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「……学校、行く。……パパも、ママも、まだ忙しいんでしょ? 私のせいで戻ってきたんだよね。……ちゃんと、露木さんところに帰るから。パパとママは仕事に戻って」
本当は、怒鳴り散らしたかった。八つ当たりして、わめきたかった。でも、理性が、それだけはしちゃだめだってとどめる。
先週落ち着いたなんて言ってたけど、今朝いなかったって事は、まだ会社に泊まり込みしていたということだ。露木さんからの連絡が来て私のことが心配で二人して無理して帰ってきてくれたということだ。
怒鳴りたいのを必死でこらえた。嫌味を言いたいのをこれ以上言わないように口をつぐんだ。心配させたらいけないのが分かるから、安心する内容を必死で考えた。
でも、声が低く平坦になるのは、止められなかった。
「乃愛」
「もう、いいから、行って!! ちゃんと露木さんとこに戻るから!! もう私のことはほおって置いて!! パパとママは、やらなきゃいけないことをやって!!」
家を飛び出したところで、露木さんの車が玄関前に止まっているのが見えた。
「……乃愛、帰ろう」
おいでと手を差し延べられて、無視してすり抜けようとしたとき、後ろで「乃愛」と私を呼ぶ両親の声がした。
止まった私の手を露木さんが握る。それから露木さんが両親に頭を下げているのが見えて、だから私は、促されるまま車に乗ることしか出来なかった。
「話を、聞いたのか?」
重い声で聞かれて、頷いた。なんの話かなんて聞き返す必要はなかった。
「どこまで聞いた?」
「倒産、しかけてた、事と、今は持ち直す、見通し、たったこと、露木さん、パパに頼まれて、婚約者に、なった、こと……っ」
言いながら、こらえきれなくなってしゃくりをあげる。
「そうか。……辛かったな」
頭を撫でられて、子供みたいに泣いた。泣き続けて、いっぱい泣いて、それから、少しだけ、すっきりした。
すっきりすると、頭の中も、ちょっとずつ整理されてきた。
そしたら両親への苛立ちがどんどん膨らんでゆく。なんでって思うことがいっぱいあった。だって、こんなやり方で私を守ろうとしたなんて、おかしい。
「パパもママも、私の気持ちなんて、結局考えてなかったんだよ」
静かになった車内で、ぽつりと不満を漏らした。
そのままぐちぐちと文句を垂れ流そうとしていた私に、露木さんが口をはさんだ。
「本当にそう思うのか?」
「だって、理由も言わずに無理矢理決めたじゃない。何も言ってくれなかった……」
「そう言うが、じゃあ、乃愛の方はどれだけご両親の気持ちを考えてるんだ? 頑固なお前が納得するのにどのくらいがかかるか、俺でも想像が付く。今だってまだご両親は大変な状態だ。なのに乃愛は今、なにをしている。二人の気持ちも考えずわめいて心労をかけているじゃないか」
その言葉にぐっと詰まる。
わめいてない、ちゃんと我慢した……!!
そう言いたいけど、うまく出来ていなかったのは、自分でも分かっていた。
だって、納得なんて出来なかった。だって、いろんな事が理不尽だった。それを露木さんに分かって欲しかった。
「で、でも、最初から説明してくれてたら、私だって、今頃もっと……っ」
「あの時……北澤さんには、お前を説得する時間の余裕さえなかった。それをする心の余裕もなかったかもしれない。余裕がないときは視野が狭まる。分かることが分からなくなる。見える物も見えなくなる。出来ることも出来なくなる。あれが、ご両親がお前のために出来る精一杯だったとは、考えられないのか?」
「でも、一言ぐらい……っ」
静かにたしなめてくる露木さんへの反発心が止められない。だって、私だって知ってたら……小さな溜息が露木さんから漏れる。
「……だから、お前は子供だと言うんだ。その一言でお前が「学校をやめる」「働く」っていう考えにとりつかれたら? お前が根っから優しいのは俺でも分かる。親なら尚更だろう。お前がどういう決断するかを北澤さんは恐れていた。乃愛の将来を潰すことを最も恐れていたんだ。お前の説得をするなら何日もかけて、しかも何度も時間を当てなければならなかっただろう。落ち着いてお前の気持ちを尊重しながら話が出来る余裕が、二人に本当にあったと思うか? あれだけ追い詰められた状態で、怒鳴って叫びながらお前に命令しなかっただけでも、俺は尊敬に値すると思っている」
「……尊敬なんて!!」
「俺は、尊敬するよ。あの時のご両親の様子、おかしかっただろう。娘をあんな異常な状況において、あんなに楽しそうで。無理矢理にでも気持ちをあげなければ、まともに話を進められないぐらい追い詰められていたって、分からない?」
「……だって、そんな、だって……」
「追い詰められた今の乃愛なら、あの時のご両親の気持ちを想像できるはずだ。お前は今、自分のことだけで悩んでいればいいが、あの時北澤さんは、最愛の君のことも、会社の社員のことも、俺に迷惑をかけているという負い目も、たくさんの物を背負っておいでた。はっきり言う。北澤さんは、お前の何十倍もの苦悩を背負っていた。会社のことで手がいっぱいだったろうに、その中で精一杯お前の将来を守ろうとした。その対応が完璧だったとは言わない。足りなかった配慮は山のようにあるだろう。お前が腹立たしいと思うこともたくさんあって当然だ。だが、何もかもから逃げ出したいほどの重圧を背負っていただろうに、精一杯乃愛のことを考えていたんだ。お前は、それでも、ご両親の対応が悪かったと責めるのか? 君のことを何よりも優先して、対応すべきだったと?」
わからない、わからない、わからない!! そんなのしらない!! だって、ひどいよ!! 私ばっかり知らないまま何もかも押しつけられて!!
「じゃ、じゃあ、露木さんが止めてくれたって良いじゃない!! なにも婚約なんてでっち上げなくたって……!!」
「『もし、自分たちがいなくなったら、娘のことを、頼みたい』と北澤さんに言われた。君はその言葉の意味が分かるか? ……結婚まではやりすぎだから婚約でとどめたが、本当は結婚させたかったんだと思うよ。北澤さんは自分たちがいなくなった後の、乃愛の安全が欲しかったんだよ。法律上で守られた、乃愛の確かな保護者が欲しかった。もちろん、婚約する必要はなかったし、同居する必要もなかった。確かに俺は断ることも出来た。だが、そうすると、あの時のご両親はお前のことが心配で余計な心の負担がかかると思った。あの時俺は君の感情より、ご両親に与える安心感を優先させた……悪かった」
それは聞いた。聞いたけど、納得いくかといえば、出来ない。
でも口を結んだままでいることしか出来なかった。
「ご両親を止めきれず、結局その話に乗った俺は乃愛から責められて当然だろう。お前が悪いという気も毛頭ない。お前は何も知らされない状態で、よく頑張った。腹を立てるのも当然だ。だが、どうかあの決断をせざるを得ない状態だった、ご両親を責めるのは、やめてやってくれ」
まるでかばい合っているみたいだと、両親と露木さんの言葉を反芻しながら思う。
そのことが、ひどく癇に障った。
パパもママも露木さんは悪くないという。露木さんはパパもママも悪くないっていう。きっと、そうなのだろう。パパもママも精一杯やってくれた。無関係な露木さんは私のために時間もお金もかけて、プライベートまで捨てて助けてくれてた。
じゃあ、なんで私、こんなに苦しいの? 私一人、何も知らされず、一人腹立てて、一人蚊帳の外で……みんな、私を子供扱いして……。
無言のまま、車は走り続ける。その間に、どんどん、どんどん腹立たしさが積もってゆく。
大学に到着するまで、ずっと沈黙が続いた。
「乃愛、今日は……」
私が下りる直前、露木さんが何か言いかけた。それを睨んで遮ると、私は叫んでドアを閉めた。
「……どうせ、みんな私が悪いんでしょ!! 露木さんも、パパもママも、……大っ嫌い!!」
「乃愛!」
大学の敷地内に、駆け込んで、道路が見えないところまで走って、それから後ろを振り返る。追いかけてくる様子はなかった。
車を止める所なんてないし、追いかけるのは無理だって分かってる。でも、そのことがひどくがっかりした。
沈んだ気持ちのまま教室に向かって足を進める。
誰も、悪い人なんていない、たぶん、その通りなんだろう。でも、だったら。私の気持ち、どこへ行ったら良いの。辛かった気持ち、どうしたら良いの。
悔しかった。悲しい、切ない、惨めだ。
だって、私だって、力になりたかった……。何も知らないままなんて嫌だった。
『だから子供だと言うんだ』
露木さんの言葉が頭の中で響く。
分かってる!! 分かってるけど、頭の中では仕方なかったって、みんな悪くないって分かってるけど。
パパもママも悪くなかったかもしれない。私のためにやってくれてたのかもしれない。露木さんは私たち家族に巻き込まれた被害者で……だから私はきっと両親にも露木さんにも、ありがとうとごめんねを言ったら良いんだろうって、分かってる。
でもこみ上げてくる気持ちは、卑屈な物ばかりだ。
……どうせ、腹立てて一人で拗ねて、腹立てる私が悪いんだよね。私がいなかったら、今頃こんな嫌な思い誰もせずにすんだんだから。
頭の中は、そんな考えばっかりで埋め尽くされる。
……でもそんなこと言ったら「大切にされてるのにそんなこと言うな」って怒られるんだ。結局、悪いのは私ばっかり。
でも、じゃあ、私は、どうしたら良いの。バカみたいに、みんなありがとうって笑えばいいの? じゃあ私の苦しい気持ちどうしたら良いの。
もう、やだ。なんで、私ばっかり。ひどい。みんな、ひどい。
ぼろぼろ、ぼろぼろと、あとから後から涙がこみ上げてくる。道をはずれて、誰も来そうにない敷地の端っこに隠れてうずくまった。さっき車の中であれだけ泣いたのに、また涙がこみ上げてきて、そのままさんざん泣いて、泣いて、それから、ひとりぼっちのむなしさを覚えて、ぼんやり空を見上げた。
バカみたいにぼけっとして、何にもしない時間が過ぎてゆく。
結局、大学の講義は、午前中はほとんど潰れた。
すっきりしたようで、ひどくむなしい。
……こんな、自分勝手なことばっかり考えてるから、露木さんは怒ったんだろう。車の中で、露木さんは静かに怒っていた。少なくとも私にはそう思えた。
立ち上がって、とぼとぼと歩き出す。
お昼ご飯を食べて、午後からは授業に出た。そのうち、帰る時間になった。
どこにも行きたくなかった。……そして、誰よりも、露木さんには会いたくなかった。




