清水優子のと関係
『出来の悪い奴らほど仲良くつるむってな。まさに君らにもってこいの格言だと思うが、如何かな?』
開口一番、笑いながら皮肉る様は、当時の鬼の須藤を彷彿とさせていた。
『なんだ、勘弁してくださいよお―――先生』
『はははっ、元気そうだな木村、中島っ!』
嬉しそうに両名の肩に手を掛けながら、須藤先生の持つグラスは乾杯をおねだりするように高く目線に揃えられていた。。
『恐縮です―――っ!』
それに反応して、すぐさま椅子から立ち上がる木村雄一の悠然たる動作に、僕は思わずハッとさせられた。実に彼の見せる態度は、相当に大人だった。さっきまでのふざけたような軽薄な会話にしても、彼にとっては既に計算済みだったようだ。
なるほどどうして、自身の役割を心得えていたのだろう。本来の木村雄一という男は立派な社会人に身を置いていた。
『先生こそ、お元気そうで』
続く中島良太が、気付かぬ間に須藤先生と肩を並べるように寄り添い立っていた。そんな中島の身のこなしにもまた、紳士的な態度がやけに様になっていた。
―――つまりは、滑稽を思わせる彼らの言動こそ、場を盛り上げようとする即興の演出だったわけだ。それに気づかずに、只々、惑わされて憂鬱に浸っていた僕のほうこそ、まったく大人げないと恥じるしかなかった。自分の中にあるだろう幼稚性を、どうしても否定出来ないでいたのだ。
『どうした古屋。さっきの俺の言った皮肉に拗ねてるのか?』
情けなくうつむいている僕の心中を察してくれたのか、須藤先生が救いの声を差し伸べてくれていた。急騰する木村と中島に対する劣等感が、僕の携えるグラスいっぱいに注がれていたからだ。
『べ、別に気にしていませんから……』
そつなく応えたはずが、まるで墓穴を掘ったように委縮した声になってしまった。
『しかし、まるで変わってないようだな君は。どうだ、仕事は上手くやってるのか?』
『ええ……、まあ』
正直、一番突っ込まれたくない話題だった。救いの声のはずの先生の言葉は、どうやら気まぐれに発せられていたようだ。仕事に対するやりがいなどという抽象的な形容は随分前に使い切ってしまった。今や、月々の給料だけが目当ての会社勤めでしかなかった。
職場での対人関係に苦悩する僕の働きぶりは、ひいき目に見ても一人前とはいかなかった。後輩社員の出世を横目に、ダメ社員の烙印は社内でも公認とされていたのだ。
だから、折角の休日くらいは仕事のことは考えたくなかった。ましてや昔の同級生の前では、あくまでも普通の男子であることを見せたかったのだ。
『こいつ、家電の営業マンやってんすよっ、先生!』
木村雄一が取ってつけたように、余計に囃し立てていた。そんなこと大きなお世話だとも思ったが、勢いに乗れない僕は黙って従うしかなかった。
『ほう―――っ、営業マンかあ。あの古屋がねえ?』
意外そうに、須藤先生が僕の顔を凝視していた。それもそうだ。営業に向いていない性格など、僕自身が既に承知していたことだった。
『―――確か君は、清水優子だったよな?』
すると、僕の話題を素っ飛ばすかのように、須藤先生の興味はやはり女子へと移されるのだった。
勿論、清水優子の美貌に惹かれないはずがなかった。僕へと振られた仕事の話題が回避されたことに安堵しながらも、でも、素っ気なく無視された感が強いようにも思えた。
僕は期待していた。昔の仲間とならば、あの頃と変わらない健全な会話が約束されているはずだと―――。
危うく沈没しそうな実生活にしがみ付きながら、僕はやっとの思いで二足歩行を繰り返している。支えてくれる友もいなければ、会社の同僚だって知らぬ顔。得体の知れない不安はついに不眠を誘い、毎夜、与えられた錠剤に頼るだけのダメ男なのだ。
『いい女になったようだな清水。勿論、結婚してるんだろ?』
『うふふ。わたし独身に見えますか―――先生?』
『いいや、随分と素敵な奥方に見えるぞ。羨ましいくらいにな』
隣で繰り返されている幸せそうな会話が、やけに僕の不機嫌を誘っている。どうせ独身生活から脱皮出来ない、僕へのあてつけでしかないのだ。
『先生―――。古屋ってさ、この年になってもまだ独り身なんすよ。何とか言ってやってくださいよおっ!』
木村雄一が懲りずに僕の話題に照準を合わせていた。やはりあの頃と変わらず、笑いの採れる題材をここぞとばかりに掻き集めては、面白いように吹聴する狡猾な奴の思慮には、今も吐き気さえ催したくなるほどだった。
けれども、僕の中に溶けだし始めた懐かしさの塊りが、現実逃避を容易く引き受けてくれていた。今日一日だけは、屈折する僕の人生観は排除してもいいのだ。
大人の集団の彼らにとっても、この場で交わされる会話のすべてが、きっと、“あの頃―――”の延長線上なのだろう。タイムスリップしていたのは、ここにいる木村と中島に限ったことではなかった。確かに僕の抱く嫌悪感も、当時のままを映し出すように淡くも健気なるものだった。
談笑の後しばらくして、須藤先生は会場内での“生徒行脚”に、足を向けるのだった。さっきまで丸くたたまれていた先生の背中は、信じられないくらいに真っ直ぐに伸びていたのが印象的だった。須藤先生のことをジジイと評した僕の罪悪感は、同じくグラスの底に沈殿するばかりで、中々、浮き上がってはこなかった。
『丸くなったもんだよな、須藤もさあ―――』
中島がここぞとばかりに悪態を付いた。さっきまでの殊勝な態度とは一転して、悪ガキの本性を見せつけていた。
『さあさあ飲もうぜっ! 他のクラスに負けないように頼んだぜっ―――っ!』
周りの者のグラスにビールを注ぐ中島は、抑え切れないように雄叫びをあげるのだった。以前から酒豪の片鱗を見せていた奴は、この歳になってもその勢いを衰えさせることなく活発な男子を演じていた。
『ところで清水さあ、別離たって本当かよ?』
いきなり木村が、余りに唐突に清水優子に話を向けた。他に交わさなければならないことは無数にあったはずなのに。
『そうよ―――もう一年経つわね』
それにしてもあっさりと、彼女は違和感なく応えた。ついさっきの須藤先生とのやり取りは、実に体の良い大人の美学にも思えた。
『よくもまあ、そんなに簡単に言えたもんだ。あのさ、そこに罪悪感なんてないのかよ、おまえさあ?』
起死回生の策だった。意図する僕の冷めた口調は、単に優越が欲しいためだけの虚言だった。
『…………』
案の定、清水優子は閉口していた。それも仕方のないこと。どんな理由にしろ夫婦離婚という大罪からは、そう簡単に免れられるものではないのだ。昨今の歪んだ道徳性に一石を投じるべく、僕の優越が滑り出した。
『ふう―――っ』
大きくため息を漏らす彼女の口元には、僕の指摘する罪悪感が漂っているように見えた。落とす目線にもまさにそれを感じさせていた。
けれど―――。もしかすると、僕は少し無神経過ぎたのかも知れない。清水優子とは昔から妙に波長の合う仲だった。打算なく何でも言い合えてたから、ついその癖が出てしまったようだ。それに甘えてしまうように、僕は無意識に他人の家庭不和に立ち入ってしまった。しかも興味本位にだ。
『古屋くん……ってさあ』
ぽつり漏れ出した彼女の言葉には、傷ついた女性の醸し出す憂いがぶら下がっているようだった。その憂いはというと、清水優子の持つ美貌を更に押し上げていた。そして彼女の次に出て来る言葉を、僕は充分に期待していた。あの頃とは比べものにならない大人の古屋克己に、彼女は感心しているはずだ。それは間違いない。
『あ~あ。子供じみたことよく平気で言えるわね。だって、今時、離婚なんて珍しくもないし、それが人生の破綻だなんて思ってるの、あなた?』
『え、ええっっ?』
瞬間、清水優子が呆れたように吐いた。
『そもそも考え方が幼稚なんだよな。でも、何にも変わってねえよな古屋ってさ。むしろ羨ましいっていうか―――』
続く木村雄一が、柔らかくダメを押した。
『陳腐な発想、間抜けな発言。いいねえ、十五歳の頃のおまえが現にここに居るってわけだ。何とも感慨深いよなあ』
中島良太に至っては、見事なまでの皮肉で僕をダメ英雄に仕立て上げる始末。
『なっ―――!』
撃沈された瞬間だった。清水優子の見せた憂いは、つまりは呆れの前兆だったわけで、そんなことに気付くはずのない僕は、まるで客を呼べない道化師みたいに哀れに涙目を披露することになるのだ。
『やっべえ―――。盛り上がってんじゃんか、ここのテーブルってえっ!』
『うんん―――っ!?』
僕の背中越しに、軽快な声がなだれ込んだ。振り向いた僕の眼先に留まった人物に、更に絶望感は上昇するのだった。
『よ―――う、清水。相変わらずの色気じゃねえの?』
『なんだ……仲田かあ。そういうあんたも相変わらずの気障野郎みたいね。何なの、そのへんちくりんな格好って』
『へんちくりん―――って? おいおい、いきなりの駄目出しかよ。昔の彼氏なんだからさ、ちょっとは褒めてもらいたいよな。なあ、古屋くんっ!』
『…………』
さっきから馴れ馴れしく僕の肩に肘を立てているその男、その名を仲田博之。違うクラスだったけど、そのモテぶりはまるでアイドルのようにもてはやされていた。今で言う、ジャニーズ系のイケメンというわけだ。
仲田の印象はそれに留まらず、学業は勿論のこと、スポーツ全般にもその才能は長けていた。仲田の存在は、密かに僕の劣等感を刺激するばかりだった。当時、清水優子との関係を噂されていたが、その事実は明らかにされてはいなかった。
『ギンガムチェックって……しかもピンクの粗目柄ってさ、いつの時代ってわけえ?』
『へへえ、どう、いかしてんだろ?』
『ところで、彼氏って言ってたように聴こえてたけど。まさかあんた、本気で自分のことを言ってんの?』
迷惑そうに清水優子が、仲田に向けてあからさまに否定を強要していた。と同時に、彼女のグラスに注がれてていたシャンパンは、そのまま一気に飲み干された。
『―――お代わりちょうだい、古屋くんっ!』
飲み干したグラスをシャキッと僕の目の前に差出して、彼女は強烈にお代わりを指示するのだった。仲田博之の参入が、彼女にとっては大いに気に障ったようだ。
『な―――っっ、だ、大丈夫かよ、おまえっ!?』
『何なのよ?大丈夫って、どういうこと?』
思いっきり口元をへの字に曲げ、妙な気だるさを見せながら、清水優子の持ち前の華は崩壊寸前だった。瞬間、その仕草に僕の中で嫌な予感が走った。
『あっ……いやっ……』
見た目は相当に清楚で、いかにもお嬢様育ちの風貌がお似合いの清水優子。しかし、その本質はというと、まるで別人を思わせるかのような荒々しさを秘めていた。
彼女の持つ粗悪な人間性には、既に免疫を持つ僕だった。それだけに今更という感も否めなかった。しかし、それはあくまでも少女時代の彼女の印象でしかなかった。
確かに、彼女の実家は昔から呉服問屋を営む由緒正しい家柄であった。しかも裕福極まりない贅沢に、僕も恩恵を受ける機会に度々遭遇していた。例えば、お昼の豪華弁当を余分に作ってもらったり、また、招かれてお邪魔した彼女の家では、普段は口に入らないような高級洋菓子をたっぷりとご馳走になったりもしていた。
今でこそ他愛ない話に思えるけれど、当時の僕にしてみればカルチャー・ショック甚だしかったように記憶している。
そんな良家育ちの娘さんに異変が見え始めたのは、中学二年生の夏休み前からだったと思う。何に不満を感じていたのだろうか、家庭内の躾にやたらと反発するようになったというのだ。
稼業の手伝いには断固拒否の姿勢。決められた門限など当たり前に無視を決め込む。そして極め付けは、母親の財布からお小遣いとばかりに盗み出すことも、日常茶飯事的に繰り返されていたようだ。
彼女の破茶滅茶な行いは、正に不良少女を彷彿とさせていた。
けれど、そんな彼女の行動も一歩家を離れると話は別だった。評判通りの実に真面目な中学生少女に身を変えるのだった。もちろん、学内でもその才女ぶりは発揮され、可憐な仕草に釣り合わない堂々たる発言力や、弱い者いじめの仲裁役を買って出るという真っ直ぐな正義感も、彼女の個性を最大限に光らせる要因だった。
常に人気者であることを鼻にもかけずに、ひょうひょうとクラスに馴染んでいる彼女の存在に、僕は憧れを抱くようになっていた。所謂、高嶺の花っていうやつだった。
しかし、あることをきっかけに彼女の素行の悪さ、その実態を知ることとなるのだ。そして、それを機に彼女との親交が深まったというわけだ。