探偵さんと女学生くん
これはもしかすると、大変な所に足を踏み入れてしまったのかもしれない。
逢澤環はそう思いながら、身を固くした。
明治時代に創立され、そろそろ四十周年を迎える私立梅花女学院は学校帰りの寄り道を禁じている。環はその女学院の生徒なのだが、今日はのっぴきならぬ事情があったのだ。
学校帰り、電車を乗り継ぎ、目的の場所を訪れたのだが──。
せめて、一旦家に帰って私服に着替えてくれば良かった。
「いやあ、女学生の制服は良いものだね」
これを何度も繰り返されるのだから。
場所は福岡、大名町のとあるビルディングの三階に、その《探偵社》はあった。事務所の広さは十五畳ほど。立派な応接セットと重厚なマホガニー材の机。座り心地の良さそうな安楽椅子。入り口とは別にもう一つ扉があるから、そこは生活空間に繋がっているのかもしれない。
それはいいとして。
問題は──応接セットの向かいに腰掛ける男である。
色白の、役者のような顔立ちの男だった。切れ長の双眸と、軽薄そうな笑みが張り付いた口元。髪は艷やかな黒で、後ろへ綺麗に撫で付けてある。
纏っているのは仕立ての良さそうな三つ揃え。赤いネクタイが目を引いた。ワイシャツもプレスが効いていて、襟に触れれば指が切れてしまいそうである。袖口にはさりげないカフスボタン。探偵という仕事に制服はないが、小説に出てきそうな──皆が思い描くそれであった。
「名前というものはね、そう簡単に教えるものではないよ」
そう言って、環に名乗らせることもしなければ自ら名乗ることもなかった。
そのため、探偵は先ほどから環を“女学生くん”とばかり呼んでいる。身分は名乗らずとも、その制服で一目瞭然であった。
梅花女学院のセーラー服は有名である。深い紺色のカラーには三本の白いラインが縫い付けられている。タイも同色の紺。プリーツスカートは膝丈まで。肘のあたりまでの髪をおさげに結う環は、何処からどう見ても模範的な女学院の生徒であった。
探偵はひとしきり、環のセーラー服を褒めた後は、興味もなさそうにぼんやりとしている。どんな依頼かと促されることもない。
大変な所、というよりも──馬鹿にされているのかもしれない。
まさか、女学生だから支払う報酬の宛てがないと思っているのではなかろうか。環にとってはありったけの貯金も、大人にしてみればはした金かもしれない。
それでも、ここで引くわけにはいかない。環だけでなく、所属する新聞部の名誉もかかっているのだから。
「あの」
探偵の意識をこちらに引き戻すように大きな声を出す。
「何でも話してくれて構わないよ、女学生くん」
探偵は相変わらずぼんやりとしたまま、環に話を促す。探偵を生業とする人物に接するのはこれが初めてだが、変わった職業を選ぶくらいだから本人も変わっているのかもしれない。
諦めて、ここに来るに至る経緯を話し始めた。
環の通う私立梅花女学院は、明治初期にアメリカ人の宣教師によって設立された。キリスト教を軸とした女子教育施設は、今年で四十周年を迎える。
華族の子女──とはいかないが、富裕層の子女の通う女学院として名が知られている。
環はその四年生。
部活動は新聞部、その部長も務めている。
キリスト教を軸とした──とはいっても、やはり学科は良妻賢母となるためのものが多い。そのため、新聞部を設立し、少しでも政治について興味を持ってもらおうとしたのだ。
職業婦人も増えている。今は、明治でなく大正という時代なのだ。
だから──。
「……でも、先生がたからは好ましく思われませんでした」
掲示板に張り出すと、すぐに剥がされた。ならばと少ない部数を刷って配ったが、いつの間にか教師の手に渡り叱られた。
問題は、これからだ。
新聞部を目の敵にしていた女性教師が怪我をした。そして、倒れた女性教師を介抱したのが新聞部員だったのである。
女性教師は頭を打ったが、幸いにも命に別状はなかった。
だが、女学生というものは噂好きだ。
先生、新聞部に呪われたのではなくって?
誰かがそんなことを言い出すと、根も葉もない噂は瞬く間に広まった。元々、その女性教師は口うるさく、生徒たちからの評判も良くなかった。皆、新聞部の手柄だと喜んでいた。
居合わせた部員に訊ねたが、何もしていないと言った。だからその言葉を信じ、あれは事故だったのだと新聞紙面で訴えたが、信用する者はいなかった。
「それで、僕にどうして欲しいのかな」
「真犯人を捕まえて欲しいのです」
「真犯人?」
「はい。そうして、新聞部の潔白を証明したい。私たちだけでは、真犯人をでっち上げたと思われるかも知れません。ですから、第三者であるあなたに依頼しようと思ったのです」
「その教師が、単に自分で転んだとしたら、どうするんだい?」
「でしたら、それを証明するだけです」
「教師の不名誉にはならない?」
なにもない所で転んで頭を打った、となれば──確かにその可能性はある。探偵はそれを指摘していた。
「それでも……事実が知りたいのです」
「事実、ねえ……」
その呟きには興味の欠片も感じられなかった。依頼は請けてもらえないのだろうか。ならば、早々にここを辞去したい。
「あの」
それを切り出そうとしたが、環の申し出は探偵の言葉に遮られる。
「女学生くんは、何という名前の学校に通っているのだったかな」
それは経緯を説明する際に伝えたはずだったが──探偵の記憶にかすりもしなかったらしい。
「……梅花女学院です」
呆れ混じりに伝える。探偵にとっては聞くに値しない依頼なのだろう、環はそう結論付け、辞する挨拶を切り出す。
「あの、それでは──」
「梅花女学院かあ。さぞ可愛らしい女学生くんが大勢いるのだろうね」
「……は?」
眉間に皺を寄せ、そんな──梅花女学院の生徒らしからぬ、品のない反応をしてしまう。
「さ、行こうか。何事も早いに越したことはないからね」
「あの、どこへ……」
「何を言っているんだい。君の学校へだよ!」
「引き受けて下さるんですか?」
「もちろんだとも!」
そんな心強い返事の後。
「可愛い女学生くんと知り合える好機だからね」
探偵は、帽子を被りながらそんなどうしようもない理由を臆面もなく言うのだった。
大名町から路面電車に乗り、天神町で乗り換える。渡辺町三丁目で降り、あとは畑の中の道を歩いた。平尾の山の手に、環の通う学校はある。門柱には《梅花女学院》と掲げられ、その先には騒がしい街とは切り離された、緑あふれる子女のための教育の場が広がっている。
校舎は、明治時代に作られた木造である。赤く塗られた三角屋根を中心に、左右に翼を広げている。
「いい学校だねえ!」
門の前で、探偵は大きく手を広げ、声を上げる。
「静かにお願いします」
「どうして?」
「私の兄と申請しています」
「君にはお兄さんがいるのか」
「今は東京の大学に通っていますが」
「僕は、そのお兄さんを騙り、女学校に潜入するのか。いいね、背徳的だ」
「……兄は口数の少ない人なので、黙っていてください」
放っておいたらいつまでも話し続けて周りの注目を集めてしまう。
「行きますよ、兄さん! こっちです」
必要以上に大きな声を出して、探偵を促す。幾人かの生徒が環たちを見ていた。わざとらしかったのは環も承知の上。後ろで押し殺した笑い声が聞こえた気がしたが、気のせいだと流すことにした。
部室棟は学院内の奥にある。
小さな木造の建物で、六畳ほどの部屋が十ほどならんでいる。新聞部は、その一番奥にある。
ギシギシと音をたてる廊下を歩き、立て付けの悪い扉を開けると、少女が一人、ぽつんと座っていた。
「彼女が、新聞部員です」
本来の新聞部員は環を含めて三人。しかし一人は女性教師から口うるさく注意され始めてから、活動に参加をしなくなった。家が厳しいそうだから、仕方がない。
今活動している部員は環ともうひとり。部室で環を待っていた彼女──二年生の柏木露子だった。
露子は物静かな後輩だった。居るのか居ないのか分からないほどで、入部して一年と少しが経つが、環は彼女が笑ったところを──いや、表情を変えた所を見たことがない。
良く言えば、いつも冷静。悪く言えば、無愛想。
そんな彼女が書く記事は、中庭の花壇に花が咲いた、小鳥が巣を作っていた、といった日常の中のささやかな出来事であった。細やかな文章で書き綴られた内容は、環の堅苦しい記事よりも遥かに人気があった。
「初めまして。この度、雇われた探偵です」
探偵は帽子を脱ぎ、深々と頭を下げる。露子はちらりと探偵を一瞥して小さな会釈で応じた。
「さあ、細かな事情を教えてもらおうかな」
探偵はそう言って、案内を乞うた。
探偵を伴って向かったのは、中庭にある池のほとり。池には鯉が泳ぎ、周りには花壇が造られ生徒たちの憩いの場になっている。
事件が起こるまでは。
「ふうん。彼女はここで転んだのか」
「はい」
「そして、それを見ていたのが──君」
探偵の人差し指が、露子に向けられる。
「……はい」
露子の返事は消え入りそうだった。
「露子さんは、すぐに他の人を呼びました。彼女は決して先生を突き落とすようなことはしていません──きっと……」
探偵には真実を明かして欲しいと依頼したのだが、つい露子を庇うような発言をしてしまう。探偵から守るように、環の後ろに隠すようなことまでして。
もし、彼女が犯人だというのなら、ここで庇うのは適切ではない。事実を知りたいと依頼したのだから、探偵に全てを任せるべきだろう。
分かっていて口を出してしまうのは、身内を犯人にしたくないという身勝手さからか。
煩悶する環に、探偵は拍子抜けするような返事をする。
「だろうね」
「え……?」
そう言うと、探偵はしゃがみこむ。
「草が濡れていたんだろうね。そこへ、教師は知らずにやって来た。足元を確認しなかったから、滑ってしまった──というところだろう」
「納得できません」
「どうして?」
「それは──その……」
それでは、あまりにも簡単すぎる。もっと、手の込んだ理由や仕掛けがなければ、落ち着かない。そんな環の思いは、どう言葉にすれば伝わるだろう。
「彼女を疑っている?」
「まさか!」
露子を疑ってはいない。だが、他の生徒は露子を疑っている。その疑惑を晴らすには、もっと明確な真犯人なりが欲しいのだ。
「……でも、あの日は晴れていました。地面が濡れているようなことはありません」
「ふむ」
あの日は、雨は一滴も振っていない。濡れていたとしたら、誰かの悪意があってのことだ。探偵は顎に手を当て、わざとらしく空を仰いだ。
「教師が転んだのは夕刻だったね」
「はい」
「花壇の世話をしているのは?」
「園芸部の生徒です」
「ほら。つながった」
つながった。
探偵は嬉しそうに破顔した。
放課後、花壇の世話をした園芸部。花に水をやり、この辺りを濡らしてしまった。そして、教師は転んでしまった──。
それがこの事件の結末。あれだけ騒がれたのに、何とお粗末な結果だろうか。
「納得がいかない?」
「そんな訳では……」
ない、と言い切れなかった。納得はできていない。だが、どういう結果ならば納得できたのかと言われると困ってしまう。
それぞれの小さな不注意が重なってしまった結果の事故。真犯人など存在しない。結末としてはこの上なく平和なものだ。
納得するしかないではないか。
「女学生君。僕は部室に帽子を忘れてきてしまった」
「帽子ですか」
「申し訳ないが、取りに行ってはもらえないだろうか。僕は彼女とここで待っているから」
「……はい」
使いっ走りにされるのは不本意だが、渋々頷く。
「じゃあ、露子さん。探偵さんをよろしく」
そう言い残して足早に中庭を出る。次第に早足になり、気付けば走っていた。気になったのだ、視界の端に見た露子の不安そうな表情が。
探偵の帽子は、部室の机の上に置かれていた。手に取り、早足で中庭に戻る。プリーツスカートの裾が乱れるのも気にする暇もなく。
「おや、早かったねえ」
環を迎えたのは、探偵だけだった。
「つゆこ、さんは……?」
「彼女は帰ったよ。用事があるのだそうだ」
何か言いたかったが、口の中がからからに乾いて言葉が出てこない。
「さあ、僕たちも帰ろうか」
返事の代わりに、環はこくりと頷いた。
翌日から、露子は学校に姿を見せなくなった。教師に怪我をさせた負い目からではないかと言う生徒は当然のように出てきた。
環は事故だと主張した。探偵が言ったように、足元が濡れていたのだと説明をすると、程なくして園芸部の生徒が、そういえば……と申し訳なさそうに申し出た。
彼女が弱々しげな雰囲気だったこともあり、それ以上追求する生徒は出なかった。外見で判断するのはいかがなものか、と環にとっては腑に落ちないところもあったけれど。
しばらくすると教師は復職し、自分の不注意で転んだのだと言い、全ては過去の話となった。
ただ、露子は相変わらず学校には来なかった。彼女は退学したのだと、他の二年生から聞いた。縁談が纏まったのだとか、親の仕事の都合で海外に行ったのだとか、理由は曖昧ではっきりとしなかった。
それでも、事件は解決したのだ。
報酬を支払おうと探偵の事務所を訪ねたのは、教師が復職してから十日ほど経った放課後のことだった。
ノックしようとした手が止まる。来客があるのか、探偵の声が聞こえたのだ。
「まったく、何を考えているんだ」
それに答えるのは、か細い声。
「……すみません」
聞き覚えのある声だった。まさか。聞き間違いではないのか。どうして、ここで。
息を呑み、扉の向こうの会話に耳をそばだてる。
「あれだけ学校に通いたがっていたのに」
「それは、覚悟の上でした」
「何だって──……まあ、どうでもいいけれど」
そして、聞こえるのは声の代わりに足音。急いでこの場から逃げようか、うろたえる環の前で無常にも扉が開かれる。
「立ち聞きはいい趣味とは言えないよ、女学生くん」
にっこりと笑顔で迎える探偵と、その向こうには応接用のソファに座る露子。
「先輩……」
もう逃げ場はないと悟り、頭を下げた。
「久しぶり、ね」
迎え入れられた環は、露子の向かいの席に腰掛けた。女学院のセーラー服ではなく濃紺の着物を着ているせいか、いつもと印象が違う。
訊きたいことは山のようにある。
どうして学校を辞めたのか。
どうしてここにいるのか。
探偵と何を話していたのか。
だが、それが露子に対して失礼になるのではないかと不安で切り出せない。居心地の悪い時間を終わらせたのは、この部屋の主。窓辺の安楽椅子に腰掛けた探偵だった。
「女学生くんは、何をしに来たのかな」
それでようやく用事を思い出す。
「あなたへの、報酬を──」
言いながら、鞄の中に仕舞っていた封筒を取り出した。決して分厚いとは言えない、薄っぺらな封筒だ。中には雀の涙ほどの額しか入っていない。それでも、労働に対しての報酬だ。環が用意できる、精一杯の。
「報酬?」
「はい。事件を解決してくださいましたから」
「気にしなくて良いよ。僕に金を払うより、本を買って読んだ方が有意義だ」
「でも──」
「先輩、どうしたって受け取ってもらえませんよ」
「……」
その露子の発言は、まるで──。
「元々、知り合いだったの?」
「知り合い……というより……」
「お目付け役、の方が近いだろうね。役目は果たせなかったけれど」
「お目付け役?」
「だって、彼女は人ではないからさ」
探偵は椅子から立ち上がると、環の背後に立つ。そして、大きな手で目元を覆った。視界が暗くなる。
「あの、探偵さん? 何を」
「女学生くん、目を瞑ってみようか」
「でも」
「いいから、目を瞑って」
言われるまま、恐る恐る目を閉じる。世界が暗くなる。
「力を抜いて。──世の中にはね、たくさんの嘘がある。例えば、好き嫌いもそうだね。君の好きな人は魅力ある人物に見えるだろう?」
「……はい……」
「そういう偏見をひとつひとつ取り除いていくんだ。そうすると、真実が見える」
探偵は穏やかに語る。ゆっくりと、環の心に向かって。
「ただし。事実を見るぞ、と力んでもいけないよ。そうすると、“君が望んでいる事実”が見えてしまう。それは君の作り上げたものだ」
知らず、眉間に皺が寄っていた。
探偵の声が軽やかに弾んだ。笑っているのだ。
「難しいねえ。人というものは余計なものばかり身につけて、事実が見えなくなってしまうから」
肩の力を抜く。身に纏うものを脱ぐように、余計なものを削ぎ落とす。
「ほら、君。君も協力しようか。最後なんだからさ。好きな先輩に、自分はこうだって紹介してみるといいよ」
これは、環に向けたものではなかった。ならば、向かいに座る露子か。
「先輩は……私を、怖がりませんか」
露子の声は震えていた。今にも消え入りそうなか細い声で環に伺いを立てる。
「どうして怖がるの。露子さんは露子さんだわ」
目元を覆っていた手が離れる。それは目を開けろという合図だ。
「──……」
向かいには、長い髪の女が立っていた。髪はじっとりと濡れ、顔に、肩に張り付いている。顔は紙のように白い。その中で、目だけがじっと環に向けられていた。
環は思わず身を引いてしまう。
「気味が悪いでしょう?」
だが、それは露子の声に相違ない。見た目が変わっても、眼の前に居るのは環を慕ってくれていた露子だ。
「露子さん……?」
「はい」
そして、露子はぽつりと意外なことを口にした。
「先輩は覚えていないかも知れないけど、昔、一度会ったことがあるんですよ」
「昔……?」
「まだ、先輩が幼い頃。手拭いを差し出してくれたでしょう」
幼い頃──。
「風邪をひきますよって」
あれは、筥崎宮の放生会。家族で出かけ、天幕を貼って弁当を食べていた時。
松林の向こうの浜辺にぐっしょりと濡れた女を見た。家族の誰も、いや家族だけでなく周りの誰も気付いていなかった。いくら九月とはいえ、濡れていては風邪をひいてしまうから、と手拭いを渡したのだ。
「私、とても嬉しかったんですよ。私が見えても、気味悪がる人ばかりだったから」
事実、今の露子を見た環は思わず身構えてしまった。怖がった人たちの気持ちも分かる。
「あれから、先輩を見ていました。初めは楽しそうにしている先輩を見ているだけで私も満足していたんです。……でも」
露子は顔を伏せ、唇を噛む。
でも。欲が出てしまった。
「また、話をしてみたいと思ったんです。一度で良いから……」
どういう手続きを踏んだのかまでは分からない。お目付け役というからには、探偵も一枚噛んだのだろう。
だがそれは、環の知るべきことではないのだ、きっと。
「楽しかった! ありがとうございました、先輩」
露子は青白い顔で、けれど満足そうな表情で笑っていた。
探偵は環に残るように言った。露子を見送った後、おもむろに話し始める。
「彼女は、濡女という妖怪なんだ」
「妖怪……」
「どんな姿をしていた?」
「髪が濡れて、顔が青白くて、濡れた着物を着ていました」
「そうか」
探偵は、それだけを言った。彼が見ていた露子は、もっと別の姿をしていたのかもしれない。
「結局……先生の怪我と露子さんは関わりがあったんですか?」
「女学生くんはどう思う?」
あの濡れた露子の姿を思い出すと、関わりがあったとしか思えなかった。露子が地面を濡らし、どうにかして教師をおびき寄せ、転ばせた。
何のために。
「女学生くんは、彼女に好かれていたんだね」
「露子さんに?」
「そう。ただ──彼女は、気持ちの伝え方が分からなかった」
それ以上、何かが語られることはなかった。
《探偵社》を出た頃、西の空は赤く染まっていた。
ふと、目の前を猫が横切る。ちらりと環を一瞥した後、つんと取り澄ました顔で。しゃなりしゃなりと歩く様は、花街の芸妓のようだった。
ふと思う。これも、猫だと思って見ているから猫に見えるのだろうか、と。
つい先程、探偵に言われたことを思い出し、目を瞑った。深く息を吸い、吐き出す。少しで構わない、事実を見てみたい。ちらりと覗くだけでいい。
ほんの少しだけ。
恐る恐る目を開ける。
広がっていたのは──何の変哲もない景色だった。行き交う人々。夕暮れに染まる街。
世の中、そうそう変わったことはないのだ。
「……なあんだ」
そう呟いた環を笑う、艶めいた声が聞こえた。
そんなに簡単に見せられないわよ。
声の方を見ると、横切った猫がいた。振り返った猫と目が合う。猫は素早く路地裏に消えた。その、消える間際──揺れる尾が二本に見えたのは、目の錯覚だったろうか。
露子がいなくなって、部員が二人になった新聞部は結局廃部となった。
「環、うちの部活に入らない?」
そう誘ってくれる友人はいたけれど、全て丁重に断った。興味があるのは、もっと別のことだったのだ。
その日、授業を終えた環は制服のまま大名町のあのビルディングへ向かった。
「ごめんください」
《探偵社》の扉の向こうには、今日も二枚目役者も顔負けの探偵が安楽椅子に腰掛けている。
「やあ、女学生くん。そろそろ来るだろうなあと思っていたよ」
探偵は、相変わらず環のセーラー服姿を褒め、適当に掛けるようにと言った。
静かなひとときだった。探偵は何も離さず、窓辺の安楽椅子に腰掛けて新聞を読んでいる。環は、じっと膝の上に揃えた手を見つめている。ただ時計の音だけが聞こえていた。この一室だけが、街の音から切り離されている。
「私、調べない方が良かったんでしょうか」
「調べなかったら、新聞部が悪者のままだったよ」
「それは──……」
それは、その通りだ。だが、調べなければ、露子と探偵が顔を合わせることはなかった。探偵に何を言われたのかは分からないが、露子が学校を辞めるようなことにはならなかったのではないかと考えてしまうのだ。
「それにね、彼女はいつまでも学校に通っていられる訳じゃない。少しの間だけでも憧れの君と学校生活を送れて楽しかったと言っていたよ」
探偵は露子のお目付け役のようなものだと言っていた。
「探偵さんは……何者なんですか?」
「君には、僕がどう見える?」
答えあぐねて、目を瞑る。深く息を吸い込み、気持ちを落ち着かせた。
環が抱く好悪の感情をひとつひとつ捨てて、目を開けた。
安楽椅子に腰掛けているのは──探偵、だった。
色白の、役者のような顔立ち。切れ長の双眸と、軽薄そうな笑みが張り付いた口元。つややかな黒髪を、後ろへ綺麗に撫で付けてある。
これが、今の環が見ることのできる探偵の姿なのだろう。
「二十代くらいの……男性。洋装の似合う、そこそこの……二枚目」
「そこそこか」
本当は、役者のようにと形容したかったけれど、そこは最後の意地だ。
「今の君には、そう見えるんだね」
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味だよ」
今の環が見ている探偵は、本当の探偵の姿ではないのかもしれない。軽薄そうに装う仮面の下に、果たしてどんな素顔が──姿が隠れているのだろう。
今、興味があるのはそれだ。
学校の勉強よりも、新聞を作ることよりも。
覆い隠されている事実。それが、環をここに連れてきたのだ。
「私、もっと本当のことが見たいです」
探偵は新聞を畳むと、笑った──ように見えた。窓から差し込む光が逆光になって、顔に影を落としていたけれど。確かに、笑っているように見えたのだ。
「それは、もしかするとあまり良いことではないかもしれないよ。知らない方が幸せなこともある」
環の決意を確かめるように。
知った先にあるのは楽しいだけではない。嫌なこと、醜いこと。それもある。
だけど。
「……それでも。事実が見たい。知りたいです」
まずは、探偵。彼の事実が見たい。
環の目に映る彼は、本当の姿ではないのだろうか。
事実が、本物が、見たいのだ。
それを見ることで傷つくことがあるとしても。
探偵は返事をしなかった。再び新聞を広げ、返事の代わりに環に訊ねる。
「夕方の一時間程度、働いてくれる助手が欲しいんだけれど。女学生くん、心当たりはないかな」
学校が終わったら、寄り道をしないで帰らなければならない。規則を守って──けれど、それでは彼の事実は見えない。
「働き者を一人、知っていますよ」
大きな一歩を踏み出す。
「そうだなあ──助手の女学生くん、とりあえずは紅茶を淹れてくれないかな」
探偵はにやりと笑うと、環にはじめての仕事を命じる。
「喜んで!」