アビーロードを聴きながら
青春
懐かしく記憶の糸を手繰ろうとする。それは遥か遠くにあったと思えるほど曖昧にして、不確かな記憶でもあった。
たどたどしかった少年期を羨ましく回想する。自慢できることなんて一切なかったはずの少年は、けれど、立ち止まることを拒むように、バランスの取れない両足をそれでも前へと突き出すのだった。
稀有の出会いをきっかけに、自ら扉を開こうと懸命になれた日々。彼の人と語り合う都度に、灰色に染まりかけていた青春が色を取り戻す。
しかし、やがて訪れる悲哀の影は、徐々に足元から長く遠ざかってしまうのだ。
中学生の時に出会った特別な存在のクラス・メイトが居た―――。
クラス中の誰もが呆れるほどに、異端を覗かせるその個性的なオーラを存分に放っていた。男子のくせに長髪。くるりと跳ねる巻き毛がとても印象的だった。
いつも笑顔で溌剌たる態度が彼の定番で、時折、捲くし立てるように吐き出す難解な社会風刺には、みんな舌を巻いたものだ。
今思えば、たかがやんちゃ坊主の戯言にも思えるほどのものだったろう。
けれど、僕らが未来に向かってがむしゃらに走っていられる、そんな年頃だったからこそ、その大人びた言動にさえ興味津々に構えていられた。
そんな彼はいつも愉快そうに洒落た洋楽を口に含んでいた。彼のその清爽な容姿に合わせて、口元を伝う流暢な横文字をのせたメロディーの心地よさに、いつしか僕は興味を寄せるようになったのだ。
転校により僕たちクラスの一員となった彼は、帰国子女の肩書を満遍なく学内に披露していた。外交官の父と、英翻訳家の母を持つ彼の生い立ちからか、それは凄まじいほどの勢いで西洋文化特有の解放感をまき散らすのだった。時にそれは、嫌味とも思えるほど高圧的に映っていた。
そもそも有名私立の中学校にでも編入すればいいものを、何故にこんな平凡な公立中学を選択したのだろうか? 僕たちにも理解できるはずがなかった。
やがて、クラスの中でも変わり者として敬遠されていた彼の存在は、やはり誰とも溶け込めないでいたのだ。僕にしても彼とは少し距離を置くことを日常としていた。到底、馴染めそうにない彼の独特な雰囲気に、僕の中での嫌悪感が強く先行していたからだ。
そんな或る日のことだった。不思議にも彼の後姿に僕の意識が留まる出来事があったのだ。それは、夕暮れ間近の校庭の隅で、一人、彼が興じていたあることがきっかけだった。
クラスの連中との他愛ない無駄話に興じて、つい、下校時間を大幅に過ごしてしまった僕は、普段は通らないはずの校舎の裏庭をすり抜けるように急いだ。うす暗くなった花壇の横を足早に進む僕に、どこからか寄り道を誘い掛けるように微かに小さな声らしきものが囁かれていた。
妙な気配に不安を抱きながらも、徐々に足は速度を弛める。こんな時間に誰が?
辺りを見渡すけれど、そこには人の気配など到底薄く、僕を呼び止める具体的な掛け声もあるはずがなかった。
悪戯にも似せた止まないその小さな声は、それでも僕のことを弄ぶように離さなかった。
“歌声ぇ―――っ?”
ハッとして、思わず僕は呟いていた。高く低く、緩やかに強弱をつけた不思議な声の仕業は、どうやら歌声らしかった。
突き止めたはずの歌声の先に、胸の鼓動は穏やかではいられなかった。それでもじっと耳を傾ける僕は、知らず息を潜めていた。果たしてその歌声は空耳ではないのか? と、疑心暗鬼のまま身体は硬直するばかりだった。
やがてその歌声は、やっと背伸びする僕の両耳に確かに響いていたのだ。
しばらく辺りを見渡す僕に、ようやくその歌声の先が明らかにされた。まぶしく差し込む夕日。そこに映し出されるシルエット。呆然と僕は目を細めた。
そこに映し出されるどこか見慣れたようなその後姿に、僕はすぐに反応できていたのだった。何故なら、マッシュルーム・カットにくるりと巻かれたくせ毛。それが彼の特徴でもあったからだ。
彼の発する透明感あふれる歌声は、瞬時に僕の驚愕を事実として顕してくれた。まるで天に吸い込まれそうなほどの彼の卓越した歌声。そして異国民を彷彿させるほどの英語の発音の素晴らしさに、僕は声を失うしかなかった。いや、今の僕の存在さえ恥ずかしいように思えてくるのだった。
盗み聴きをしているかのような罪悪感が、爪先から一気に駆け上ってくる。背を縮めてどうにか気配を消そうかと考えるが、硬直する身体はやけに重く、自由を奪われたように突っ立っているしかなかった。
そうするうちに、やがて彼の目線は僕の罪悪感を察知するかのように、真っ直ぐにこちらへと向けられた。意外にも彼は微笑んでいるようだった。慈しむように僕を眺めながら、優しく微笑みを浮かべていたのだ。
それは、ほんの数秒の間だったと思う。経験したことのない不思議な空間を感じ取れた一瞬だった。向き合う彼と僕との間には、既成の会話など無意味に等しかった。ただ、互いの存在を確認することにだけに心は揺れ動いていた。
その日を境に、彼との親交が始まったのだ。不思議と彼に抱いていた苦手意識は消え失せ、それどころか、親密感さえ覚えるようになった。
やがて招待された彼の部屋の特等席には、あるグループの画が並べられていた。うっすらと自慢そうに、けれどもどこか恥かしさを隠しきれないように、整然と並べられたレコード・ジャケットを眺めては満悦さを隠しきれていない彼。まるで自慢の彼女を紹介するかのように、ほんのりと顔を紅らめている彼の純粋さがとても印象的だった。
それからというもの、彼の部屋に通うことが僕の日課となっていた。僕の訪問を歓迎する彼の喜び様は、いつも大袈裟に振る舞うことで表現されていた。西洋文化のそれを自然体で見せていたのだ。
けれど彼の住む大邸宅には、居るはずの家族の気配がまるで感じられないほどの静けさがあった。両親はというと仕事に没頭する余り、連日、夜遅くまで帰宅することはなかったようだ。彼の食事の準備やその他の家事の全般は、住み込みの家政婦に任せられていた。彼はそんなことなどおかまいなしに、気楽な独り暮らしを楽しんでいるように笑い飛ばすのだった。
彼の部屋の特等席に並べられた画。それらを溺愛するかのような彼の横顔に、堪らず僕はある種の嫉妬さえ覚えるようになっていた。
その強情な相手とは―――、こともあろうに世界的人気を博した、“ビートルズ”という偉大なる音楽グループだった。
しかし、僕の抱いていた得体のしれない嫉妬心は、やがてビートルズ・サウンドという魔法によって解き放たれたようだ。彼の家に足繁く通う僕こそ、そのサウンドの虜になってしまうほどだった。
まだ知らぬ洋楽への憧れに、彼の存在は大きく僕にその道を知らしめた―――。
それからというもの、横文字のレコード盤を躍起になって買い漁る日々に没頭したものだ。特にお気に入りのジャケットはというと、やはり“アビーロード”に尽きた。
―――彼の受け売りは否めないとしてもだ。
青春