御柱(みはしら)
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「先生、今ごろから回診ですか?」
三日後の夜、閉鎖病棟に向かう笈川の元へ、小暮が走り寄って来た。
「いや、そういうわけじゃないんだけどね。で、どうしたんだ?」
「そうそう、聞きましたか? 救急隊員さんの話」
「ああ、自治隊が事情聴取に来たな」
「あのとき処置室で言ったことがバレたみたいです。裏も取れちゃって、それで逮捕されたって」
「だろうなあ。あの場のやつらは全員聞いてたし」
閉鎖病棟に続く鉄扉を開錠しながら、笈川は答えた。
「一体、誰が密告なんかしたんでしょう」
「さあねえ」
小暮は納得いかない表情で見ていたが、すぐに話題を変えた。
「六宮さんの様子、どうです」
「落ち着いてるよ。聞いてるだろうが、薬物検査は陰性だった。統失だな。妄想に幻聴ってところだ」
統失とは『統合失調症』のことだ。今では、この病院の入院患者の八十パーセント以上が統合失調症患者である。
鉄扉を閉め、二人は閉鎖病棟の奥へと進んだ。両脇にはクリーム色の鉄格子が並び、薬品と糞尿の混じったような臭いがする。
「せんせ、せんせ」
ひとつの鉄格子から、浅黒い男の手が伸びた。
「こないだ言ってた、ほら、殺しに来たスパイの話ですが」
「うん」
途端に、笈川の顔に人懐こい笑みが浮かぶ。患者は六十代の勝村貞夫という元自治隊員だ。
「分かってたんです、ほら、やっぱ途中で入ってきた小五郎君じゃないかなって。百合子もそうだって」
「そうか、じゃあ他の先生にも言って、悪いスパイが入れないようにしなきゃなあ。それで、百合子さんと勝村さんを守るから」
「あの、ぼくなんかどうでもいいですから、百合子を」
「そっかそっか、百合子さんに何かあったら大変だもんなあ。勝村さんが寝てるときも、オレ起きて見張ってるから」
「ありがとうございます。ありがとうございます」
「オレがしっかりすればまた安心して寝られるかな。最近良く寝られてないでしょ?」
「はい。公園の池が薄くなってきました……」
「大丈夫だよ。全部上手く行くよ」
笑顔のまま立ち去る笈川に小暮があわてて着いていく。
「先生、百合子さんって……」
「亡くなってるよ。勝村さんの奥さんで、コンビニ強盗の人質になってたところに強行突入した自治隊の流れ弾が飛んできた」
「勝村さんも自治隊員だったんですよね」
「突入しようとする同僚を制止して、彼も撃たれている。こっちは軽症で済んだがな」
後ろでは、勝村が亡き妻との会話を楽しむ声が聞こえた。
「幻聴、なくならないですね」
「その方が良いのかもな」
「え?」
それには答えないまま、笈川は白い廊下を進んで行った。
彼は人気があるようで、時折動ける患者が手を伸ばしては話しかけてくる。その全員に丁寧に対応するため、一部の看護士や医者からは、仕事が遅い、マイペースだと非難の声が上がっていた。
「六宮君、こんにちは」
六宮の部屋の前で、二人は止まった。鉄格子の向こうの彼は、部屋中央のベッドに横たわっている。搬入されたとき以来大騒ぎすることはなく、勝手に点滴を抜いたりなどの行為も見られないため、もう抑制帯は外されていた。
「気分はどうかな。良く寝られた?」
開錠し、二人は室内に入った。部屋は手狭で、窓と言っても鉄格子つきの小さなものが一箇所にあるだけだ。室内は埋め込み型の白熱灯で明るく保たれている。一般的な吊るすタイプの電灯でないのは、そこに飛びついたり物を投げつけて壊されたりする恐れがあるからだ。天井の隅には監視カメラが取り付けられており、目立たないように黒いカバーで覆われている。右奥にひっそりとあるのは、むき出しの便器だ。廊下からは見えないように置かれているものの、扉や仕切りなどは設置されていない。
「寝ると……どんどん引っ張られて」
「寝られないのか。そりゃ辛いよなあ。どこ引っ張られた?」
「魂が。早く掃討しないと……」
「寝てると魂を引っ張られるのか。だから、早くそいつをやっつけたいんだな」
六宮は上半身を起こし、こくこくと頷いた。小暮は驚きの表情で二人を交互に見る。
「オレも、その悪いやつらをやっつけるお手伝いはできるかい?」
「神の部隊を、結成するのです。悪しき造物主を殺すための……」
「造物主ってのは、自治隊のこと?」
「あれは魂を闇に売った屍ですから。腐敗した頭脳です、それが命令します」
「大阪府庁のことか?」
「現人神の名のもとに、我々は戦わねばなりません。私はその柱となります」
「"ハシラ"?」
後ろから、小暮が素っ頓狂な声を上げた。あわてて口に手を当て『すみません』と呟く。
「柱ですよ。なぜ分かりませんか」
六宮の声にわずかな苛立ちが混じった。半身を起こし小暮を見据える姿は、大きな蛇を思わせる。
「君は部屋から出なさい」
笈川が体を六宮のほうに向けたまま、横目で静かに言った。
「す……すいません、僕は」
何かを言いかけたとき、六宮の体が跳んだ。蹴られたベッドが音を立てて後ろにずれる。
彼は大きく手を広げた。鉤爪型に強張った指先は、猛禽類を思わせる。その爪先が、動転したまま動けない小暮の鼻先を掠めた。支えるもののなくなった体は、胸をがら空きにしたままリノリウムの床に向けて落下する。
笈川は、とっさに自身を滑り込ませた。
「ぐっ――」
細身とはいえ、成人男性を抱きとめた衝撃は強かったようだ。笈川は膝を強打した上に横倒しになり、顔をゆがめた。白衣のポケットに入っていた鍵束が飛び出して床を滑る。
「柱が、柱が、柱が、柱が、柱が」
六宮は素早く鍵束を掴み取った。その表情は空虚で、何の感情も含んでいない。
彼は逆手に握った鍵の先端を、笈川めがけて何度も振り下ろした。