1話
これは、夢なのかな。
エメラルドグリーンの毛色をした美しい猫がわたしの前を歩いている。
周りはもやもやしていてよく見えなくて、だから余計に猫が鮮やかに、綺麗に見える。
わたしが立ち止まると猫はこっちを向いてついてきているか確認しているみたい。
にゃぁん。高い声でかわいく鳴く猫を、思わず抱き上げる。温かくて柔らかくて、甘い、いい匂いがする。触れていて幸せな気持ちになってきてしまう。
赤ちゃんを抱くようにすると、そこだけ白いお腹がみえて衝動的に優しく撫であげた。ふかふかなその感触を楽しんでいると遠くから声が聞こえる。
にあーーーん。上を見ると、そこだけ見える、家の屋根の上に炎のような、血のような。赤い赤い猫がわたしをみている。
あの猫はなんだろう?そう思ってみていると、赤い猫はこちらに向けて大きく口を開けた───
───自由席はございません。次は上野に止まります。
その声ではっと目が覚めた。
ずいぶんと幸せな夢を見ていたけど、急いで降りる用意をしなくてはいけない。
故郷である北海道から出てきて1日目。職場の人と待ち合わせしている上に、乗り過ごしたら今日中に戻って来られない自信がある。
ここでミスをするわけにはいかない。大学卒業して新入社員として入った出版社の支社が4ヶ月で潰れて、運良く他の支社に拾ってもらえた。
本とDTMが好きなだけで特に取り柄もないわたしがうまく転職出来るかって聞かれたら目を逸らせるしかない。
だからいきなり東京に行けって言われても、拒否するような権利なんて持っているはずがない。
せっかく東京まで来たんだから、最初から見切りをつけられるようなことがないようにしなくっちゃ……!
新幹線を出てすぐスマホでMAPを確認しながら待ち合わせ場所に向かって走る。
指示された出口が見えてくると同時に見えた人混みの多さに戸惑った。
お祭りでもないのに人が多い。……お祭りじゃないよね?
きょろきょろと見回すと、同じようにしている人がいた。聞いていた特徴と合っているけど、思ったよりイケメンだ。ラッキーだけどちょっと恥ずかしい。彼氏いない歴22年をなめないで欲しい。しかし、これも仕事。がんばるしかない。
「あの、すみません。牟田川出版の方ですか?」
わたしに振り向いた彼が、爽やかに笑いかけてきた。うん、かっこいい。
ふと、夢に出た緑の猫を思い出した。頭の中でかわいくにゃーんと鳴く声がする。
「ああ、十二原さんですか?良かった。初めまして、川田と言います。これから社までお送りしますが、先にマンションまで行かれますか?」
なんて、それどころじゃないよね。イケメンはなんて親切なんだ。心までイケメンだった。仕事だろうけど。
「先にマンションへお願いします。荷物を置いてから挨拶したいので」
主に大きめのトランクケースが邪魔だ。気を遣って歩いてきたし、正直言って腕が痛い。
「わかりました。じゃあ、車あるんで詰んじゃいましょう」
運んでくれてありがとうございます。イケメンは何してもイケメンだなあ。
マンションによって最低限の荷物だけ持って職場に向かう。ああ、緊張してきた。職場の人達とうまく行きますように……。
「あら川田くん。その子が東北支社の子?」
「はい。十二原唯智子と申します。これからどうぞよろしくお願い致します!」
営業部と書かれた扉を開くとすぐに声をかけてきた女性に深々とお辞儀した。この人も美人だ。嫌われたらきつそうだ。
この会社、美人しかいないの?でもその条件だったらわたしじゃ無理じゃん。どうなってんの。
「わたしは木下よ。よろしくね?部長が向こうにいるからまず挨拶してきなさい」
美人先輩が指さした方には木製の扉があった。部長室?うわ緊張するのもやむなし。
髪を整えつつノックする。いいぞ、と声がしたのでなるべく静かに開けてみた。
オールバックにした黒髪が輝いている。自信があることを感じさせる顔はこちらに向けられている、と言うか下から上まで舐めるように見つめられてちょっとどころじゃなく気持ちが悪い。所々に自分を飾る金のアクセサリーは浅黒い肌を映えさせていて、一頃流行したちょい悪オヤジのようだ。
これが上司なのか……嫌だなぁ。おっと、笑顔笑顔。
「東北支社より異動になりました、十二原唯智子と申します。どうぞご指導ご鞭撻頂きますよう、よろしくお願い致します」
敬語が頭の中で絡まる。正直言ってご指導ご鞭撻頂きたくない雰囲気。もう北海道に帰りたい。
「ふん、いいじゃないか。じゃあお前にはブックカフェの仕事を任せる。前任者がいなくなったから丁度いい。駒場東大前にある洋館なんだが、家主が売るのを渋っているんだ。買い取ってこい」
いきなり大きな仕事じゃないですか!ほんとどうなってんの?人手不足なだけかなあ。
「ありがとうございます。がんばらせていただきます!」
しかし拒否権なんかない。ないったらない。
もう行っていい、と言われて素直に部屋を出る。あまり近くにいたくない。
「あら、遅かったのね。大丈夫だった?セクハラ部長だから気をつけてね?」
雰囲気そのままじゃないですかあの部長。イケボだけど嫌らしい感じが出てて気持ち悪かったし。
「まだセクハラはされてないです……お仕事もらったんですけど、資料とかありませんか?前任の方が退社されてるそうですけど」
あらその仕事、と口に上品に手を当てている木下先輩はその動作も自分を引き立てさせていることに気づいているんだろうか、いるんだろうな。
「それね。あなたの先輩が二人でやってたんだけど……一人は鬱病になって辞めちゃうし、もう一人は事故で入院しちゃったのよね」
なにそれ。もしかしてセクハラを苦に?って、そんな感じでもなさそうな話。
「鬱になった子、山田って言うんだけど、その子が“あの館は呪われてる”って言ってたのよねー。あなた、こんな会社辞めて家に帰って方がいいかもね?あたしも転職しよっかなー」
出社初日からそう言うこと言うのやめてくれます?
しかし、そんな噂があるなら呪いはともかく何かあるかもしれない。一人は怖いし道にも迷いかねないから誰かついてきてくれないかな。……いた。キミに決めたー!
「すみません、川田さん。大村部長から早速お仕事を頂いたんですけど、変な噂があるみたいなので一緒に行ってくれませんか?」
書類棚を整理していたさっきのイケメン川田さんに声をかけた。
「あの仕事ですか。いいですよ、行きましょう先輩」
先輩だと!?入社時期?年上イケメンに先輩と呼ばれる何気ない背徳感。今日はやっぱりいい日なのかもしれない。
さて。行く前に準備だ。交渉なんて事前準備が全てを決めるんだって先生も言ってた。与えられた机の上で私物のノートPCを開く。駒場大学までの乗り換え案内と、資料貰った館と家主についてと、ついでにこの会社と大村部長のことも調べよう。
「そう言えば、ここってWifiが入ってるんですよ。設定しましょうか?」
おおイケメン、心の友よ。そういうのわかんないからお願いします。DTMはできるけど、パソコンについてのあれこれは苦手なんだよねー。
席を譲ると、川田さんはさっとノートPCを自分に向けてさくっと設定をしてくれた。……ん?
「ねえ川田さん。どうしてわたしのパソコンに見知らぬUSBメモリが刺さってるんですか?」
オイ、何を仕掛けてくれてるのかね?ウイルスとかマジでやめてください。わたしの色々なモノが死んでしまいます。
「い、いや。設定についてのアレコレで、何も入れてませんよ。まだ」
慌ててUSBを抜いて立ち上がる川田。まだって言ったなこいつ。わたしのMIKUさん達に何かしようとする人は許さないよ?
「連絡先を交換してくれたら許します」
よし、連絡先ゲット。まだしてないならまあいいです。だが次はない。
「もー。次は何かする前に言ってください。許さないけど!」
席に座ってブラウザを開いた。さてさて。時間は有限だしさっさと調べなきゃね。
「この女、意外に油断できないな」
……すっごい小声だけどしっかり聞こえていてよ?心のメモに書いておこう。例えイケメンでも許せないことはあるんだからね?
館の主は静山ゆかりだったっけ。えーっと。なんか館とリンクした情報がないなあ。
「もしかして:不法入居……?」
先輩達がまとめてくれてた資料にはメイドと二人で暮らしてるらしいってあったけど……うーん。
次にこの会社について。社長の名前すっごいね!「牟田川凡十郎」って。凡なんて名前に使うんだ。まあ、親が子供に願うこと次第なのかなー。平凡だけど幸せな一生を送って欲しいとか?
お孫さんが次期社長候補?神話学?歴史?の研究者?うーん。本人は気が乗らないのかー。やる気なさそうなコメントだなあ。
セクハラ部長は昔オカルト系の本を出して当てたらしい。今の編集部長の早見さんとは入社当時からの仲かー。競い合ってるのかな。
早見部長は宗教家かぁ。関わらないでおこう……。
大村部長がやってた本って何だろ?“ルギハクスの来訪者”?トンデモ本かぁ。なるほどー。批評すっごいな。うは、今2円って切ない金額。
トンデモ本じゃ仕方ないか。流行終わったら売れないもんね。
気になることをメモ帳に写して調査終了かな。
「そういえば、佐藤さんはなんで交通事故に?」
後ろの川田さんに聞いてみる。もしかしたら知ってるかもしれないし。
「ああ。どうも、例の洋館から逃げた時に通りがかったトラックに轢かれたらしいですよ」
え?逃げる?しかもトラック?
「なにその異世界に転生しそうなテンプレ。先輩は何から逃げたの……」
これからそこに行こうとしてるんだよね、わたし達?怖すぎるんだけど。でも後から考えるとこのことをもう少し真剣に考えるべきだったと思う。
結果から言うと、洋館に来た。もう川田の運転する車には乗りたくない。さっきは丁寧だったのに、なんで荒くなったの。でも自分でも運転したくない。ゴールドですから!
しかし、綺麗な洋館だなあ。スマホで写真撮っちゃお。
「おやめください。ここは廃墟ではありませんので」
おっと。中からメイドさんが出てきた。
「綺麗だったものでつい……ごめんなさい」
このタイミングで言うのすっごくやりづらい。でも仕方がない自分のせいだし。
「あの。わたし、牟田川出版の者です。先日は大変失礼なことをしたと思うのですが、改めて伺わせて頂きました」
メイドさんからは表情がうかがえない。Oh!東洋系美人ネ。彫りが深いな、インド系?
「どうぞ。主がお会いになるそうです」
あれ。聞きに言ってないのに大丈夫?まあいいか。いいって言うなら行ってみましょう!
「……ちょっと川田さん?なんで門の前から動こうとしないんですか。一緒に来てくださいよ」
すっごくイヤそうな顔してるんだけど。なんでよ?
「先輩。僕、行かないといけませんかね?車もあるし、ここで待ってようかと思うんですが」
わたしはその言葉に思わず深いため息をついた。だってさあ。
「だめです」
「……。参考までに聞きたいんですが、なぜですか?」
「だって怖いじゃない!一緒に来てよぅ!」
まだ何もないのになんでそんな警戒してるの!?見捨てないで!あと、メイドさんに聞かれたくないからお互いあくまで小声だけど、聞かれたらかなり失礼だよ?
「仕方がないですねぇ」
って言いながら周りを見る目が厳しいままだ。でも一緒に来てくれるんだから頼もしいです!
改めてメイドさんについて歩く。
なんて言うか不気味だ。川田さ……もう川田くんでいいや。彼がなんでこんなに警戒しているのかわからない。だって普通の庭……だとなんで一瞬でも思ったんだろう。
周りを、見てしまった。
「気づきましたか?先輩」
木が、動いている?まるで顔のように見える木の縦皺が、開いた気がした。
嘘だ嘘だ嘘だ!色々脅かされたから、そんな風に見えたに違いない!
そんな風に思いたいけど、いまだに不自然に蠢く木々がそれを許さない。
逃げ出したい。でもここで逃げたら、逃げ切れるの?メイドさんがいるから来ないんだとなんとなく思う。今は逃げない方がきっといい。どうしても足が震えるけど、扉まで歩かなくちゃ。
「こちらでお待ちください」
メイドさんが通してくれた部屋は、おしゃれな応接間だった。あんな庭を見た後だから、ものすごく普通に見える。
川田くんはメイドさんが行ってしまった途端に家捜しをし始めた。なんで?
「安心してください。僕が逃がしてあげますから」
もしかして武器か何か探してるの?
「で、でも探しているところに家主さんが来たらやばくない?」
そう言いながらつい周りを見回してしまう。素直に帰れるとも限らないと、今は思うし。
「うわぁ。綺麗な女の人の絵ね。すごく古い絵じゃない?」
額縁近くがが黄ばんでいて、古さを感じる。
わたしの正面に絵を見つけた。と言うよりやっと目に入ったというか。額縁近くがが黄ばんでいて、古さを感じる。
「家主じゃないですかね」
若かりし頃ってやつ?おばあちゃんになっても美人なんだろうと思わせる。うらやましい。
「おっと。来ますね」
川田くんが何時の間にかわたしの後ろに立っていた。
なんでわかるの?怪しいスペックしてるけど、頼りになるから突っ込まない。大人しくソファに座っておく。
「お待たせしました」
おお、美人だけど絵の人のお子さんかお孫さん?めっちゃそっくりなんですけど。
「静山ゆかりと申します」
声を聞いて、わたしは慌てて立ち上がった。
上品な女性だなあ。この屋敷に似合っている。あの庭さえ考えなければ、だけど。
「連絡もせず申し訳ありません。わたしは牟田川出版の十二原と申します。先日は社の者が失礼したと思うんですが」
緊張で口が乾くのに、唾を飲み込みたくなる。
「改めまして交渉させて頂きたいと思いまして参りました」
言い切った。だけど、ノープランだしここまでで結構いっぱいいっぱいだ。相変わらず敬語は頭の中で絡まってくる。
「貴方、かわいいのね」
すっと立ち上がった静山さんが近づいてきた。すごく、顔が近いです……。あと話が繋がってないです。
そんな風に思いながらなんとなく顔をまじまじと眺めてしまって、わたしは叫び声を上げそうになった。
人の肌じゃない。
ひんやりと冷たい彼女の手ががわたしの頬に触れる。それも、手が触れた気がしない。新鮮なトマトが手の形で頬に触れたらこんな感覚じゃないかなと思う。
ちらりと見える首筋が、まだ若い桃のようで、かぶりついたら甘い香りがしてきそうだ。
いやこの思考おかしい。って言うかこの人おかしい!絵の方がまだ人間味がある。
しかし、人というのはあまりに驚くと驚きが表に出なくなるのだろうか。
「あなた、とても落ち着いているのね。いいわ」
いやいやいや。落ち着いてませんから。言葉も出ないくらいですから!
「あなたみたいな人なら歓迎するわ。でも、家を譲ることは出来ません」
すっと退いてソファに座る様も上品なのに、もう人間に見えなかった。
「以前、大村さんも来ていたわ。その時にこの家に興味を持ったんでしょうけれど、本当に譲る気はないの。ごめんなさいね」
そう言ってにこりと微笑む。
「こんな話をすると懐かしいわね。凡十郎は元気かしら?あの人も、もう百歳くらいかしらね。ずいぶん会っていないわ」
えっ。それってどういう……。いや、今は考えないでおこう。お口と思考にシェルターをかけるんだ。
「そ、それは残念です。でもその、今日はもう遅いので失礼しますけど、また伺いたいと思います」
もう帰ろう、そう決断して席を立つ。わたしはなんでそんな軽口を行ってしまうんだろう?でも、これは言わないと次もない。いや、次なんてなくっていいのかなっ。
「会いに来てくれるなら歓迎するわ」
どうして歓迎されるのかさっぱりわからないし、わかりたくない気がする。
「ありがとうございます。その時にはお土産を持ってきますね。甘いものはお好きですか?」
きょとん。一言で言うなら、静山さんはそんな顔をした。
「あ、ああ……アマイモノね。いいと思うわ?」
あ、これだめなやつだ。全く知らないのに知ったかぶりしてるやつだ。今頃微笑んでも遅いです。
「では本日はこれで失礼致しますね」
少しでも早くここから出たくて、挨拶して部屋を出た。大丈夫。川田くんもメイドさんも来てくれてる。
「ではお帰りください」
ばたん、と洋館のの扉が閉まった。あれ?メイドさんは門まで送ってくれないの?
「走りますよ!」
あ。やっぱりそうなっちゃいます?
後ろで何かが裂けるような、甲高い音がした。でも振り返ったら死ぬ。絶対死ぬ。
だからただ門の外を目指して走った。そんなに距離はないはずなのに、どうしてこんなに息が切れるんだろう?
目の前が真っ白になった。気がつけば川田くんがわたしを手で止めていて、目の前をトラックが走り抜けている。
「あ……出られたんだ」
自分の荒い息が今更に聞こえてきて、生きているんだと実感できた。
「なにトラックって。転生しちゃうじゃない」
思わずつまらない冗談が出てくる。足が崩れそう。だって言うのに川田くんはわたしに車のキーを渡してきた。
「僕、ちょっとやらなきゃ行けないことが出来たんで先に帰ってください。運転は出来ますよね」
何とか一緒に帰ってもらおうと願いしたけどダメだった。冷たいイケメンは嫌いだ。嘘です、だから帰ってきてください。




