3 やっぱり夢だったようです
敦子は、スーパーで買ってきたものを冷蔵庫に入れたり、作り置きをしているうちに、気が付けば夕方になっていた。
部屋から見える空は、オレンジ色に染まっていて、明日も晴れることを約束したような空だった。
時間は、午後五時すぎ。この時間は、なんとなく物寂しくなる。
先ほど洗濯物を取り込んだ時には、まだ日が高かったせいか、外は暑かったが、今は真夏と比べるとずいぶん涼しくなった気がする。
どおりでエアコンもよく効くわけだ。
作り置きの食材の一部を今日の夕食にして、テーブルに置いて、テレビを見ながらほとり食べた。
洗い物を済ませて、一息つく。
「今日掃除したし、ネイル少しはがれたかも。とっちゃおう」
昨日塗ったネイルをリムーバーでとり、これまたお気に入りの爪用のトリートメントを塗った。
「お風呂の中で、またいろいろやってみよう。水の上に歩けるのかなあ」
誰も答えてくれる人はいないのだが、つい声に出してしまう。1人暮らしになって、できた癖だ。
敦子は、さっそくお風呂に入ることにした。
まだ夜の7時を過ぎたばかりだが、こういう時に一人暮らしは楽である。
このアパートのお風呂は、洗面所とお風呂場が独立している。
敦子は、ゆっくりとお風呂につかったり、体を洗いたかったので、このアパートを選んだようだものだ。
このアパートのお気に入りの一つである。
まず髪や体を洗った。そしてお風呂につかる。
いつもなら、その日の気分に合わせて入浴剤を選ぶのだが、今日は、実験しなくてはいけないので、入浴剤はやめておいた。
そして、洗い場に立ち、意識を集中して浴槽に入った。
イメージとしては、水の上に立つというのを想像していた。
しかしである。浴槽の中に足を入れると、浴槽の底まで足が入ってしまった。
「あれっ、おかしいなあ」
それから、出たり入ったりして見たが、ダメだった。
そこで、また球を作ってみようと洗い桶の中にお湯をはり、意識を集中してみたが、これまたうんともすんともいかなかった。
お風呂に入って、リラックスするはずが、反対にだんだん疲れてきたので、お風呂から上がることにした。
髪を乾かし、化粧品をつけて、一段落したところで、お風呂上がりに、作ってあった茶を一杯飲みながら、考えてみることにした。
「何が違ったんだろう」
いくら考えても、答えは見つからない。なぜなら、できたことだって理由がわからないのだから。
「超能力かと思ったけれど、違ったんだ~」
なんだか、がっくりしてしまった。
午前中の浮き立つような気持ちが懐かしく感じる。
「けどよかったかも。これが明日だったら、日曜の夜の憂鬱とがっくり感で、半端なく落ち込んじゃうよね」
そう結論づけて、その日は、ネットを見て過ごした。
翌朝は、日曜日ということもあり、のんびり起きた。
カーテンを開けると、青い空が見えて、今日も天気がよさそうだった。
いつものようにお洗濯をして、朝ご飯を準備して、食べ終わり、食後のコーヒーを飲んでいると、廊下のほうで声がした。
隣のドアが開く音もする。
ここは、端っこの部屋なので、隣は一部屋しかない。
「あっ、そうか。昨日大家さんが言ってたっけ。お隣引っ越してきたんだ。イケメンだといいなあ。目の保養になるし。『エレベーターの貴公子』さんだったらいいなあ。まあそんな偶然あるわけないか」
『エレベーターの貴公子』とは、敦子の会社が入っているビルのエレベーターで会うかっこいい人の事で、敦子がいる会社で、女の子たちからそう呼ばれている有名人だ。
ここ半年ぐらい前から、見かけることが多くなった。といっても、たまにだが。
背が高く、涼やかな目もとで、芸能人でもあんなに整った人は、いないぞというくらいに整った顔立ちをしている。しかも冷たい感じではなく、柔和といった雰囲気を持っている人だ。
会社の情報通の子の話では、敦子より上の階の会社の人らしい。有名な商社に勤めており、日本に戻ってきて半年ぐらいだと言っていた。歳は28歳。敦子と同じ年らしい。
その子が聞いたのは、同じ会社の人からなので、確かな情報といえるだろう。
エリートサラリーマンで、しかもイケメン。絶対に彼女いるよねという話になり、みんな目の保養ぐらいに思っている。なかなかあんなすごい人に告白しようなんて気概のある女の子は、いないだろう。
そこで、だれかれともなく、敦子の会社では、『エレベーターの貴公子』というあだ名がついている。
たまに乗り合わせた子がいると、一日中ほかの子たちから、うらやましがられるのだ。
まるで芸能人の様だと、敦子は思っている。
まあ敦子も『エレベータの貴公子』とは、両手で数えるぐらいしか、会ったことはないのだが、ちらりとみた横顔は、騒がれても当然とばかりに整っていた。着ているスーツもよくあっていて、モデルの様だと思ったものだ。
それでも、あの時焦ったことは覚えている。
あまりに、ガン見しすぎたからだろうか。
『エレベーターの貴公子』は、顔をこちらに向けて、微笑んでくれた気がした。
それを見たとたん、心臓が飛び跳ねたようになってしまい、気が遠くなりかけたのだ。
ちょうど、自分の降りる階で、エレベーターが止まり、転がるように飛び出た。
後ろからくすっと笑い声が、聞こえた気がしたのは、気のせいかもしれない。