小日向さんとバレンタインの山田支社長
一月の後半からデパートの催事場は甘い匂いに包まれ、女子たちの戦場と化す。理由は簡単。バレンタインデーである。
去年はその催事場へ足を運び、もみくちゃになったっけ。なんて、今、他人事のように思う。でも今年のバレンタインデーは去年とは違う。
ピンポーンとインターホンが鳴り、この家の主が帰宅する。
萌は小走りで玄関へ向かう。そして、新婚さんらしく? ぎゅっとハグをして「お帰りなさい」と告げるところだが、今日はそうはいかなかった。
「あ…………」
思わず声が出る。その声に、相手もどこがバツの悪そうな顔をした。
相手とは、この家の主、山田宗太郎。萌の旦那様だ。
「もらっちゃった……」
そう言う山田の両手には高級チョコレートメーカーの紙袋。大きさからして、一つ二つ、というわけではなさそうだ。会社は異動になっても、この習慣は変わらないのか。と萌はクスリと笑った。
「相変わらずモテモテですね! 支社長」
そう言いながら、その紙袋を受け取り、先を行く山田に続いてリビングへ向かう。紙袋はそれなりの重量だ。重さからして、いろいろと察しがつく。というのも、萌も去年まではこの袋の中にある一つを買った張本人だからだ。
妻としては、これだけのチョコレートを貰っていることに、ほんの少しだけ嫉妬してしまうが、この袋の中身のルールを知っているから、まぁ、仕方ないか。で済む。そう、この山田が貰ったチョコレートには本人は知らないルールがあるのだ。
「ボクは萌から貰えるだけで十分なんだけどな」
ネクタイを緩めながら、振り向く顔は昼間の仕事の顔ではなく、萌だけに見せる甘い表情。しっとりとした声とその表情は女子社員が一度は見たい、聞きたいと思うもの。それを萌は独り占めしている。少しの優越感を感じながらも、今、萌の興味は袋の中身だ。
「ね、開封の儀、してもいい?」
「ん? ああ、いいよ」
二人でソファに座って、開封の儀を開始する。
一般人にはあまり馴染みのない言葉だが、山田には通じる。支社長という本職の裏で姿を明かさない絵師をしている山田である。サブカルチャーや、ネット上に溢れる言葉には強い。
それはさておき、さっそく一つ目の袋から開けていく。大きめの箱にはそれぞれ部署名の書かれた付箋が貼り付けられていた。これも決まりごとの一つ。
「おぉぉ、さすが秘書部! やっぱり秘書部のお姉さんたちはアンテナ張ってるなー」
「そう?」
出てきた有名メーカーのチョコレートとそのチョイスに称賛の声を上げる萌に対し、山田はそこまで興味がないらしい。
「なかなか手に入らないんですって。ここのチョコ」
「ふーん」
いまいち乗って来ない山田を置いて、萌は「ええと、次は広報部」「次は総務」「財務」と、いちいち付箋を確認し、時折「ほうほう!」などと声を上げていた。
「でもさ、ずっと気になってるんだけど、どうして部ごとなの?」
「それは……知りたい?」
「まぁ、気にはなるかな」
「それはですね……」
萌はなぜ山田宛のチョコレートが部ごとなのか、種明かしをした。
「ええぇぇ!? そうなの?」
山田は萌の解説に酷く驚いた。
実は、山田へのチョコレートにはルールがある。萌が過去にバラしているから、山田も知ってはいるが、山田は歳の割に若く見える。白髪混じりの髪の毛はいい味を出している。顔もいい、声もいい。所作だってスマートだ。そんな山田は、女子社員たちの憧れの的なのだ。「結婚したい社員ナンバーワン」と言われるだけでなく、その全てをひっくるめて「奇跡の50代」なんて言われていたりもする。故に会社という組織の中で山田相手に個人プレイはご法度なのだ。それがいつからか、女子社員たちの間ではそうなっているのだ。本社で部長をしていた頃も、支社長となった今も。だから、チョコレートも個人的にあげるのでなく、部単位。笑ってしまうような取り決めだが、それが常識として成り立っているのだから、すごい。
「知らなかった……」
「うん。だって誰も言ってないと思うし、宗太郎さんは女子社員のアイドルなんだもの」
「でもさ、ボクが二次元の絵を描いてます。ってカミングアウトしたらどうだろう?」
「うーん……最初は驚くかも知れないけど、きっと加算ポイント。「支社長、イラストも得意なんですってー!」「すごいー!」ってなると思う……」
「……そ、そっか……」
結局、趣味がどうであれ、憧れの人は憧れの人なのだ。それに、山田の場合は確実に『山田補正』という、山田だからいい。という補正がかかる。簡単に言ってしまえば「但しイケメンに限る」のような。
「女の子はすごいなぁ」
「だって、うちの女子社員強い子ばかりじゃないですか」
「それもそうだね」
顔を見合わせて二人で笑う。そんなルールがある中で自分を選んでくれたことを萌はいつだって幸せに思っている。
「女子社員の頑張りはよく分かったよ。で……」
山田はにこりと手のひらを上にして萌の前に手を差し出す。
「萌からのチョコはまだもらってないよ?」
「うっ……」
もちろん、用意はしてある。でも、この女子社員たちの熱量が形となったものたちとは比べ物にならないほど、用意したものが残念に思えてしまって、正直なところ、このまま忘れてくれたらいいくらいに思っていた。
「い、いります?」
「え? そりゃあ、愛する奥様からのチョコレートは欲しいでしょう。ね?」
「うぅぅ……ちょっと待っててください……」
萌はしぶしぶソファから立ち上がり、自分の部屋へチョコレートを取りに行った。その間に山田はスマートフォンを手に、慣れた手つきで電話をかける。
「遅い時間にごめんね。明日の会議って昼からだよね? じゃあ、昼に迎えに来て」
山田は秘書に電話をし、手短に用件を伝え、萌が戻って来たタイミングで電話を終えた。
萌はもじもじしながら、恥ずかしそうに可愛くラッピングされた小さな箱を差し出した。
「ど、どうぞ……」
「ありがとう。やっぱり萌から貰うのが一番嬉しいよ。ね、一緒に食べようか」
やはり、どこか貧相な感じのするチョコレート。でも、山田がそう言ってくれるのは、とっても嬉しい。
「うん」
「あ、明日は昼までゆっくりできるから、チョコを食べながらゆっくり過ごそうか。もちろん、萌が食べさせてね?」
思わずビクリと身体を震わす山田の誘いに、萌はくらくらと眩暈を起こしそうになりながら、またソファに座って、山田の胸に顔を押し当て、耳まで赤く染めて小さく呟いた。
「ずるい」