燃える蝶
目を閉じる、見たくない物を見なくて済むから。
嗚呼、遠くで耳鳴りがする。
目蓋の裏に、ぼんやりとした灯り。
目を閉じる、見なくていいものを見なくて済むから。
嗚呼、あれは……
ひどく喉が渇いて目を覚ますと僕は夢の内容をすっかり忘れていた。
大学のレポートを書き途中のままデスクで眠ってしまったらしい。
曇りの陽はすっかり高くなっていた。
大学はすっぽかしだ、バイトも今日はない。
そもバイトをしていたか定かではない木曜日。
そんなときB子から無料通話が入る。
「ミチロウ、今日空いてる?」
「は? 何で?」
「引っ越しの準備手伝って欲しいから。男手が必要」
「そんなのオマエ沢山いる友達から選べよ、おれは暇じゃない」
「えーミチロウは空いてると思ったのに」
おれは通話を切った。
曇天の下おれは千円札数枚をポケットにねじ込んで歩き出した。
スロ屋でも行こうかゲーセンでも行こうか悩ましいところだ。
不意に角を曲がると、出会い頭に痩せこけた女にぶつかって派手に尻餅をついた。女も同様に伸びているところを見ると、相当な速度で走って来たに相違なかった。
「痛つつつつつつつつ」
「ちょ……何?」
「莫迦、コッチのセリフだ前見て歩けってか、走れよスベタ!」
「なんて口利くの!? 自分だって小汚い学生風情のくせに!」
「うるせえ!」
だがおれが怒鳴ると痩せた女は妙に黒光りするものを出した。
「コッチ、来なさいよ……!」
そしておれを路地の方へぐいぐい押しやるとソレを突き付けた。
「解るでしょ何か」
「チャカか」
「嘘だと思うなら撃ってあげる、いいから言うこときいて」
おれは大げさに両手を上げると早々に降参のポーズを取った。
「ハイハイ、どこへ行こうってんだ女王様?」
「アンタの家よ案内して」
おれは再び自宅へ戻ることへなった。望みもしない女連れで。
女はおれの部屋を見回した。
「アンタ同様小汚い部屋ね、ん? なにこれ絵?」
床に散らばったコピー用紙には捻じ曲がったプロポーションの女のエスキスが数枚。
「なにも」
「絵なんて描くんだ」
「魂の救済が必要だからだ」
「あたしはそうね……剣の女王」
女王は悪戯っぽく笑った。
「チャカの女王だろ」
彼女はじろりとこちらを睨む、だが気を取り直しておれに尋ねてきた。
「アンタ、名前は?」
「ミチロウ」
「しばらく逗留させていただくわ」
剣の女王は漆黒のリボルバーを弄んだ。
やがて秋雨がアスファルトを叩く。
夕刻、女王をよそに眠りが翼を広げる。
目を閉じる、見たくない物を見なくて済むから。
嗚呼、遠くで耳鳴りがする。
目蓋の裏に、ぼんやりとした灯り。
目を閉じる、見なくていいものを見なくて済むから。
嗚呼、あれは……
「起きて! 起きてミチロウ!」
おれは不意に現実に引き戻される。
「どうしたのミチロウ!? こんなにうなされてる人初めて見たわ」
おれは現実に足を曳かれてゆく。
嗚呼、もっとあの夢に捉われていたいのに。
「ミチロウ?」
そしておれが泣いていることに剣の女王は気づいた。
「ごめんなさい」
「すまない……いつもの夢なんだ。少し独りにしてくれないか?」
記憶の中、
真っ赤で艶やかな林檎に母の白い横顔が映り込んでいた。
それはあまりにも巨きく、全てを飲み込む。
蝶が、蝶が燃える……
銃声。
剣の女王だろか?
おれには確かにそう聞こえた。
その晩おれは夢を見なかった。
秋雨は降り続く。
翌朝、
剣の女王はおれの描いた絵を見ながら、おれを見ずにこう言った。
「ねえ、昨晩わたしを殺そうとして、止めたのはなぜ?」
「……見なくていいものを見なくて済むから」
剣の女王はおれをまっすぐに見つめ返した。
「……そのうちなにか見えてくるわよ」
「かもな」
「わたし自首するわ、これ、おもちゃだし。詐欺なの。ばいばい楽しかったミチロウ」
女王はおれのもとを出て行った。
蝶が、蝶が燃える……
手を差し伸べてもそれは焼け落ちる。
おれは目を閉じる、見たくない物を見なくて済むから。
嗚呼、遠くで耳鳴りがする。
目蓋の裏に、ぼんやりとした灯り。
目を閉じる、見なくていいものを見なくて済むから。
嗚呼、あれは……
圧倒的におれを飲み込んでゆく、
あまりにも巨きな、
海……!