龍ちゃんという男
『痛っ―――っ!』
いきなり背後からの先制パンチが、僕の脇腹に食い込んだ。
『何をボーとして突っ立ってんの。挙動不審よね』
やはり彼女の仕業だった。
『抜け駆けはいけないよなあ。古屋くん』
『中島―――っ!!』
『そうそう。いつからの関係なのかな? お二人さん』
『き、木村まで!?』
―――驚いた。まさかこの二人と再会するなんて、まったくの予想外だった。でも、どうして?
『そんなに驚くほどのことでもないと思うんだけどさ』
『け、景子までえ!?』
『……ごめんね。捕まっちゃった』
清水優子が申し訳なさそうに、手を合わせていた。結局、さっきからの延長戦といった展開になっていた。
『やっぱし、怪しいと思ってたんだよな、おまえら』
『そうそう』
勘ぐるように木村が、僕の顔をまじまじと覗き込んだ。それに重ねて中島までもが怪しい目線で僕たちの関係を探っていた。
『とりあえず、店決めようぜ。交番の前で立ち話もないだろ』
そう言って中島が移動を始めた。その足取りは躊躇なく真っ直ぐに進められていた。
相当、手慣れた様子の中島は、数分も歩くと古めかしい雑居ビルの前で立ち止まった。
『不味い飯屋だけど我慢しろな』
そう言って、するっと階段を上り始めた。中島のその後姿にはどこか風格めいたものを感じた。
中島の後を興味深そうに、皆でついて上がった。階段の途中、乱暴に落書きされた意味不明の文字が、神秘的に見えた。
『連れの店だから、遠慮なんてすんなよ』
アメリカン風の分厚い木づくりのドアに手を掛けた中島が、ぼそっと呟いた。薄笑いを見せながらドアを引くと、店の中から聴こえてくる音楽は、意外にもクラッシクだった。
『へえー洒落てんじゃん』
うす暗い店内を覗き込んだ木村が、感心したように言った。それに続いて清水と景子が店内になだれ込んだ。僕は少しだけ間をおいてから中島の横をすり抜けた。
『―――何人?』
閑散とした店内から、ぶっきらぼうに声が掛かった。どうやら店主の声のようだった。
『相変わらず暇だなあ。店閉めた方がよかねえのか?』
店主に負けじと、中島が呆れたように返した。
『何だ、お前かよ―――。来るなら来るで連絡しろよな。こっちの都合ってもんがあるんだよな。実際』
まるで喧嘩ごしの店主の態度に、その怪しい雰囲気に僕は嫌な予感を覚えた。てっきり“連れの店”って言ってたから、フレンドリーなイメージかと思いきや、まったく肝を抜かれてしまった。しかも、店主の出で立ちはというと、強面で髭っ面。言い換えれば、その筋のお方と見間違えるくらい立派だった。
『どうでもいいから、早く座らせろよな。実際』
『どこでもいいぜ』
ぶっきらぼうなその声に甘えて、中島が奥のボックス席に進んで行った。
『突っ立ってないで座れよ。今日は貸し切りだから、遠慮すんなって』
『そんなの勝手に決めちゃっていいの? 中島くん』
清水優子が店主の顔を窺いながら、恐る恐る低く問いかけた。さすがに清水でも今の雰囲気に臆しているようだった。
『だってこの状態だぜ。いいに決まってさ。なあ、龍ちゃん!』
『はい、貸し切り決定。好きにやってくれよブラザー』
そう言って龍ちゃんとやらが、ドアの鍵をロックすると、すぐに表看板の灯りのスイッチをオフにした。でも龍ちゃんの不機嫌さは変わってはいなかった。
『ほら、マスター了解だぜ』
『その代り、たっぷり払って帰れよ。良太』
振り返った龍ちゃんは、ゆっくりと僕たちのボックス席に寄って来た。お客を歓迎する素振りなんて持ち合わせていないかのように、ズボンのポケットに手を突っ込んでいた。
『ああ、美味いもん食わせてくれればな』
『それは保証出来かねるってもんだ。なんなら出前でも取るか?』
不敵な笑みを浮かべる龍ちゃんは、ずっしりと中島の目の前に立った。中島と龍ちゃんの関係がどういう仲なのかさえ知らない僕は、最悪の事態を想定するのだった。しかも、ドアの鍵は閉められているし。
『久しぶりだなあ、良太』
『そうだな龍ちゃん』
微笑ましいはずの再会にしては、互いに牽制し合うように睨みを利かせていた。龍ちゃんのポケットに収まっている右手は、危なげに、もごもごと動き始めていた。そのリアルな動作を横目で追いながら、想定された事態に至ることを僕は核心していた。
『―――ったく!』
重く吐き捨てるように、龍ちゃんが眉をしかめた。やおらポケットから抜き出された右手は、中島の前に高く差し出されたのだ。
『や、止め―――』
“パチ―――ン!”
『ええっ?』
目の前で起こるだろう恐ろしい光景のはずが、何故か互いに笑い合っていた。僕の制止しようとする声は、中途半端に空を切っていた。
『可愛い女子をありがとうよっ!』
『こんなんでよかったのか? 龍ちゃん』
龍ちゃんの右手と、中島の右手が勢いよく重なり合った瞬間の炸裂音。それはつまり、ハイタッチだった訳だ。けれど僕の心臓はそれを受け入れられずに、バクバクと興奮するばかりだった。
『こんなのって、それ、わたしたちのこと?』
『他に誰がいるよ。おまえらしか居ないだろ?』
清水と景子が、顔を見合わせながら抗議するのだった。すかしたように中島が、ふざけたように返した。
『良太の悪い癖さ。美人を見ると妙に悪態をつきやがる。昔っからそうなんだ』
『ちっ、それは余計だって』
龍ちゃんの反撃に、ばつの悪そうな顔の中島がとても好印象に思えた。やはり、大人の男性を感じさせる中島の仕草に、僕は脱帽するしかなかった。
『適当に作るからさ、じゃんじゃん食べてよね。遠慮なんていいからさ、ホント―――。良太っ、ビール勝手に入れろよ。ほらほら動いて動いて!』
さっきまで仏頂面だった龍ちゃんは、転じて愛想の良いマスターの顔になっていた。灯りに照らし出された龍ちゃんの素顔は、相当にイケメンだった。
『もーう、どういうこと? わたし、冷や汗でほらっ!』
手に汗を浮かべて、景子が安堵の声をもらした。よかった。恐々だったのは僕だけではなかったようだった。
『古屋なんて、マジで足が震えてたぜ。なあ』
『そ、そんなことあるもんか。だって……中島の友達だろ。分かりきってたさ』
木村の突込みに、僕は弱弱しく応えるしかなかった。ここでも長年染みついた劣等感がどうにも付いて回るのだった。
『ほれ、ビール回してくれよ。女子は何がいい?』
『ありがとう。わたしビールいただくわ。ねえ、景子もビールでいいよね?』
『じゃあ、乾杯―――っ!』
中島の先導で、高らかに乾杯の声が上がった。龍ちゃんはというと、早く輪に交わりたい一心で、せっせと料理を作ってくれていた。こじんまりとした二次会の運びに、僕の満足度も上昇気流に乗ろうとしていた。
『龍ちゃんとは、大学の時に連るんでたんだな。見ての通りあいつ極道者でさ、しょっちゅう喧嘩してたっけ。高校の時に空手やってたんだと。へっ、おれなんか巻き添えくってばっかでさ。危うく警察沙汰だったね』
龍ちゃんの過去が華々しく公開されていた。やはり見かけ通りの危ない男には間違いなかったようだ。
ところで、中島良太の進んだ高校は有数の進学校だった。けれどその先の大学はというと、強いて言えば三流私立に甘んじていた。あの頃の中島の学力を維持していれば、国立にも手が届いていたはずだ。以前から僕は不思議に思ってはいた。が、取り立てて訊くほどのことでもないとやり過ごしていた。級友の学歴を揶揄するなんてみすぼらしいことを、僕は由としなかった。
けれど散々おしゃべりをする割には、当の中島自身の経歴が欠如しているように思えた。あれほど自分主義の旺盛な奴が、何故か自分のことに関しては一言も触れることはなかった。中島の口から洩れていた話題の中心は、相変わらず龍ちゃんの武勇伝であった。
『おればっか悪者にすんじゃねえぞ―――良太よお』
若さゆえの失態を、照れ笑いで返す龍ちゃんは大皿に熱々の料理を盛っていた。
『うん―――まあいいや。お前のことに触れると、マジ、洒落になんねえからな。告ってもいいけどよ、ここに居る皆、即、帰りたくなるかもよ』
忙しく料理を運びながら、龍ちゃんが意味深に割って入ってきた。さもその口調は、過去の中島の起こしたとする非道さを示唆するに充分だった。
『何人、潰したよ。良太くん?』
『ふっ、この場には関係ねえだろ……龍ちゃん』
二人の掛け合いの妙に、敢えて中島が黙秘していた理由が頷けた。奴も相当に悪だったようだ。
昔の旧友には知られたくない汚点もあって然り。それが同窓会の集いであるならば、なお更、触れられたくない過去だったに決まってる。現在のそれぞれの立場や生活環境、抱えているだろう悩みの幾つかを、束の間だけ手放して対等に語り合える集いの場。同窓会という名の魔法の舞踏場に憧れを託す者も、少なくはないはずだ。
そうやって懐かしさを共有するべくために集まったのだ。それなのに僕たちに無縁のはずの中島の忌々しい過去に踏み込むなんて、親しき旧友とはいえ、無神経極まりない龍ちゃんの言動だった。
またまた重々しい空気が、僕たちを金縛りの状態にさせていた。話の内容が余りにそれっぽくて、運ばれて来た料理に誰も手を付けようとはしなかった。。
『おれの知ってる限り―――、五人は居たよな』
『いい加減にしろよなあ……お前』
双方、薄笑いを浮かべてはいるが、さっきとは別物の危うさが漂っているのを僕はひしひしと感じていた。二人の醸し出す静けさは、今度こそ確実に騒動を起こすべく段階へと進んでいるように見えた。
『ち、ちょっと……』
弱気なままでいられれば、それにこしたことはないはずだった。特に、こんな場面では知らぬ存ぜんがセオリーのはずだし、僕の一番苦手なケースでもあった。けれど、僕の中の迷走する正義感は、残念にも場所をわきまえる節度を持っていなかったようだ。
『あん? どうしたよ。腹が減ってんならとっとと食えよ。そのために作ってやったんだからよ』
束の間、穏やかだった龍ちゃんは、中島の言うかつての極道者の顔に戻っていた。後悔先に立たず。とは言うけれど、僕史上、最大級の後悔に値した。
『皆で仲良く食べた方が、きっと美味しいよね……。な、なあ、中島くんさあ……』
『ああん―――。おれの料理が不味いってのかよ、おまえさん』
火に油を注ぐとは、まさにこの展開を示すのだろう。素晴らしいことわざを、身をもって経験できる僕は、いやっ、ここに居る皆は、ある意味幸せなのかも―――知れない。
『いやっ……そう言うわけじゃ……ないと、思うんだけど』
中島の顔をちら見する僕の心の叫びは、果たして奴に届いているのだろうか? どうか中島よ、長年の親友を見捨てないでくれたまえ。さっきまでの君に対する数々の無礼を、今、この場で清算したいとも思っているのだ。
『ぷっっ、ぷはははっ――――――はあっ!!』
すると、いきなり中島が堰を切ったように吹き出した。
『も、もう止めようぜ龍ちゃんっ。ふははっ、わははははっ―――っ!』
大きく身体をくの字に曲げて、中島がけらけらと笑い始めた。何がどうなったのか、どういう展開なのか、僕は瞬時に判断することができなかった。
『ごめんね……君たち』
含み笑いを隠せずに、龍ちゃんが中島を横目に僕たちに頭を下げるのだった。
『またまた、こいつの悪い癖が出ちまった。ああっ、ホント悪気はないんだって。少しでもさ、この場を盛り上げようってね、よく使う手なんだな、実際』
軽く言い揃える龍ちゃんの弁明に、僕は目が点の状態だった。すうっと、体中から血の気が引くのを感じていた。
『ふ、古屋―――っ!。ぷはははっ―――おまえ、最高に格好よかったぜっ。マジ、龍ちゃんに口答えなんてできたよな』
そう―――。完全に仕組まれた芝居だった訳だ。それにまんまと乗せられた僕は、やっぱり根っからの古屋克己でしかなかった。どこまで行っても、僕には僕の枠を外せないんだ。壁なんて超えることはできやしないんだ。と、そう密かに落胆するしかなかった。
それでも二次会存続の危機から逃れられた安堵の思いで、うっすらと笑っていられることの方が優先されていた。
そんな二人の悪戯な演出の直後に、この場に居る誰しもが一斉に目の前の料理を食し始めた。
龍ちゃんの差し出してくれた料理は、想像していたよりも遥かに絶品だった。本格的なイタリアンを思わせるかのような、生パスタに絡む絶妙のトマトソース。つい、洋づくしかと思いきや、奇をてらったような和の創作の数々。
更に圧巻だったのは、にぎり寿司のフルコースまでもが提供されるほどの周到さ。よもやアメリカン・バーでは食せるはずのない奇跡的なメニューに、皆、大きく満足を表していた。まったく舌を巻かれるような腕前の龍ちゃんだった。
食事も一段落し、僕らはカウンターに席を移した。
『カクテルメニューもあるぜ。優子も景子ちゃんも、お好みの味を言ってくれよ。何でもいいぜ』
すぐに仲間としてうちとけてしまう龍ちゃんのキャラが、とてもうらやましく見えた。客商売だから当たり前と言ってしまえばそうなんだろうけど、それ以上の不思議な魅力が龍ちゃんには備わっているのだ。
『じゃあ、初恋の味っぽいのお願い』
やはり調子に乗って、景子がオーダーした。
『いい歳したおばさんが、何訳のわかんないこと言ってんだよ』と言いかけて、途端に声を詰まらせる僕だった。
景子の純粋な子供返りに、つまりは内心、僕も賛同したい立場であることをわきまえるのであった。
『わたしはねえ……。そうだ、不倫の味がいいっ!』
『おっとおっ、もしや二人しておれを困らせようってことかい?』
間髪入れずに龍ちゃんが、二人の無茶な注文に顔をしかめていた。
清水優子までもが景子のそれに付き合う始末。けれど、不倫の味ってどんな味なのだろうか? 僕には皆目見当もつかなかった。
『お待たせ。濃厚な初恋の味だぜっ! いいかい、その相手のことを思い出して飲むんだぜ』
自信満々に龍ちゃんが景子の前にカクテルグラスを置いて言った。
『美味しいっ! それに……、あの頃の淡い思い出の味がするわ。これって何が入ってるの?』
『ああ、ピーチベースのカクテルさ。特別なもんなんて入れてねえぜ。もし入ってるとすると、……そうだなあ、景子ちゃんの素敵な思い出くらいのもんさ』
臆面もなく龍ちゃんのリップサービスが飛び出していた。まったく様になった一言だった。
『お次は不倫ってかあ』
そう言いながら龍ちゃんは、しばし考え込んでいた。そもそも不倫の味っていう注文そのものが間違っているのだ。万人に値する味でもなかろうに、一体、清水優子は何を思ってそれを頼んだのか?。
―――んん? もしや、もしや彼女の離婚の原因は不倫?
『お待たせ。最高に美味い不倫カクテルだぜ』
清水の前にグラスが置かれた。透明な液体がグラスの口すれすれに波打っていた。カクテルとは言い難い代物に見えた。
『さあ、飲んでみな』
にんまりと龍ちゃんが、彼女を上目づかいで眺めていた。不倫の味と聴いた瞬間に、おそらく龍ちゃんの脳裏には、ある憶測が描かれていたのだろう。
『ジン……?』
その液体をそっと口に含んで、彼女が慎重に答えを模索していた。
『そう、ドライ・マティーニさ。少し辛目にしといたぜ。きっと優子のストーリーに合うだろうからさ』
『ええ―――っ!?』
投げ掛けられた龍ちゃんの一言に、彼女は戸惑いを隠せないでいた。掴んだグラスを置くでもなく、ただ龍ちゃんの言葉にしがみつくだけだった。
『人殺し以外は、何だってやったよなあ。まっ、究極のところ人生いろいろってことだ。良いも悪いも全部自分で背負ってる。平気な顔をして生きてるみたいに言われるけどよ、どうして、辛いもんが込み上げてきて仕方ねえ時もあるもんさ。所詮、他人がどうのこうのって次元じゃねえはずだし、おれはそういう生き方しかできねえな』
最高に格好良かった。龍ちゃんの人生哲学には、凝縮された何かが刻まれている。簡単な生き方ではなかったこと、そのことを痛切に感じさせらていた。
『……見かけによらず、いい人なのね龍ちゃん』
清水優子がうっとりと龍ちゃんの目を追っていた。まるで彼女の抱く葛藤が、龍ちゃんの言葉の中に溶けて消えていくように思えた。
『へっ、妙なこと言うんじゃねえよ。―――で、古屋くんには何をご用意いたしましょうか?』
こともあろうに龍ちゃんの次の指名は、僕に向けられるのだった。
龍ちゃんに初めてお客様扱いをされた僕は、この時、不覚にもたじろいでしまった。さて、何をと訊かれても、普段はビールくらいしか飲まないから、とっさにオーダーなんて出て来るわけもない。だから、棚の中に並ぶ洋酒を順に眺めながら、いよいよ途方にくれる僕だった。
それにしびれを切らしてか、中島がさっさとバーボンのロックを口にした。それを横目に木村がむやみに対抗意識を燃やすのだ。と言うのも、木村は根っからのスコッチ派らしく、バーボン特有の癖のある香りに云々しながら、やたらと中島のことを敵対視するのだった。どっちでもいいような曖昧な選択肢が、僕の脇をすり抜けようとしていた。
『おれ、ブランデーにしようかな……』
とっさに口から突いて出た、“ブランデー”という響き。清水優子が仕掛けた遠い記憶への起爆スイッチを、僕は自ら押そうとしていた。だから飲めもしない洋酒に、あえて挑もうとしていたのだ。
『ヘネシーでいいよな?』
『何だっていい。とにかくブランデーを飲みたいんだ』
考えもなく記憶再生への準備が、僕の中で徐々に進められていた。