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太陽葬

作者: SY

第一章 黒埜 宙 


 宇宙空間。それは頑なまでに色彩を持つことを拒絶した存在である。無限の暗渠が全方位に敷き詰められているのか、それとも極限の無によって全てが支配されているのか、判然とはしない。しかし、そこには間違いなく、漆黒に糊塗された静謐な世界が存在し、人類を注意深く見つめている。


 眼下に浮遊する地球から、幾らかの小さくない距離を隔てたここは、現時点における人間活動の深淵の地である。

火を使い、言語を操り、道具を作り始めた人類は、やがて宗教心に目覚める。そして彼らは、いつからか「天国」という人間が生存する場所とは、位相を異にする地の存在を見出した。それらは多くの場合、共通して雲の上にあるものと信じられていた。無限の慈悲の光に満たされ、全ての苦しみや悲しみといった森羅万象から隔離された理想郷。古代の人々はそんな世界を脳内に描き、死後の世界という不可知な領域に対する恐れを緩和させようとしていた。


 そして今自分は、多くの人々が思い描いた天国の類似品のような場所に立っている。しかし、そこへ辿り着く光達は総じては弱弱しく、暗闇が大勢を占めている。また体重を支えているものは包容力を具現化したような白い雲ではなく、実用性一辺倒の頑健な鉄床である。理想は飽くまでも理想でしかないのだ。

人類は天上の世界はおろか、それらを超越する世界へまでも進出することに成功した。第二次世界大戦終戦以降、冷戦を背景としてソビエト連邦とアメリカ合衆国との間で、宇宙への足掛かりを掴もうと熾烈な開発競争が繰り広げられた。ソ連のユーィ・ガガーリンは人類で初めて宇宙空間から地球を見下ろした。そしてアメリカのニール・アームストロングとバズ・オルドリンは月面へと降り立った。また宇宙ステーションなる宇宙空間に浮遊する要塞までもが創造された。

 黒埜宙は青く輝く球体を網膜に投影させていた。地上から約10万km離れたここから見下ろす地球は、その全体像を明瞭に晒していた。今日入っている仕事は一件だけだ。

「この度はお悔やみ申し上げます」

 そう言い、遺族に向かってマニュアルに従った丁寧なお辞儀をする。それに呼応して遺族の二人も頭を垂れる。

「お別れの時となりました。こちらへ」

 棺をリリースするシーケンスへと移行する。地上10万kmに位置するここは、中にいると俄かに信じがたいことではあるが、地球を中心軸として時速8万4000kmもの速度で移動しているのである。宇宙エレベーターを地上から宇宙へと結ぶ鉄道と見立てた場合、ここはその終着駅に当たる場所だといえる。そこへ、ある目的のために列車に乗せられて棺が運び込まれる。

「この離棺桿を引くと、ゆっくりとここを旅立たれます。事前にご説明差し上げた通り、地球軌道を数周した後、太陽へと向かいます。心の準備が整われましたら、こちらへ。そしてお子様を、優しく見送ってあげて下さい」


 事前に目を通した資料によると今回の顧客は30代後半の夫婦である。4歳になる息子を不幸な交通事故で亡くしたとのことだ。ほんの僅かの間、母親が目を離した隙に、ガレージから道路へと飛び出し、走ってきた高級SUV車と衝突した。荘厳なレンガ造りのガレージの門が死角となっていたため、ほとんど避けようのない事故だったというのが警察の見解らしい。


 生と死とを分け隔てる壁は想像しているものよりも、ずっと低いものなのかもしれない。その壁は決して向こう側が見えないほど高くはないし、鉄条網が張り巡らされているものでもない。ましてや、その壁に近づくための手続きを求められることもなければ、牙をむく獰猛なドーベルマンの姿もない。生死の壁は、ほんの僅かな意識の巡り合わせや揺らぎによって、いとも簡単に、そして自由に跨ぐことができるほどの代物でしかないのだろう。そしてその子どもは無邪気にその壁を越えてしまった。

車のカメラとレーダーが、本来道路上にあるべきでないものの存在を認め、コンピューターがブレーキに制動の命令を下す。しかし、車の速度が減衰する間もなく、無情にもバンパーが幼い体を宙へと吹き飛ばした。幼い子どもには死を知覚する猶予さえも与えられなかったに違いない。


 母親は魂の抜け殻となった、我が子の体を抱え、名前を泣き叫んだ。そして、そのまま意識を喪失した。


 父親と母親が、離棺桿にそっと手を重ね合わせて添える。この離棺桿は、設計の時点ではステンレスに覆われただけの武骨なものだった。しかし、死者との別れの最後の接点がそれでは余りにも冷たすぎるという意見が社内から出た。そこで欧米では一般的にローズウッドと呼ばれる希少価値の高い紫檀が素材に選ばれ、それが誂えられた。仄かに薔薇の香りがするのだとか。


 二人の目から溢れる涙は、人工的に生成された重力により地上の場合と同じように頬を伝っている。二人は小さな声で愛する我が子の名を囁き、離棺桿を引いた。


 子ども用の小さな棺は、このエンドステーションの慣性系から切り離され、暗澹たる宇宙の海をゆったりと漂いはじめた。それは長い時間をかけて太陽の重力が作り出す糸に絡めとられ、やがてその海へと落ちてゆく。

 ゆったりと浮遊しているように見えるが、棺と太陽との相対速度は時速数万kmにも及ぶ。それでも太陽へ到着するまでには数年の月日を要する。

「この暗い海を幼い子どもが一人で旅をするのは寂しいだろうな」と、宙は幾許かの感傷的な思索に耽ったが、それらの思考を宇宙空間へと追いやった。



第二章 青野 光 

 海。それはこの世界に無数に存在する色彩が、ある問いに対する解を求めて導かれ行く存在である。

その問いは「この地球で最も美しい色彩とは何か」だ。それぞれの色彩達が、銘々に己の審美を主張し合う。

 しかし、ある者が語り始めると、一斉に他の色彩たちは口をつむぐ。

 青だ。青は訥々と話し始める。

「青が最も美しいと思う。なぜか。それは一番多い色だからだ。

空を見上げて欲しい。時に雲という不純物が悪戯することもあるが、だいたいは青だ。

次に海を見て欲しい。時に嵐が飛沫を巻き起こし濁りをもたらすこともあるが、だいたいは青だ。

要するに地球はほとんど青いんだ。この地球の表面は7割が海だ。そしてその上は全部空だ。ということは、ほとんど青だ。なぜ青いのか。それはみんなが選んだからだ。他の色彩達も、その青の美しさに屈服して、青へと自らを変色させたんだ。」

 要点をいまいち得ないその説明を聞いた他の色彩達は、納得したようなしていないような表情を浮かべながら、仄かに光を帯び始め、やがてその体躯を青へと変えていく。


 青野光はラウンジの窓際にあるカウンターチェアーに腰かけ、アイスコーヒーのグラスを片手に、ガラス一枚を隔てた水平線を眺めていた。雲ひとつない快晴の空。赤道付近の海特有の、凪いだ海。 

もはや、その境界線である水平線の存在意義を見出すことは難しい。正真正銘の青一色の世界だ。なかなかその世界観に入り込めないでいた文庫本のページに栞を挟み、いくらかの間、光はその世界と対面していた。

 ここは赤道直下の海に浮かぶ島だ。この島ができたのは地球の歴史でいうと極めて直近のことである。しかし、海底火山の噴火により、噴出した溶岩が海水で冷やされ、産声を上げながらこの世に生を受けた島とは一線を画する。

 「アースフロート」それが、この島の呼称である。2044年に着工され、6年4ケ月の歳月をかけて完成された。この機械仕掛けの鋼鉄の島には、長い夏休みをバカンスで過ごすためのビーチもなければ、極彩色の鳥たちが棲む森もない。その代わりに、他の島々にはない圧倒的なオリジナリティを携えている。


 それは天へと垂直に伸びた、一筋の黒い糸だ。その糸は地上3万6000kmに浮遊する、人類初の静止軌道ステーション「スペースフロート」へと繋がっている。正確に表現するなら、垂らされている。


 長らく中国の万里の長城が、人類が造り上げた建造物の中で世界最長のものであった。しかし、21世紀の半ばにして、人類の叡智を結集した「宇宙エレベーター」の出現により、首位の座から蹴落とされたのである。何らかの時空の捻じれによって、現世に始皇帝が現れて空を見上げたとしたら、彼は一体どんな言葉を口にしただろう。


 さらに、その黒い糸はスペースフロートから地球とは反対方向6万kmの距離にまで伸びている。そしてその先端部分にはカウンターウェイトと呼ばれる想像を絶する質量を湛えるおもりが接続されているのである。またカウンターウェイトには「エンドフロート」という施設が併設されている。

 ヤジロベエで例えるなら、スペースフロートが体の部分、左右の長さのバランスは大きく異なるものの、メガフロートとカウンターウェイトが腕の部分にあたるといえる。そして針金部分に相当するのが、この宇宙エレベーターを構成する上でのキーデバイスとなるカーボンナノチューブ製のレールテープである。このレールテープがスペースフロート、メガフロート、カウンターウェイトを繋いでいる。また、その3箇所を移動するためのクライマーのレールとしての役割をも果たしているのである。

このメガフロートは全長10万kmの宇宙エレベーターにおける地上部分からのアクセスゲートの役割を持つ。

かつて人が宇宙へ移動するにはロケットか再利用型有翼往還機いわゆるスペースシャトルに頼っていた。それらは例に漏れず膨大な燃料を要した。それは恐ろしいほどのコストがかかることを意味する。

普通の感覚の持ち主なら、一般家庭でゾウを飼うことは敬遠するだろう。一日に100kgもの干し草やら果物やらを平らげ、それに近い量の排泄物を放り出す。それらのために膨大な金が消えてゆく。

やがて一家の主はこう決意するだろう。「ゾウを飼うのはもう辞めにしよう。いくらあっても金が足りない」

それと同じような構図で、大飯喰らいのスペースシャトルは、2011年の国際宇宙ステーション完成を機に、その翼を休めることとなった。

しかし、今は違う。ショッピングモールで3とか4とかのボタンを押して籠を自分のフロアへと呼び寄せ、そこに乗り込んでお喋りをしながら目的の階へと移動するのと、そう大差ない方法で宇宙へと上がることができるようになった。


光は左手の腕時計に目をやった。

「そろそろ時間ね。」

光は腰を上げ、スーツケースを転がしながら、クライマー乗車用のゲートへ繋がる通路を進んだ。

通路脇には様々なショップが軒を連ねる。あちらこちらで煌びやかな衣服を着せられた、のっぺらぼうのマネキン達が、退屈そうにポーズを取っている。

高級チョコレート専門では、若いカップルが、まるで宝石のように洋菓子が並べられたショーケースに釘付けになっている。

どの店舗も超が付くほどの富裕層向けのものばかりだ。

ふと、何かの拍子で、黒砂糖がコーティングされた麩菓子を食べたいと思いたっても、それを取り扱っている店舗はないだろう。


世界初の宇宙エレベーター。ここを観光目的で訪れる人間は、そう多くはない。理由は簡単だ。高い。とにかく、べら棒に高い。

行きのクライマーで一泊。スペースフロートから地球を見たり、スペースアクティビティを愉しんだりして現地で一泊。そして帰りのクライマーで、さらに一泊するスタンダードなコースでも、ハワイオアフ島の五つ星ホテルのスイートルームに1ケ月連泊する位の費用を要する。

大理石が敷き詰められたフロアにヒールを打ち付ける音を一定のテンポで響かせながら、光は通路をさらに奥へと進む。


光は、富裕層と呼ばれる人種ではなかった。少なくとも、つい最近までは。しかし、訳があって突如としてどんでもない金額のお金が転がりこんで、息つく間もなく出ていった。友人達の多くは、種々の報道により、光はセレブの仲間入りをしたんだと信じていることだろう。しかし、実際のところはもっと複雑な事情が絡んでいる。


搭乗ゲートへと辿り着いた光は、ありとあらゆる個人情報が封じ込まれたICカードをリーダーへとかざす。瞬時に磁気を読み取ったコンピューターは、光のことをデジタル的に丸裸にしてゆく。氏名、住所、年齢、血液型、国籍、渡航の目的、滞在の日程、健康状態、犯罪歴などだ。コンピューターは百を超える項目を、一つ一つ律儀に指さしながら点検する。その結果、問題がないという判断が下されると、「行ってよし」の合図が出され、ゲートが開かれる。

それを潜り抜けるときには、今度はスキャナーが、光の所有物について着衣の中までをも精緻に点検する。もし、ジーンズと背中との隙間に拳銃を隠しもっていたりしたら「ちょっと待った」の合図が出され、警報音がけたたましく鳴り響き、マッチョな警備員に取り押さえられることになるだろう。光はチャーリーズエンジェルズの構成員でもなければ、ルパン一味の紅一点でもないので、もちろんそんな物騒なものを持ち合わせてはない。


「スペースフロートへ御出発のお客様にご案内します。定刻十時三十分発、スペースフロート行きの便へご搭乗のお客様は、ただ今よりご搭乗を開始致します。繰り返しご案内申し上げます。・・・」

アナウンスが英語、中国語、フランス語など主要な言語で、2回ずつ繰り返される。


搭乗の列に並んだ光は、そこで空へと屹立する白い円筒状の物体を目にする。生まれて初めて間近でそれを見た光は、静かな興奮を覚えた。




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