遠藤光一の記憶
『あんた、今更、何言ってんのよお。知らない仲でもないでしょ。さあついでよ、ねえ、お代わりっ!』
当時の粗悪さを取り戻したかのように、清水優子が凄味を増して僕の鼻先にグラスを突きつけた。
『わ、分かったから。絡むなって―――』
『あら、まだそんなに呑んでないわよお。だってこれからじゃない。そんな心配には及びませんことよ古屋く~ん』
……完全に酔っている。清水優子の漏らすそれらしい語尾と、僕を覗き込むお約束の仕草には、ただ恐々とするばかりだった。
『二人で何こそこそやってんだよ―――ったく。そういうところこそ、昔っから変わってねえんだよなあ、おまえら』
『だからあ―――、仲田には関係ないでしょ?それとも嫉妬してんのかしら? あたしたちの関係』
さっきから中途半端に絡んでくる仲田の気配を疎ましく感じているのだろう。あからさまに清水優子が挑発に出た。
『おいおい、そんなキャラだったかあ―――清水ってえ?』
おしとやかだった清水優子のイメージしか知らない仲田は、苦笑いを浮かべることでやっと間を保っていた。
『ねえ、会計士ってどうなの。噂じゃ相当儲かってるって話じゃないの? いいわね、親の七光りってさあ』
『ああっ……ま、まあな』
ずけずけと言いまわす彼女の迫力に、つい押され気味の仲田だった。
『おまけにさ、未だに独身だっていうじゃない。ホント、さぞかし優雅な生活をおくってるんでしょうね。あ~あ、あんたの周りってさあ、もしや数人の女の影が見え隠れってわけえ?』
酔った勢いで更に話を盛る彼女の意図は、さしずめ仲田を排除する勢いにあった。
『はははっ……勘弁しろよなあ。どうした、呑み過ぎじゃないのか清水?』
困惑を隠せずに、それでも言葉を濁すので精一杯の仲田の弁だった。が、何か言い加えることがあるのだろうか、その場に留まる仲田には清水優子に対する未練らしきものさえ窺えていた。
『あっちの席が呼んでるようだぜ、仲田さ―――』
それを見かねて中島良太が、即座に仲田に目配せをした。今の清水優子の不機嫌さが頂点に達するまでに、この場を修復する必要があったからだ。
『あ、ああっ……そうだな。邪魔したな』
中島のそれを察したのか、一瞬、躊躇ったように見えた仲田は、そそくさと隣のテーブルへと逃げ移って行った。
『お手洗いに行ってくるから、あたし』
仲田の退席を見送ると同時に、すくっと立ち上がって、さっきまで不機嫌だった清水優子が無表情に席を離れた。足早に進む彼女の足元は、酔っている風なんて微塵も感じさせないくらい気丈だった。
『ふう―――っ、やばかったよな、実際』
木村祐一が大きく息を吐いた。しかも意味深にだ。
『冷や汗もんだぜ、―――ったく』
中島良太にしても、木村のそれに同調するかのように怪しく頷いていた。
『どうしたんだよ中島。何か都合の悪いことでもあるのか?』
不意に彼らの申し合せたような仕草に、僕はやはり用心深く身構えるのだった。
『そうか、古屋は知らないんだ。前回、欠席だったもんな』
『前回―――って?』
『C組だけで集まったろ。参加予定だったのに、おまえ当日になって仕事が忙しいからってドタキャンしたじゃん。覚えてねえの?』
前回の幹事だった木村雄一が、冷ややかな目線で僕のことを非難していた。
そうだった。三年前にも同窓会の誘いがあったのだ。木村の言う通り、僕は業務上の都合を理由に、当日にもかかわらず欠席を申し入れていたのだった。業務上なんてもっともらしい見栄を張っていたけれど、恥かしいことに金欠の事態に切迫していたのが、その理由だった。
『大荒れの同窓会だったんだぜ。あん時はC組だけだったから何とか収められたけどさ。清水の奴、やったら絡んできてさ、そりゃもう散々ってわけ』
木村雄一がさも大袈裟に会場の天井を仰ぎながら言った。
『どうして、何が?』
そんなこと一言も聴かされていない僕には想像すら皆無だったし、清水優子の荒れる理由にも首を傾げるしかなかった。
『確か、奴の話題からだったっけ、中島さ?』
『その通り―――間違いない。奴が原因さっ!』
『奴って―――?』
この二人の指摘する“奴―――”とは、いったい誰のことを意味しているのだろうか? 清水優子のさっきからの荒れ具合と、今の彼らの自供に、僕の好奇心は無理矢理にでも全開へと向かって行くのだった。
『誰のこと言ってんだよ?』
『しっ―――、声がでかいってえっ』
僕の好奇心は、知らず大きく声を上げていたらしい。すぐさま木村と中島が制止に入った。
『あっ、うんんっ……だから、誰なんだよ。教えろよお』
ひと時にしろ清水優子に憧れを抱いていた僕には、彼女をそうさせる人物の特定が急務だった。今更にしても、それはまさに淡い嫉妬心の表れだった。
『―――遠藤だよっ。覚えてんだろう。遠藤光一ってさあ、ほら、洋楽かぶれのお坊ちゃまって、いただろうっ!』
やや前傾姿勢の中島が、辺りを窺いながら“奴―――”の正体を暴露した。
『えっ、あ、ああっ……っ?!』
突然、遠藤という名を聞かされて僕は唖然とした。その遠藤という人物との係り合いは、遠い昔に記憶の末端から削除したつもりだったからだ。いや、そうじゃない。彼の名前もその存在をも、敢えて埋没させていたからなのだ。
『どうしたんだよ古屋。覚えてないのか? 奴のこと』
中島がさらりと僕の記憶の断片を掴もうとしていた。
―――覚えていないと応えたかった。いっそ、彼との記憶を抹殺してしまいたかった。
『あ、うん…どうかな……?』
まるで応えになっていなかった。とっさに口をついて出た僕の言葉は、相当に空回りをしていた。
『やっぱ、そうだろうなあ。そもそもね、あの遠藤と古屋が絡んでいたなんてことなかっただろ、実際』
不意に放つ木村の曖昧な記憶に、僕は少しばかりの安堵を感じていた。当時の彼との関係はというと、人目を避けて会うのことのほうが自然だった。その行為は、まったく秘密裡に行われていたと言ってもよかった。
彼との交友が知れ渡ったならば、その存在を疎ましいと感じているクラス・メートからの追求がと思うと、正直、怖かったのは否めない事実だった。しかし、それ以上に彼の比類なき特性に惹かれてしまう僕自身の好奇心に、どうして歯止めなどかけられるわけがなかった。
あの日、遠藤光一の奏でる歌声に魅入られた僕は、まるで中毒患者のようにその快楽を求めて彼の下に通い続けるのだった。
―――『確か……同じクラスの古屋くんだったよね、君?』
眩しく夕日に染められた彼の最初の一声だった。教室内でも一際目立たない存在の僕のことを、驚くことにすんなりと記憶してくれていた。
『あっ―――う、うん。そうだけど』
少し戸惑いながらも、僕は彼の言葉に応えた。逆光に目を細めながら、しばらくは彼の姿をぼんやりと見ていた。
『どうしたの、こんな時間にさ。もうとっくに帰ってる時間のはずじゃないの?』
薄暗くなりつつある西の空を仰ぎながら、彼が気負いなく言った。当たり障りのない同級生の会話が始まろうとしていた。
『えっ、ああ……いつもはね』
『いつもってことは……それじゃあ、今日は特別な日なんだ。何があるの、ねえ教えてくれない?』
興味深そうに、彼の足先が数歩前に出された。それは僕との距離を縮めるだろうとの画策が読み取れていた。人見知りの激しい僕は、簡単に他人を受け入れるスキルなんてなかったから、内心穏やかではなかった。
『何がって……別に……さ』
『はっきりとしないんだね、君は』
さらりと流されるはずの僕のコメントに、彼は執拗に迫ってくるのだ。もう、いい加減にやめてもらいたい。何時に学校を出ようが、それは僕の勝手だった。
そんなの余計なお世話だと俯いた瞬間に、ふと、彼が皆から敬遠される理由が、実感として掴めたようだった。
『喜びって共有するものなんだよ。そう教わらなかったのかな、君は?』
それでもずけずけと進入してくる彼の言葉に、じわじわと怒りとも思える感情が込み上げていた。
『ああっ、おれは特には……』
―――が、その怒りは足元を徘徊するばかりで、ついに彼の胸元に突き刺さることはなかった。
『its nonsense。you―――suck!』
『―――はっ!、はあっっ?』
横文字の不思議さが、僕の少量の怒りを見事に抑え込んでしまった。それは、まるで異国人との会話を彷彿させていたからだった。
『くだらないよ。最低だよお前―――って、ことだよね。あーあ、はっきりと物言わない人種って、相変わらず僕の不満を掻き立ててくれているよ。もしかしてさ、曖昧に濁すことがこの国の美徳って思ってるの、君も?』
まるでたたみ掛けるかのように、彼のそれは僕の自尊を削ぎ取っていく。まるで呆れを含むように吐き出される彼の雄弁は、さも彼自身の抱いているどうしようもない苛立ちを表しているようだった。
『曖昧っ……て』
返す言葉が―――見当たら無かった。まったく情けないほどに、僕は口ごもってしまうのだった。
僕の私生活において、これほどまでに実直に言葉を投げかける人物なんていなかったように思う。僕の周りにたむろする誰しもが、いつも体のいい軽い話題にくっついてばかりだった。自己主張なんてほど遠く、そんなことおかまいなしの連中に、僕も尻尾を振って媚びていただけの情けない男子の一人だったのだ。
『だってさあ―――、元来そういう国民性なんだよ。ねえ、そう思っているんだろう、君もさあ?』
僕の沈黙をいいことに、彼の饒舌がその先を進める。
『う、うん……そう言われてみれば、まあ、そうなのかも……』
反論出来ない歯がゆさに、じわじわと己の不甲斐なさを痛感するばかりだった。
彼の真っ直ぐに向けられた目線と、揺るがない自信溢れるその口調に、僕は既に戦意喪失に陥っていたようだ。とは言っても、もともと戦意など持ち合わせてもいなかったけれど……。
『僕の生まれ育ったイングランドではね、自己主張こそが個人レベルの発達を促すって教えられていたんだ。解るかい? それの意味することが―――』
休む間もなく彼のおしゃべりは、一向に、留まることを拒んでいるようだった。その烈々たる勢いは、僕以外の誰かを責めるているかのようにも聴こえていた
『―――って、言われても……』
もう、何を言われても従うしかない僕だった。彼の饒舌さは僅か十五の少年の域を遥かに超えていたからだ。まるで哲学者のごとく人生を悟ったような彼の口元の神秘に、身体中の水分が蒸発してしまうくらい熱を帯びていった。
『個々の生活レベルの安定は、文句なく日本はトップ・レベルの域にある。けれど、こと対人関係においては実に軟弱にできている。それをいいことに、“謙虚さ”なんて言葉で誤魔化しているんだ。つまり、長い物には巻かれろっていう精神文化の滑稽さだよ。その先に見えるものって一体何だろう?』
『…………』
『表現力の稚拙さにおける、つまり芸術性の封鎖とでも形容すればいいのだろうか。そんな閉ざされた思想の背景にはね、日本固有の武士道という封建制度が根付いていることに起因すると僕は確信するよ。それを裏付ける文献も少なくはないと―――』
絶対、教科書には載ってないはず―――。いや、僕の学習範囲を遥かに超える解説が、彼の口から滔滔と流れ出すのだった。
『謙遜なんて立派そうな文言を崇拝する民族の価値感なんて―――』
『勝手に決めつけないでくれよ―――遠藤っ!。き、君の言い分は理解できなくもないけど……そ、その……お仕着せは、正直迷惑なだけさ』
やっと、彼の言葉に割り込めた。それが僕の精一杯の抵抗だった。
『……結構な自尊心を持っているんだね、古屋くんって』
そして一拍おいて、彼はやや薄笑いを浮かべながら僕の抵抗を受け入れるのだった。けれど、彼の見せるその余裕が、僕には余計腹立たしく思えた。
『自尊心なんてそんな立派なもんじゃないさ。ただ君の物の言い方にむかついているだけさ。その上から目線の言葉にね』
遠慮なんてしている場合じゃない。どうしたって立場は同級生なのだ。黙って従っているほど僕は弱くなんてないのだ。