二章 秘法師見習いと学院生活 01
今日もまた、青い空に白い雲。
カルデラ湖の中島をそのまま城塞都市にしたダ=インはこの時期、朝には外輪山から朝霧がカルデラ内に流れ込み、午前中には霧の中に浮かぶ孤城と化す。だが、昼近くなった今の時間では、霧はすっかり晴れて、湖面は空の色を映し出している。
秘専の訓練場は大学のある丘の南斜面に位置し、城壁よりも高いその位置からは、市街地とそれを囲む城壁、その更に向こうにある湖面を一望することができる。
「……ちくしょう、楽しそうだなあ、このエロ師匠は……」
エラルの昇位失敗から数日。エラルの挫折を尻目に、命司もまた挫折感にまみれていた。
目の前には直接師事しているパウリ学長の小柄な姿があるが、命司に感知術を教えると共に、自らの『芸術活動』に勤しんでいる。
いや、教える、といっても明確なコツなどは教えてもらっていない。というよりも、むしろ『感覚』を言葉で伝えるなど、そもそも無理があるというものだ。
意識を地中に移動させる――とはいうものの、具体的にイメージできるものでもなく、無駄に溜めた黄色の法力は、今日もまた無駄に排出する事になるのかも知れない。
パウリはパウリで、施術前に二言三言アドバイスすると、自ら地下へと意識を浸透させ、そのままいつまでも帰ってこない。そうこうしているうちに、見回りのシリンがやってきて、本日の講義は終了となる。日々がその繰り返しだ。
「やってるかい? メイジ」
(そら来た)
芝生の上で、後ろ手を突いて青空を眺めていると、定刻通りにシリンの声が響いた。
「やってますよ~、とか言えたらいいんスけどね~」
「どうでもいいけど、アンタまで覗き覚えるんじゃないよ? ……まあ、アンタくらいのヤりたい盛りに言う事でもないかもしれないけど」
覗き込むようにして見据えてくるシリン。本性と正体さえ知らなければ、傾城の美女とさえ言えるだろうその美貌は、口を開くと台無しになる。
「盛りって……」
面と向かって堂々と言われると、むしろ命司の方が気恥ずかしくなってくる。
「まあでも、アンタにゃエラルがいるからいいのか」
「ガハッ!」
不意に耳に届いたそんな言葉に、命司は一先ず吐血した。
「先生! アイツ男! 男! 俺ホモじゃないし!」
「……あ、ああ、そうだったそうだった。忘れてたわ」
苦笑を浮かべ、シリンは頬を掻いてみせる。
(まさか、この人も腐属性持ってんじゃねえだろうな……?)
嫌な汗をかきながら、命司は複雑な表情を浮かべてみせる。まあ、シリンの言う事も命司は分からなくもない。命司自身、何かの拍子にエラルの性別が分からなくなる瞬間があるからだ。そんな時には、決まってあの黒歴史を思い出してしまう。
いや、と、命司は頭を振ってみせた。
「……こ、こんど、エラルの姉さん紹介してもらう予定なんスよ俺」
半ば自身に言い聞かせるために言ったそんな言葉に、シリンはしばし沈黙した。
「……へえ、あ、そう。そりゃ良かったねえ」
どこか感情もなく、ただ乾いたように響くシリンの声。『あたしにゃカンケーないし~』とでも言いたそうな中に、しかし微妙な疑問符も含まれているような反応だと命司は思った。
「姉さん女房ってのもまあ、悪くないもんだよ?」
シリンの追撃に、再度吐血を強要されながら、命司はシリンに向き直った。
「はあっ? いやいやいや! 相手姫様ッスよっ? ケケケ、ケッコンとか仮にもそんなっ?」
狼狽える命司の様子を見ていたシリン。その口元が、見る間に邪悪に歪んでいく。老獪な妖怪。率直に言ってそんなイメージだ。
シリンは不意に、メイジの頭を右脇で締めると、耳元に囁くように呟いた。
「どうよメイジ? 清く正しい男女生活の前に、一稼ぎしてみないかい? ユートの奴隷同然なアンタの事だから、デート資金なんか持ってないんだろ? お金あった方がいいよ~? 女ってのはね、顔より何より、子育ての環境を整えてくれる男がいいのさ。おっと、夢がないとか言うんじゃないよ? 産んで育てる。こりゃ女の本能なんだからね?」
「え~、つまり男は金、ってコトっスか……」
「物分かりいいじゃないか」
嬉々として呟き、シリンは命司の頭を更に締めてくる。
「イデデデデデ……でも、俺講義終わったらユート達の手伝いあるし、ヒマじゃないッスよ?」
「あるだろお? ヒマなんか。アンタ、毎日午後いっぱいヒマそうにしてんじゃない」
それはアンタが師匠をブチのめすからだろ、と、そこまで考えた命司は、シリンの真意にようやく気づいた。
「つまり、午前は学長の講義で、昼からはバイトしていい、っつーコトっスかね?」
「まあ、それを堂々と言っちゃうのは、講師の一人としてどうかと思うから、社会勉強ね? 社会勉強。ひょっとすると、お金も稼げちゃうかもしれない社会勉強だけど! ……どう?」
「乗ったッス」
恣意的に緩められた脇から抜け出し、命司はシリンに相対すると、にんまりと笑って見せた。
「んじゃ、案内してあげるから付いといで」
二人同時に立ち上がり、シリンの背中を見ながら、命司はふと思い出したことがあった。
「えっと、今日は学長ほっとくんスか?」
その声に弾かれるように振り向くと、シリンは苦笑して見せた。
「そーだったそーだった……」
スケベくさく顔面総崩れのパウリの眼前まで行くと――
「ハッ!」
気合一閃。シリンの優美な回し蹴りが学長の後頭部にヒットし、彼の身体は、まるで川面を跳ねる平石のように、十数回跳ねまわってどこかに消えていった。
(……学長すんません、俺、余計なこと言いました)
命司はひとまず南無阿弥陀仏を三回唱えて、シリンに付いてこの場を後にした。
続きます