遠藤光一の素顔
『ありがとう。やっと訊けたよ、君たちの本音がね』
『本音? き、君たち・・・・・・って』
彼の言う意味合いが理解できていなかった。僕しかいないのに“君たち”って、どうしたって意味不明だった。
『古屋くん、よかったら家に来ないかい?』
何を思ったのだろう、突然の彼からの誘いの言葉だった。
『えっ―――、い、今から!?』
『そう―――、今からさ』
間髪入れずに、さも当たり前のように彼は軽々しく僕に返した。何故、彼は僕を誘うのだろうか?
『10分も歩けば着くさ。いいだろ?』
『…………』
時間の問題ではなかった。たとえ友人の家にお邪魔するにしても、夕刻の時間帯は避けるべきだとそう思ったからだ。実際、我が家にしてもそうだった。夕食の準備に慌ただしく台所を動き回る母親の姿は、どこの家庭でも例外なく繁忙を極めているはず。ましてやその時間帯に不意に現れる訪問客にして、歓迎の愛想などほど遠いってもの。
『でも、きっと、迷惑じゃないのかな……』
こう見えて人並みの遠慮心を持つ僕は、どうしても躊躇ってしまうのだ。と、いうか、あっさりと断ってしまえばいいものを、このときの僕はまるで催眠術にでもかけられているかのように従順だった。
『遠慮なんていいから。さあ行くよ』
迷いなく歩き始めた彼は、さっきまで左脇に挟んでいたカバンをおもむろに右手に持ち替え、上下に振り回し始めた。それはぞんざいに、まるで中身などお構いなしに振るのだった。
『そ――れっ!』
そして勢いよく投げ上げた。放られたカバンは重力に逆らうかのように、ひらひらと宙を舞うように見えた。
『受け止めてっ!』
『えっ―――?』
“パスン―――ッ”と、彼のカバンは無理矢理、僕の両手に拾われた。
『ナイス・キャッチッ!』
満面の笑顔を見せて、彼は僕の怪訝そうな顔を楽しんでいるようだった。それよりも、彼のカバンの軽さに僕は拍子抜けするのだった。
『もちろん、中身なんて入ってないよ』
『ああっ……そうみたいだ』
あっけにとられたまま、僕はその空のカバンを彼の手元に返した。
『教科書は机の中に残したままさ。君もそうだろ?』
『はは……知ってたんだ』
図星だった―――。学業に興味を置かない僕にとっては、教科書を家に持って帰ることが無意味に思えていたからだ。しかし彼も同じだったなんて、とても意外だった。そんな彼の言葉に不思議と親近感さえ覚えるのだった。
『どうせ帰っても宿題なんてしないんだろ?』
彼の言う通り、宿題なんて考えてもいなかった。帰宅後の日常はというと、テレビの前で退屈に甘えるだけのだらしない生活でしかなかった。
『本当にいいのか?』
先を進む彼の背中に向けて最後の確認を促すかのように、それはしたたかに思える言葉だった。終始、遠慮がちに構えていたけれど、彼の意外性に興味を抱き始めた僕の内心が、曖昧にその先に踏み込もうとしていた。
『いいから誘ってるんだ。それとも迷惑なのかい?』
『迷惑ってわけじゃ、ないけどさ……』
じらしているわけじゃなかったけど、もう一歩の何かが欠如していた。たかが友人宅にお邪魔するだけの行為に、どうしてだろうか踏ん切りがつかないのだ。
『ないけどさ―――って、それって否定、肯定どっちを意味してるのかな?』
『あ、うん……』
曖昧な態度のままの僕に、彼が言い迫った。どっちつかずの性格の僕には苦手ともいえる選択だった。
『やっぱり日本語って面倒だよ。確認するまでに時間が掛かるしさ、それに余計に一言必要になるだろ?もっと、シンプルにならないものかな』
それを見透かしてか、彼は淡々と持論を説き始めた。その迷いない口調に、羨ましささえ感じた。
『……でも、それって意志疎通の大切な部分だろ?いいや、きっとそうさ』
それに負けじと、僕は精一杯の反論を絞り出した。核心なんてありはしなかったけど、このまま劣勢ではいられなかった。
『でもね、僕にとっては厄介なだけさ。まるで相手に信頼を置いてないみたいだろ。そうじゃないのかな?』
間髪入れずに彼が応戦する。その勢いはまるで、僕を追い詰めているようだった。
『そうかなあ……でも、おれはそうは思わないよ』
悔しさだけが僕の拙い反論を導き出してくれていた。
『やっと口にしたね、君たちの、そして古屋くんの否定』
『君たちの……否定?』
『一人では何も言えない。たとえ言いたくても周りの目を意識する。でしゃばっていないかと臆してしまう。だから言えないんだ。”NO―――”ってね』
彼の嫌悪する、やはり日本人の気質に立ち入った彼の弁だった。さっき僕の言ったことを、”君たち”と遠まわしに表した彼の言い草に、ようやく頷けた。
彼にしてみれば、個々の性質を責めるほどの敵意はなかった。けれどどこかで、日本人の特性を否定せざるを得ないような卑屈さをも感じられていた。何が彼をそうさせたのだろうか。
『大袈裟に言っちゃったようだね。ははっ』
にこりとする彼の表情に、僕は拍子抜けするのだった。もっと僕たちを否定する言葉で、強く攻撃を仕掛けてくるかもしれないと覚悟していた。
『そう、自己表現の初級って言うのかな。ほら、子供の多用するあれだよ』
『あ、あれって?』
話の展開が読めなかった。さっきまで難解な問答を繰り返していたと思いきや、途端に子供の話題に移されたからだ。
『やだ―――っ!てさ、よく駄々こねてるじゃないか。しかも、きっぱりとね』
『なんだ、そんなことか』
それは誰もがよく知り得る光景であったし、誰もが自然と実践してきたのは間違いのないところだ。僕にしても、その行為においては達人級を自負できるほどの実績を持っていたものだ。そうだ、この話題でなら巻き返しも可能かも―――。
そう考えると、すっと肩の荷が下りたような気がした。だって、僕の準備できる回答はとうに底をついていたからだ。
『大切なことなんだよね実にさあ。自分のことを相手に伝えるって、普段、気付いてないだろうけど案外と手を抜いてたりするだろ? そういう僕もそうだけどね』
不思議と謙遜さを前置きしながら、僕の表現力を初級だと言わんばかりに、彼は言及するのだった。
『―――そ、そう言われてみると、そうかも』
よく解ってもいないくせに、僕はつい相槌を打ってしまっていた。
そもそも自己表現の難しさなんて意識したこともなかったし、相手の発する気持ちにも、正直、興味なんて湧いたこともなかった。それが僕の本音だった。
ただ、何となくだけれど彼の言いたいことの幾分かは伝わっていたような気がしていた。
『ねえ、急ごうよ』
そう言った切り、何故かしら急に無口になった彼は、所々、剥がれているアスファルトのくぼみを選ぶかのように、ぎこちなく歩くのだった。
さっきまで饒舌だったはずの彼の口元は、何かを吐き出してしまいたいような、そんな雰囲気が窺えていた。その後ろをついて歩く僕も、何故か彼の真似をして足元のくぼみを踏みしめる。そうすることで彼と同じ気持ちになれるのだろうと、僕なりの精一杯の表現だった。
『古屋くんって、もちろんこの町で育ったんだよね?』
おもむろに立ち止まって、彼は次の話題に僕を巻き込むのだ。
『ああっ、生まれてからずっとだけど……それがどうかしたの?』
『羨ましいよ。そんな君の生き方がさ』
『そうなのかな。特に珍しいとは思わないけど』
『転校を繰り返すとね、どうしても友人との接点が薄くなるんだ。でも―――、それは仕方ないことだろうけどさ……』
初めて見せた彼の弱気だった。遠い目線でやおら唇を尖らせながら、落ち着き先のない憤りにも似た負の感情が、ぽたぽたと音を立てながら、彼の足元に落ちているのが見えたような気がした。
僕はすぐに気まずい雰囲気を察知した。僕らの学校生活では当たり前の友人作りのはずが、彼にとっては至難の業であったようだ。
『二年も住めばいいほうだったよ。酷いときには半年って所もあった。英語圏ならともかく、そうじゃないこともしばしば。言葉を覚える暇なんてさ、まるでなかったんだ。伝えられる言葉があるとすれば、hello―――goodbyeくらいのもんだったね』
不意に沈んだ自身の言葉を裏返すように、彼は早口でこの場をやり過ごしていた。
『で、どれくらい引っ越したんだよ、遠藤ってさ?』
そんな彼の言葉を汲むように、僕が淡々と応える。
『う―――ん、十二、三回くらいかな』
実際、驚いた。僕たちの年頃でそんなにも引っ越しを経験するなんて、尋常ではないと感じたからだ。
『でも、余りよく覚えてないんだ。僕にしても望んで行ってたわけじゃないからね』
『それはそうだけどさ……』
彼の持つ特異性に、やっと頷けたような気がした。少年期の感受性は外的要因に大きく影響を受けるらしい。
『古屋くんが責任を感じることなんてないさ。僕の生まれ育った境遇なんだからね。だから、恨むとすれば僕の両親だろうね』
『えっ、恨むって?』
簡単に言い回したけれど、“両親を恨む”だなんて、それはとても信じられない表現だった。