隻眼
「先生……笈川先生」
振り向くと、小暮が泣きそうな顔で立っていた。
昼休みの食堂だ。明るい室内に長机が並んでいるが、席は六割程度しか埋まっていない。休憩室で食べる者もいるためだろう。病院のスタッフたちが、おかずなどが入った皿をトレイに載せ、つかの間の休憩を楽しんでいる。
「ああ一週間ぶりだねえ。しかし、何だその顔」
ひとりで定食を食べていた笈川が箸を止めた。
「あの、僕……本当にごめんなさい」
小暮の大きく丸い目から、ぼろぼろと涙がこぼれた。その場にくず折れ、両手を付いて謝罪を繰り返す。
「お、ちょっとちょっと」
小暮の肩を掴んで脇に手を入れ、立ち上がらせようとした。笈川の顔は、左目を中心に白い包帯でぐるぐる巻きにされている。鍵で目を刺されて一週間入院し、今日やっと復帰したのだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「ちょっと小暮、カンファレンスルーム行くか。……まいったなあ、男泣かせる趣味はないんだがなあ」
すでに、食堂中の視線が二人に向けられていた。そのほぼ全員が事情を知っているようで、互いに小声で囁きあっている。
怪我人よりも頼りなげな小暮を支え、笈川は腹五分目で食堂を出る羽目になった。
*
カンファレンスルームとは、いわゆる会議室である。何部屋かあるが、人目を避けるために小さい部屋を選んだ。クリーム色の室内の真ん中に八人掛けの白い楕円形テーブルが置かれているだけの、至ってシンプルな部屋だ。
「しかしねえ、復帰初日とはいえ歓迎が熱烈すぎじゃないかい」
そんな軽口に、小暮は返事も出来ず嗚咽している。笈川は彼を椅子に座らせると、自分も隣の席に着いた。
「あれか、オレの左目が駄目になったんで、責任感じてんのか。ん?」
いつも患者に接しているときと同じ、優しく落ち着いた声だ。うつむいたままの小暮に、覗き込むようにして笑いかける。
しばらくして、途切れ途切れの答えが返ってきた。
「……目……どうなっちゃうんですか……」
「まあ、光が感じられる程度にはなるだろうよ。ちなみに利き目は右だ。ラッキーだったろ」
「全然ラッキーじゃないですよお……僕のせいで失明したのに……」
再び嗚咽が激しくなった。背中を丸め、膝の上の手はズボンを千切れんばかりに掴んでいる。雨のように、涙がその手を打っていた。
「ばかだねえ。ありゃあどう考えたってオレのミスだよ。君さ、研修医のくせに一丁前に、オレより責任があるなんて思い込むんじゃないよ」
「あのとき、ちゃんと先生は患者さんを守って……僕のことも……僕が、あの人を怒らせたから……」
「抑制帯を外したのはオレの指示だよ。言い訳になるが、食事を摂ってくれないこと以外は大丈夫そうだったんだ。会話も続くし、薬も素直に飲んでたしな。搬入されてからの三日間は、易怒的なところもなかった」
易怒的とは、簡単に言うと『非常に怒りっぽい』ということだ。中には、罵声を浴びせかけてきたりドアを叩いたりと暴力的になる患者もいる。
「先生が入院されてた間もそうでした……お薬もちゃんと飲むし、普通の会話も続けられたし。閉鎖病棟にいなくてもいいんじゃないかってくらいしっかりしてて。……あのときだけなんです。あのときだけ、六宮さん怒っちゃったんです。だから……」
「分かった分かった、もう何でも良いから泣くなよ」
笈川は、整えられた小暮の黒髪をぐしゃぐしゃと掻きまわした。
「面白い話をしてやろうか」
何かを思い出すように天井を仰いだのち、にっと笑って人差し指を立てる。
「神話や伝説なんかには、なぜか隻眼がよく登場するんだ。オレみたいなのもいれば、最初から一つ目のやつもいる。ギリシア神話のサイクロプスなんか、君でも知ってるだろう」
「……はい」
爆発したような乱れ髪のまま、小暮は鼻をすすった。
「この傾向は世界中でそうなんだ。日本神話にも、天目一箇神ってのが出てくる。神様だけじゃないぞ、魚とかヘビとか、妖怪にだって出てくる。一つ目小僧やカラカサお化けなんか有名だよな。鍛冶師の職業病と関連付ける説もあるが、隻眼の神は金属器時代より前にも存在したし、当てはまるのが日本とギリシアだけってんじゃイマイチ弱い。さあ、なんでだと思う?」
「わかりません……どうしてですか?」
尋ねると、笈川は笑いながら言った。
「この謎な、まだ誰も解けちゃいないんだ」
いたずら好きの子供のように喜ぶ男を見て、ようやく小暮が笑った。
「全然面白くないです」
「厳しいねえ」
「でも……ありがとうございます」
手の甲で涙を拭う。しっかりと涙を流せていた自分の目を実感し、また目頭が熱くなった。
「何でこんなことになっちゃったんでしょう。僕があのとき、先生と一緒に閉鎖病棟に行かなければ……きっと今頃は……」
「まぁたそんな顔して。もういいから忘れちまえ。な。全部忘れるんだ、いいな」
なんとか涙を堪えたものの、まだ唇は強くかみ締めたままだ。笈川は立ち上がり、軽く息を吐いた。
「君、しばらくはここで休んでたほうが良いな。悲しい顔で患者さんの前に出ちゃ、患者さんにも悪いしね。診察してくるから、元気になったらまたオレんところに来な」
言ったあと、左手の腕時計を見る。残された昼休みはあと三分だ。
「ああ、飯……」
前髪を掻きあげ、笈川は食堂に残された定食を惜しんだ。
そんな彼を涙の向こうに見ながら、小暮は、ひとつの疑念を抱えていた。