が、小暮を無言で責めるようにぼんやりと浮かび上がっている。
「僕……本当に申し訳ないと思ってます。先生が受けた傷の苦しみは、償いきれないくらい大きなものだと分かっているんです。だけど、どうしてもそうとしか考えられないんです。先生じゃないって、何度も思おうとしたのに」
「君がそう言うからには、ちゃんとした理由があるんだろう?」
「自治隊批判って、みんな結構してると思うんです。路上では監視カメラが設置されてますから無理でしょうが、屋内の、監視の目が行き届いてないところでは、みんな普通に批判してるんです」
「ふうん」
「今日、山村さんのところに行きました。彼女も同じことを言ってましたよ。だとすると、どうして彼だけが密告されたんだと思いますか」
「さてねえ」
「僕、私怨だったんじゃないかと思うんです。――あのとき、救急隊員さんの失言を聞いていたスタッフは僕を含めて五人。山村さんたち看護師が三人と、僕と、そして先生です」
「そうだったかな」
「確かにこの五人でしたよ。それで、今日山村さんに確認したんです。看護師の三人は、皆さん救急隊員さんの名前すら知りませんでした。そして、先生は彼と知り合いだったそうですね?」
「知り合いって言っても、何度か飲み屋で会ったことがある程度なんだがなあ」
「あの場で密告することが出来る人は、僕も含めて五人です。しかも、みんな院内で自治隊批判なんか日常的に聞いているはずです。なのに、今まで誰かが密告されたというようなことはありませんでした。されたのは、あの救急隊員さんだけです。つまり、自治隊よりの思想を持っていたから密告したわけではないんですよ。――あの人だから、あなたは密告したんだ」
聞き終えた笈川は、眉を上げて何度もうなずいた。未だに余裕の表情をしている。
「で? 例えそうだったとして、それが閉鎖病棟の六宮君に会いに行ったこととどう関係があるんだい」
「それは僕のほうが聞きたいですよ。先生は六宮さんに何をしようとしてたんですか?」
笈川は後頭部を掻きながら、歯を見せて笑った。
「いつも言ってるだろう、人に訊く前に自分で考えるの。訊いてもいいけどさ、まずは自分の考えを言ってごらん」
「えっ? ええと、六宮さんを殺そうと……」
「あのなあ、六宮君とオレは面識ないの。さっきは私怨による密告で今度は無差別殺人って、どんだけ節操ないんだよ」
「あっ、じゃあ先生は実は自治隊のスパイで、自治隊批判をした六宮さんも密告しようと……」
「君さっきさぁ、"院内で自治隊批判なんか日常的に聞いているはず"って言ってただろ。なんでオレ今まで大人しくしてたの?」
「うう……先生、実は過去に六宮さんに振られてて、その腹いせに」
「頼むから、これ以上オレの嫁探しに支障をきたすようなことは言い出さないでくれ。今年で三十五なんだ」
初めて苦々しい顔を見せた。
「じゃあ、正解は一体何なんですか」
「いやいや、その前に前提が間違ってるんだよ」
小暮は彼の言わんとすることが分からず、ぽかんと口を開けた。笈川が思わず吹き出す。
「さっきの名探偵ぶりは好きだったよ。なかなか聞いてて面白かった。けどねえ、五人じゃないんだ。あのとき、もうひとり処置室にいた人間がいるんだよ」
「え? でも、僕と山村さんたちと、先生と……まさか六宮さんが?」
「ばか、どうやって密告できたんだ。思い出してごらん、六宮君はどうやって運ばれてきたんだい?」
「救急隊員さんに両脇を抱えられて……あ!」
笈川は笑顔でうなずいた。
「救急隊員さんたち、そういえば二人いました……」
言ったあと、小暮は赤面した。先ほど散々喋り捲ったあげく、世話になった先輩医師を犯人扱いしたのだ。
「君の理論で言えば、同じ職場にいるもう一人の救急隊員のほうが、オレなんかよりもよっぽど私怨を持ってそうな感じがするんだけどね」
「すみません。すみません」
必死に頭を下げ、謝罪を繰り返す。その様子を見て笑ってくれているのが唯一の救いだ。
「それと、六宮君に密かに会いに行って目を刺された件だけどな。さっき君は、どうしてオレを疑ったんだっけ?」
「どうしてって……六宮さんは問題がないし、他の患者さんよりも、よっぽど落ち着いてるのになって。だから、夜わざわざ彼を見に行くなんて、不審だなって……」
「違うね」
あまりにもすっぱりと切り捨てられ、小暮は狼狽した。自分が散々疑われていたときはあれだけにこにこしていたのに、患者のこととなると、その表情は一変する。
「看護記録を見たかい? それに、オレもあのとき言ったはずだよ。彼は確かに従順だったけど、食事を全然摂ってくれていなかったんだ。抑制帯を外すまでは、胃が圧迫されるからといって、水すら飲んでくれなかった。それに、睡眠表を見ても分かるが、彼はほとんど寝ていない。
分かるかい? テレビ局に乱入してからオレが注射を打つまで、ずっと暴れっぱなしだったんだよ。なのにほとんど眠らず、食事も摂らなかった。……こういう人が危ないんだよ。突然死の可能性が高い」
笈川は諭すように、一言一言はっきりと言った。小暮は言い返す言葉もなく、ひたすら俯いている。
笈川は正確に患者の状態を把握していた。彼が不審に思えたのは、何のことはない、小暮自身が未熟だったからなのだ。
「僕……先生に教えてもらう資格ありません。何をやっても空回りして、あげくに先生まで疑って。もう救い様がないです……」
「まぁた変な方向に反省して。どうせなら、二度と同じことはするもんかって奮起しろよ」
「はい……すみません」
笈川は金網から手を放すと、軽く伸びをした。ゆっくりとした足取りで入り口の扉まで引き返していく。
が、何か忘れ物でも思い出したかのように立ち止まると、しょんぼりとしたまま付いて来る小暮を振り返った。
「小暮さあ。今回のやり方、オレは好きだよ」
「……え?」
「さっきさ、来るかどうかも分かんないのに六宮君のところで待ってたんだろ。明日直接訊くことも出来たのに、今夜もし彼の身に何か起きたらって心配してさ」
「はい……」
「経験や知識なんてこれから嫌でも増えてくだろうよ。けど、そういう気持ちはそうはいかないからねえ」
「……はい!」
小暮が、初めて誉められた子供のように目を輝かせた。
「僕、患者さんを幸せに出来るような医者になりたいです。ただ治すだけじゃなくて、この病院で診てもらって良かった、生きてて良かったって思って貰えるような。先生はいつも患者さんに親身になって接してて、尊敬してます。さっきだって、看護師さんじゃなくわざわざ自分でみんなの睡眠チェックしてて……」
「え? あ、ああ」
笈川は照れたのか、少し困ったような笑顔で頭を掻いた。そのとき、ふと今気付いた様子で小暮が言う。
「そういえば先生、あのとき目だけじゃなく足も怪我されてたんですか」
「ん? してないが、何だい唐突に」
「いや、足音が変だったから……ほら、さっき閉鎖病棟で先生を待ってたとき、すごく静かだったでしょう。そのとき足音が左右一緒じゃないって言うか」
「君……変なところに気付くなあ」
「それに、入ってきたときしばらく立ち止まって何かしてましたよね。靴の調子でも悪かったんですか?」
「また尋問かい?」
「いや、そういうわけじゃないんですが、なんか気になっちゃって」
「つくづく、平穏な人生は送れないタイプだねえ」
呟きながら、笈川は屋上の扉の前へと歩いていった。
そのまま、屋上唯一の出口を無言で施錠する。
「先生、どうして……鍵……」
笈川は振り返ると、両手を白衣のポケットに突っ込みながら歩み寄ってきた。
「嫌なもんに目ぇつぶって暮らせるやつは幸せだよ。余計なことに首なんか突っ込まないでいられるやつもだ」
「あの……何を……」
小暮の足が自然と後ずさった。さっきまで尊敬の念を込めて見ていた男の心が、全く読めない。あの笑顔は一体何を意味しているのだろう。
「いたるところに設置されている監視カメラは、もちろん自治隊非難の発見にも役立てられてはいるが、一番大きな名目は防犯だ」
やけに湿った夜風が頬をなで上げる。後ずさりながら、小暮は笈川の顔から目が離せないでいた。
「さあ、君の目的は何なんだ。どうせここは監視カメラの射程圏外だ。互いに腹を割ろうじゃないか」
「た、ただ僕は気になっただけで……そんな、目的なんか……」
しどろもどろの、情けない答えだった。目がせわしなく周囲を見回してはいるが、退路らしきものは一切発見できない。
「何か気に障ったならもう言いませんから……ただ、靴の中に何か仕込んであったりするのかなって思ったりしただけなんです。嫌ならもう二度と言いません、ほ、本当です」
「憶測だけで夜の閉鎖病棟で待ち伏せするようなやつが、そう大人しく引き下がるとは思わんがね」
焦らすような歩調ながら、確実に笈川は近づいてくる。
「僕は……殺されるんですか……」
喉が、無意識にひくひくと震えた。
「今後の反応によっては、あるいはね」
助けを呼ぼうにも、大声どころか上手く喋ることすら出来そうにない。しかし、例え大声を出せたところで、こんな屋上まで助けがくるわけもなかった。
「これが君との最期の会話になるかもしれない。ひとつ、面白い話をしてあげようか。――鎌状赤血球については知っているね?」
小暮の背中を、金網のフェンスが打った。これより後ろに逃れることは出来ない。しかし、彼は恐怖を感じながらも、一体なぜ笈川はこんな話題を出すのだろうかと訝った。
「赤血球の形が鎌みたいになっちゃう遺伝病ですよね……重度の貧血病を起こすっていう」
「そう、確かにこれにはそういうデメリットもあるね。だがメリットもあるんだ」
「マラリアを発症しづらくなるんですよね」
笈川は歩を止め、正解、と言った。
二人の距離は一メートルもない。十センチ以上も背の高い笈川に掴みかかられたら、小暮はどうすることも出来なさそうだ。
「つまり、これは病気という一面を持ちながら、"状況によっては"種族をマラリア原虫から守る切り札ともなり得るんだ」
「はあ……」
「さて、ここで話題を変えよう。君はジャンヌ・ダルクについて知っているかい?」
「まあ少しは……イギリスからフランスを守った聖女でしたっけ。でも、どうして今こんな関係ない話をするんですか」
「パズルのピースを君に提供してるのさ。君がそれをどう組み立てるかで、その後の対応を決めるつもりだ」
相変わらず、笈川は笑顔のままのんびりとした調子だった。この異常な状況でさえいつもの状態を保っているのが、さらに異常さを掻き立てる。にもかかわらず、小暮には助かる方法はおろか、彼の意図すら掴めないままだ。
「さて、ジャンヌ・ダルクが現代の精神医学では統合失調症の診断を下される、というのは有名な話だよな。君も聞いたことがあるだろう。神の声を聞いたといい、時には人が変わったように粗暴になる」
「確かに……でも、精神医学からの見方だけが全てじゃないでしょう」
「その通り。宗教家は彼女を、本物の神の声を聞いた聖女として扱っている。ジャンヌのしたことは変わらないのに、誰がどう見るかで結論が変わるんだよ。しかしここで言えるのは、たとえ彼女が幻聴持ちの統失患者だったとしても、フランスを救ったことには変わりないってことだ。力では男にかなわないが、彼女はどの男も出来なかった偉業を、そのカリスマ性をもって成し遂げた。英雄として扱われたのは当然だろう」
鎌状赤血球とジャンヌ。小暮には、いくら考えてもこの二つの共通点が見出せない。そんな彼の心中を察したのか、ちらりと腕時計を見て、笈川は更に続けた。
「状況が彼女を英雄にした。鎌状赤血球の人間が、マラリアの感染拡大を食い止めたのと同じようにね」
「状況が……人を決める?」
「そうだ。我々は、必要ないときには彼らを精神病患者として扱う。しかし、時が来れば英雄となり得るんだ」
小暮はしばらくの間驚いたように黙っていたが、急に、その丸い目を吊り上げた。
「ふ、ふざけないでください!」
柵から背を離し、見上げるように笈川を睨む。
「先生がいくら脅したって……ぼ、僕は腰抜けじゃない! 患者さんの意思も考えず利用しようとするなら、絶対に許しませんから!」
精一杯の怖い顔で威嚇する。足は震え、冷たい汗が額を伝った。
笈川は身じろぎもせず、意外そうに見返した。そのあと、なぜか心から嬉しそうに顔をほころばせる。
「これからの精神科医に君のようなのがいて嬉しいよ」
くるりと背を向けると、笈川は再び階下へと通じる扉に向かう。
鍵束を取り出すと、あっさり開錠した。
「閉鎖病棟まで、付いてきてくれるかい」
階段を下り、二人は再び六宮のもとへと向かった。
幸いなことに、誰ともすれ違うことはない。おそらく、あらかじめ笈川が道筋やタイミングを考慮したのだろう。
「ところで、君は言ったね。患者さんを幸せに出来るような医者になりたいって」
「……はい」
「オレも同感だ。だからこそ思うんだよ。勝村さんを見ていて、治らなければいいのにって」
「え?」
「勝村さんはあの年だ。それほど先が長いとはいえないよ。子供さんは入院以来一度も面会に来たことがないし、最愛の奥さんも目の前で亡くしている。たとえば病気が治ったとして、毎日囁きかけてくれる百合子さんが自分の仲間に殺されたんだと改めて思い知ったとき、彼はどう感じると思う?」
「それは……」
医者の言葉としては、到底同意しづらいものだ。しかし小暮には、勝村に二度も絶望を味わわせることなど耐えられなかった。
「現実は残酷だよ。とすれば、彼を穏やかな状態でいられる程度に回復させて、あとは何も知らないままに過ごさせた方が幸せじゃないかと思うんだ。医者の言葉としては無責任だろうがね」
重量感のある扉に鍵を差し込む。閉鎖病棟へと再び足を踏み入れた。
勝村の部屋の前に来たとき、小暮は、枕を抱きしめながら未だ妻の名を呟いている彼の姿を見た。彼女はもういないのだと、どうして彼に言えるだろうか。
「余談だが、これも君に話しておこうか」
笈川が押さえ気味の声で言った。小暮はあわてて彼の横まで走り寄る。
「隻眼の話だ。昼は誰も謎を解いちゃいないなんて言ったが、日本の神話や伝承だけに限れば、民俗学者が面白い説を唱えている」
笈川が自分の左目を指した。
「昔、神に生贄を捧げるとき、そいつが逃げないように片目を潰したんだと。そこから、隻眼が神格と同一視され始めたらしい」
「……ひどい……」
「ところで、六宮君が柱と言ったのを覚えてるだろう。神様を数えるときの単位は"柱"だし、大きな建築物を守るために生き埋めにされた人のことを"人柱"なんて言ったりもする。つまり柱ってのは、神と人との間をつなぐ霊的装置のようなものだと思うんだ」
小暮は眉をひそめた。いくらなんでも飛躍しすぎている。
「まさか、そこまで考えて目を刺したなんてことないでしょう」
「どうかな」
二人は、六宮の鉄格子の前で立ち止まった。彼はまるで待っていたかのように、ベッドに腰をかけた状態で起きている。
「六宮君。久しぶりだね」
笈川は歩み寄り、目を細めた。六宮も立ち上がると格子に近づき、澄んだ目で彼を見つめる。ひとつ瞬いたあと、厳かに告げた。
「天柱を以って空をつなぎ、地柱を以って大地をつなぐ。――これで、世を統べし二本の柱が揃いました」
笈川が頷く。非現実的な言葉ながら、二人の中では確かに通じ合っているようだった。
「君を必要としている者たちがいる。オレと彼らは、命をかけて君を守るだろう」
そして、呆気に取られていた小暮に振り向く。
「さっきの君の問いに答えよう。オレが君を殺すかって質問だよ。三日だ。三日間だけ、このことを黙っていて欲しい。そうすればオレは、君に今後一切何もしないことを誓おう」
「ひとつだけ……条件があります」
つばを飲み込み、笈川を見据える。
それは六宮の幸せについて考えた末の、小暮なりの結論だった。
「約束してください。また必ず、六宮さんの元気な姿を僕に見せてくれるって」