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アルドは神殿へと向かう前に、ネイスに頼んで、神殿付近に設けた仮拠点に寄ってもらい、着替えを済ませることにした。服装に関して、スラム用とそれ以外で分けているからだ。教会は貴族の屋敷ではないが、スラム用の汚らわしい服装では、いくらネイスが一緒でも門前払いをくらってしまうだろう。
スラムでは極端に汚い格好をしていないと、それだけで『獣』に襲われる。生きるためなのだから当然だろう。全員殺すことも可能だが、面倒だからと服装を分けることにしている。
ラルムで夜通し飲んでいたせいか臭いも気になったため、シャワーも浴びることにした。
真っ黒の髪をタオルで乱雑に拭いてから、黒尽くめの仕事着の上に、更に黒いコートを羽織る。二本の愛用のナイフも忘れない。続けて念のため、投擲用の短いナイフと、刃に塗るための毒瓶をコートに仕舞う。
支度を終えて仮拠点の部屋を出ると、ネイスが腕を組みながら目を閉じて扉の前に立っていた。
「何故そんな面倒なことをしてまでスラムに入り浸っているのですか? あなたはお金も十分に持っていますし、こちらで仕事をしているじゃないですか」
瞑想でもしていたのかと思いきや、割とくだらないことを考えていたようだ。ネイスにとってもスラムまで呼びに来るのは面倒なのだろう。普段はこの仮拠点に手紙を残すことになっているが、急用の場合はわざわざ探さなければならない上に、場所がわかってもスラムへと足を運ばなければならない。
「どうせ日の高いうちはこっちにいるんだから問題ないだろ。それに、スラムまで来させたのは今日が初めてだろ?」
「べつに私が面倒だから言っているのではありません。単純にあなたの行動が不可解だから問うただけです」
鋭い質問だ。確かに、アルドがいつまでもスラムに住みついているのには理由がある。
スラムには、理性を失った強靭な獣が潜んでいる。その大半はエルビスの騎士団と同等以上の力を持つ。ネイスは騎士団でも指折りの実力者であるため、今回は彼女にとって大した相手に出くわさなかったのだろうが、中にはネイスですら太刀打ちできないであろう猛獣も潜んでいる。それは騎士団や、軍の連中にとっては周知の事実だ。当然、ネイスも知っている。だから、無傷だったとはいえ、ラムルまで辿り着く際には充分に注意しただろう。
だが、そうした獣どもの存在には不思議な点がいくつかある。まずは、食料に関する点だ。スラムはその性質ゆえに、食料などは決して豊かではない。対して、獣どもは飢餓状態にあるとは思えないほどの強靭な肉体を持つ。そこに矛盾がある。つまり、どこかに食料源があるはずなのだ。
次に、武器とその扱いにおける点だ。やつらは、基本的に誰かを襲う際は素手であることが多いが、中にはナイフ等の刃物や金属製の棒や鎚をも用いる者もいる。それも、ボロボロで使い物にならないようなものではない。スラムには腹の足しにもならないゴミは多く転がっているが、その辺に落ちている鉄槌など見たことはない。さらに不可解なのは、それらの扱いに慣れていることだ。棒を振り回すことなら誰でもできるが、それで騎士団と拮抗できるわけはない。必ず、武器の供給減と指導者がいるはずなのだ。また、それらが食料の供給源と繋がっている可能性もある。
この国のスラムに来た当初は、誰か統治者でもいるのかと思っていたが、それではアルドやジェイドの元に姿を見せないことが不自然である。
最後に、最も不可解な点が、自分がそれを調べても詳しい事情がわからない、という点だ。アルドは幼少の頃より様々な戦闘訓練を受け、その中でも特に暗殺技術を叩きこまれた。それ故、かつては暗殺を生業としており、隠密行動に関しては大陸中でもトップクラスの実力があると自負している。にもかかわらず、大した情報を得ることができないのである。そうした不可解な点がこの国のスラムには隠れているため、アルドはスラムに居を構えているのである。
ただ、その現状を彼女に伝えるべきではない気がした。伝えることで撒きこんでしまう気がしたのだ。だから――
「なんとなく居心地が良いんだよ。なにより、女に困らない」
だからアルドは冗談めかして、ニッと口の端を吊り上げながら真実を隠してしまった。
その言葉を受けて、ネイスは汚物でも見るかのような軽蔑の眼を向けて、無言で先を歩いて行ってしまう。
「おい、冗談だって、待ってくれよ」
結局それが、不愛想な女性騎士の、今日初めて感情を見せた瞬間だった。
エルビス教は大陸唯一の宗教だ。大陸を創造した女神エルビスを唯一神とし、他の宗教は存在しない。そのため、各人の信仰心に差異はあっても、大陸中の人間が女神エルビスの存在を信じている。
エルビス教会は大陸各地の大国に支部のような形で教会を構え、その本部としてここサーリンス王国にエルビス神殿が存在する。サーリンスは王政の大国で、大陸の地図上の中心に位置している。また、神殿にいる神官たちはサーリンス国民ということになる。
しかし、神殿は国から干渉されることのない自治州のような扱いとなっている。各地に設けられた教会の扱いも同じだ。
神殿付近まで着くと、そこには大きな門があり、そこに二人の門衛が騎士姿で屹立していた。二人は共に女性騎士だが、極端な身長差があり、小さい方がライカで大きい方がシセットだ。ちなみに比較的大人しい方がシセットで、絶対的に騒がしい方がライカという区別の方法もある。
門衛は日毎に替わるが、今日は二人ともアルドと面識のある者だった。団長が堅物なのにもかかわらず、彼女らは比較的フランクでアルドにとっては付き合いやすい連中だ。
門扉はサーリンスの王城のそれと同じくらいの大きさで厳めしいものだが、エルビス神殿の門に限っては常に開いている。むしろ閉じているところを見たことがない。敵に襲われるときにしか閉まらないのだろうか。敵といっても一国の軍隊規模の群勢が襲ってくることなど、滅多にないだろうが。
アルドとネイスが門まで近づくと、門衛の二人が騎士らしく絡繰りのような礼をした。これはアルドに対してではなく、上官であるネイスに対してのものである。
年齢的にはネイスと同年代だが、立場上はネイスが上である。ネイスは若い女性団員ということでウィルヒナの従者として働いているが、実力は神殿騎士団の中でも三番手の優秀な騎士であるため、恐縮しているのだろう。
「よぉ、ライカ、シセット。ライゼルはいるか?」
アルドは二人がネイスの前で堅苦しそうにしているのを解してやろうと、いつもの調子で声を掛けた。
それを受けて二人がネイスを窺うように視線を彼女に向けると、ネイスも雰囲気を察したのか「話が終わったらウィルヒナ様のお部屋にいらしてください」と言い残して神殿の中へと向かって歩いていった。
「ちょっとアルド、上官の前で変なこと言わないでよ」
門衛の二人はほっとしたのか、同時に溜息を吐くと、すぐにライカがうらみがましい眼をアルドに向けて言った。
「おまえらは気にし過ぎなんだよ。あいつが態度なんか気にするタマかよ」
ネイスは表情があまり豊かでないため、厳しいと思われがちだが、あれは単純に下らないことに興味がないだけで、稽古さえしっかりとこなしていれば煩いことは言わない。
「アルドは騎士団員じゃないからそんなことが言えるのよ」言ってから、ライカが肩を竦める。「それで、ライゼルフォード団長のことけど、たぶん裏庭で団員の稽古をつけてるわよ」
エルビス神殿騎士団長ライゼルフォードは大陸中にいる神殿騎士団のトップだ。指揮の面はもちろん、実力も段違いの化物だ。アルドも普通(、、)の人間だったらライゼルの足元にも及ばないだろう。
その化物は日中の時間の殆どを団員の稽古に費やす。その上、夜は自己鍛錬に充てるといった、ある意味戦闘バカだ。以前、騎士団の稽古を眺めたことがあるが、団員がかわいそうになるくらいの厳しさだったのを覚えている。
「やれやれ。こんな朝早くから稽古とはね。まったく、あのオヤジはただの戦闘狂だよなぁ」何気なく呟くが、門衛の二人は同意し難いようで、困ったように眉尻を下げて苦笑している。
あまりからかい過ぎるのも気の毒なので「冗談だよ」と二人の肩を軽く叩き、アルドは裏庭へと向かった。
「おい!まだ三周だぞ!次の者は早くしろ!」
裏庭に着くなり、地面を震わすような怒声が聞こえてきた。多少離れた位置にいるアルドでさえ顔を顰めたくなるような大声だ。近くにいる団員にはたまったものではないだろう。
どうやら一人一人に実践稽古をつけているようだ。団員が一人ずつライゼルと刃引きした剣で打ち合う形式のものである。いくら刃引きしていても、直撃を食らえば相当な衝撃を受けるはずだ。見たところ今稽古を受けている団員は新人ばかりのようで、いくら鎧があっても、あの化物相手では三周もすれば充分だといえる。
恐らくライゼルも団員が限界だとわかっているのだろう。口ではもう一周だと言っているが、剣は地面に突き刺している。とはいえ、このまま放置すると本当に次の一周が始まり兼ねないため、アルドは敢えて稽古に水を指すように、間に入ってから口を開いた。
「お取り込み中わるいな。ライゼル、少し時間をもらえるか?」
アルドが割って入ったことで団員は気が抜けたのか一斉に座りこんでしまった。その様を見てライゼルが団員を睨みつけるが、新人の彼らにはもう立つだけの気力は残っていない。
ライゼルは仕方なしと判断したのか、残りの時間を自己鍛錬に充てるように伝えると「話は中で聞こう」と言って、アルドを残して裏庭の隅に立つ石造りの小屋へと入っていった。
新人たちは突然の乱入者に混乱しながらも、稽古を打ち切ってくれたことに感謝を伝えるためか、右腕を胸に当てて礼をしてきた。小屋へ向かいながら横目でそれを見ると、なんとなく微笑ましく、苦笑してしまった。
小屋の前で一旦足を止め、小屋の脇を見ると、三羽のズーイが大人しく待機していた。騎士団用の装備を身に付けていて、その姿は先の新人たちよりも様になっているように見えた。
ズーイとは大陸西部から中央部にかけて生息する大型鳥で、大陸においてあらゆる面で活躍している。
人を乗せられるほどの大きさで且つ力が強いため、街では主に物資の運搬に役立てられている。各国の軍ではズーイ隊といってズーイを利用した、機動力の高い部隊の一部として、戦の前線で活躍し、他にも大陸西部ではズーイの賭博レースが流行しているらしい。
眼の前にいるのは当然、神殿騎士団で活躍しているズーイたちだ。ズーイを乗りこなすためには相当な技術が必要であるため、彼らは新人の訓練用に駆り出されたのだろう。
アルドはズーイたちを労う意味で、それぞれの頭を一撫でしてから小屋に入った。
裏庭の隅にあるこの小屋は、神殿を警護する団員の詰所のような場所で、狭くはあるが、机と椅子くらいは用意されている。既に机の奥にある椅子にライゼルが腰かけていたため、アルドは手前側の椅子に座ることにした。
「さっきの稽古、新人ばかりだったみたいだが、ライゼル班の連中はどうした?」アルドは稽古の様子がいつもと違ったことが気になり、きいてみた。
エルビスの神殿騎士団は大きく三グループに分けられる。団長ライゼルフォードの班として神殿警護に当たるグループと、副団長ルーカスの班として神殿付近の治安維持に当たるグル―プ、最後に大陸各地の教会への派遣団員として他国の教会警護に当たるグループだ。新人たちは一度ライゼルの元で訓練を受け、その後各グループに割り当てられる。
アルドの質問は、いつもならば早朝の訓練はライゼル班の稽古のはずなのにもかかわらず、新人たちしかいなかったことを訝ってのものだ。
「俺の班員は外に出している。ルーカス班の監視と情報収集に当たっている」
ここでもルーカスの名が出てきた。
「俺が呼ばれた件と関係がありそうだな。そういえば、あんたにも今日の夕方に来るよう言われてたな。それもルーカス関連か?」
そこでライゼルは何かを躊躇うように一瞬だけ眼を伏せた。けれど、それは本当に一瞬で、すぐにアルドの眼を見て口を開いた。
「いや、俺の用は別件だ。だが、ウィルヒナ様からの呼び出しがあるなら当然そちらが優先だ。こちらのことは忘れて構わん」
色々と突っ込もうかとも思ったが、ウィルヒナたちを待たせているため、あまり長居はできない。アルドは気になった点をとりあえず保留ということにして、再び外のズーイたちの頭を軽く撫でてから、小屋を後にした。
アルドは裏庭から正面入り口まで回り込むと、神殿の中に入った。神殿の形状は角柱の上に円柱が乗っているような形になっていて、入口の扉を開けると、そこは全体の五階層分の吹き抜けになった教会になっている。入口の扉から見て正面上部には直径十五ニードほどの大型の円盤が飾ってある。円盤にはエルビス教のシンボルである女神エルビスの翼二枚が交差するように描かれている。左右の壁には巨大な窓が五つ一定の間隔をあけて設置され、そこから光を取り入れるようになっている。奥の円盤の下は一段高い壇になっており、円盤に向かって長椅子が入り口付近から壇まで均等に並んでいる。また壇の両脇に木製の扉があり、右側の扉の先には地下へと繋がる階段があり、左側の扉の先は上層へ向かう階段がある。
教会には祈りに来た一般市民が十数人と神官が五人ほどいた。今は早朝で人は少ないが、時間帯によっては百人以上の市民が祈りに来る。
特に知り合いもいなかったのでアルドは奥に進み、壇の左にある扉を開け、階段を上る。
エルビス神殿には地下を除いて十三階層が設けられていて、上部の四階層分が円柱に当たる部分となる。下の五階層分が教会部分でその上の一階層分が治癒院となっている。これらの施設は各教会全てに存在し、市民にとって関心のある施設だ。
教会の神官たちは『神占術』という、特殊な力をエルビスから授かっていて、医療器具もなしに怪我の治癒が可能なのだという。ただ、神占術は治療行為に用いられるが、けっして魔法などといったものではない。炎を放ったり風を操る等といったことはできず、生物の身体に軽度の干渉ができる程度のものらしい。
しかし、中には瞬間的な肉体強化が可能な者もおり、そういった人間は神殿騎士団に取り込まれる、という話を以前ネイスから聞いたことがある。
どちらにしても、神官たちは例外なく治療に関する神占術を使うことができるため、神殿や各教会付近で生じた怪我人が治癒院へと運ばれてくる、といった次第だ。
ただし、教会をギルゼのように嫌っている人間も珍しくはなく、そういった市民のために神占術を用いない薬師も街には存在する。
治癒院よりも上部の残り六階層分は全て教会関係者以外の立ち入りが禁じられ、教典などの教会関連の書物が収められている。アルドは教会関係者ではないため、本来ならば上層への立ち入りが禁じられているが、ウィルヒナやライゼルに呼び出されて出入りしているうちに顔パスになってしまった。
途中の階層を通り過ぎ、階段を上り終えた先にある両開きの扉を開くと、円形をした三階層分を占める大部屋に出た。外から見た円柱部分の階層だ。直接見たことがないが、毎日の朝と夕に祈りの儀式とやらを行う場らしい。儀式の際は女性神官の何割かがここにいるらしいが、今は二人の神官が掃除をしているだけだ。
大部屋の正面には白い球体があり、その右側の奥に再び上り階段が見える。
アルドは掃除中の神官に片手を挙げて一声掛けて、ウィルヒナの部屋へと上がることを伝える。神官が返事の代わりに頭を下げたことを確認すると、白い球体を一瞥してから、奥にある階段を上った。
短い廊下を経て、その先にある白い扉をノックする。そこが神殿最上階唯一の部屋であり、エルビスの御子ウィルヒナの私室である。
扉は中にいたネイスが開けてくれた。アルドは少し遅くなったことを謝罪しながら部屋の中に入る。
ウィルヒナの部屋は特段広いわけではない。無論ここで生活しているのだから、ある程度の広さはあるが、贅沢な生活をしている印象はない。教会の人間とはいえ、どうせ外部の人間に見られることもないのだから、多少の贅沢は問題ないだろうに。
部屋の中央に置かれた応接用のソファーには、肩まで掛かった水色の美しい髪の少女がこちらを向いて座っていた。
女神エルビスの御子、ウィルヒナである。あまり外に出ないためか、肌は白く、体の線も細い。だが、決してやつれているわけではなく、性格も明るい付き合いやすい女の子だ。
彼女は座ったまま、アルドの入室を確認すると対面のソファーに掛けるよう促した。
「朝早くにごめんね。でも、どうしてもアルドくんに頼みたいお仕事があるの」
そして、アルドが腰を下ろすなり、すぐさまそう切り出してきた。
「いきなり本題とは珍しいな。そこまで急いでいるのか?」
ウィルヒナは焦り気味だったことに自覚がなかったようで、「え?あぁ、ごめんなさい」と言ってから、深呼吸をした。
「……ふぅ。あのね、私が今回アルドくんを呼んだのは、べつに特別な仕事のためってわけじゃなくて、仕事自体はいつもと同じものなの」
いつもと同じということは用心棒の仕事だろう。要するにウィルヒナの身辺警護だ。
ウィルヒナは立場上様々な人間にその命を狙われやすい。エルビス教会は大陸唯一の宗教であり、規模はそのまま大陸中だ。そして、大国には必ず組織の支部のように教会が設けられ、各国の為政者との繋がりもある。さらに神殿騎士団という独自の軍隊のようなものも持っている。
従って、大国の反体制派で、過激な手段を取る連中は自国の軍隊だけでなく、エルビス教の神殿騎士団も相手にしなければならず、そのエルビスのトップは神殿の神官長及びウィルヒナの両名となる。神殿騎士団のトップはライゼルだが、やつは教会としての意思決定をする立場ではない。そのため、ウィルヒナは各国の反体制派の人間たちから狙われることが多くなってしまうのである。
その場合、反体制派の軍勢が神殿に押し寄せるといった形ではなく、刺客を差し向けるといった形がとられる。反体制派に戦力を分けるような余裕はないし、神殿騎士団と直接対峙するのは得策ではないからだ。
ただ、当然ながらウィルヒナには普段から身を守るための従者は付いている。それがネイスだ。ネイスはウィルヒナの従者として身の回りの世話もするが、本職は神殿騎士であり、実力はその中でもトップクラスである。加えて、神殿にはライゼルという化物も控えている。つまり、対策としては充分なのだ。
それでもアルドに用心棒の仕事が依頼されることがある。それはウィルヒナを狙う者が暗殺を得意とし、その技量がネイスを上回る危険性がある場合である。
ネイスは確かに優秀だが、相手も遊びでクーデターを企てているわけではない。稀に大陸中から危険視される大物が雇われることもある。そういった際に保険としてアルドが雇われるということだ。
ライゼルの存在もあるが、やつの場合は警護対象が神殿全体であり、ウィルヒナ専用の護衛ではない。そのため、陽動として複数の刺客を向けられると、どうしてもウィルヒナへの注意が逸れてしまう。
それに、今回は『保険』などという生易しい仕事ではないらしい。
「やることはいつも通りなんだけど、今回ウチの諜報員の情報によると、リンドネル・ヴァルナーがサーリンスに潜伏しているらしいの」
その名を聞いた瞬間、アルドは思わず眼を見開いてしまった。普段から飄々とした態度をとっているアルドは滅多に動揺することがない。
そのアルドが珍しく動揺したのを見て、ウィルヒナは一度眼を伏せ、それから何かを決意したのか、一拍間を開けて話を続けた。
「だから、今回のお仕事には一つだけ特則を設けます」
「……だいたい予想はできるが、一応聞いておこう」アルドは言ってから、溜息を吐く。「特則っていうのは?」
「今日から、そうね……たぶん半年くらい私の警護をお願いすることになるのだけど、その期間中にリンドネル・ヴァルナーと遭遇した場合、私の警護を放棄してアルドくんは退避すること」ウィルヒナは瞬き一つせず告げた。「もちろん、報酬はそのまま払うわ」
「断る」アルドは間髪入れずに答えた。「べつに逃げることをみっともないと思って断るわけじゃない。そもそも、そんな仕事なら俺を雇う必要がないだろ」
アルドの意見をウィルヒナは首を振って否定した。「そんなことはないわ。現状で教会が危険視しているのはリンドネルだけではないの」
そこでアルドは今日の会話を思い出した。「……ルーカスか」
「そういうこと。実はリンドネルの姿を確認したとき、一緒にルーカスがいたことも確認されているのよ。それに、サーリンスに来たのがリンドネルだけとは限らないわ。アシスタントとして誰かを連れてきている可能性もある。最悪の場合、もう一人ヴァルナーの人間が絡んでいることもあり得るわ」
「なるほど」アルドが頷く。「確かにその場合、ネイスには荷が重いか」
いかに酒癖が悪く、問題のある騎士といっても、ルーカスは神殿騎士団の副団長だ。剣の腕は充分にあるし、ネイスよりも技量は上だろう。その上、他にもウィルヒナの命を狙う刺客がいた場合、間違いなくネイスではウィルヒナを守りきれない。
「いえ、ネイスにはしばらく私のそばを離れてもらうわよ」
「は?」アルドが素っ頓狂な声を出した。「それじゃ、ネイスはどうするんだ?」ウィルヒナの後ろで佇立していた本人へと言葉の矛先だけ変える。視線はウィルヒナに向けたままだ。
「私は本日より、間諜としての任務へと移ります」ネイスが答える。
「おい、間諜ってまさか、リンドネルに張り付かせるつもりか?」
「ええ、その通りよ」ウィルヒナにふざけた様子はない。「だから、アルドくんは今回独りで私の警護をすることになるわね」
「おまえたちはバカか?隠密行動は俺の専門だが、ネイスの本職は神殿騎士だ。役割が逆だろ。それに、相手はヴァルナーの人間だ。勘付かれたらネイスは確実に殺されるぞ」
「落ち着いて」ウィルヒナが掌を向けてアルドを宥める。「今はただリンドネルの姿が確認されただけで、そもそもリンドネルが教会と敵対するのかもわかっていないのよ」
「それなら尚更ネイスを向けるべきじゃないだろ。下手をすれば無駄死にさせることになるんだぞ」
「…………」そこでウィルヒナは沈黙して、顔を下に向けてしまう。
アルドも無言のままウィルヒナから目を逸らさずにいると、彼女の背後から答えが返ってきた。「私は慎重に行動しますし、そう簡単に殺されるつもりもありません。それに、アルド様にとっては危険度も低いでしょうし、問題ないのでは?」
確かにネイスの言うとおり、今回の仕事では副団長のルーカスを相手にする可能性があるとはいえ、リンドネルを相手にするよりも危険度は圧倒的に低い。それでも、ネイスをリンドネルに当てるということは、彼女を捨て駒として扱うということだ。
「正気か?」アルドは視線を動かさずに言う。「今からでも俺とネイスの役割を交換しろ」
「それはできません」ネイスが答える。「一応、誤解のないように申し上げておきますが、この決定は教会としての決定です。神官長と各幹部たちが会議で決め、私も承諾しています」
アルドはそこではじめてネイスを見る。相変わらず表情はないままだ。その眼に何かしらの決意があるものだと思っていたが、それすらもない。普段通りの鋭い視線がこちらを向くだけだ。
「だが、ウィルヒナは納得していないってことだな?」再びウィルヒナを見て問う。
「アルド様」ネイスの声だ。「余計なことはしなくて結構です」
「俺はウィルヒナにきいているんだ」
「これは教会としての決定です」しかし彼女から帰ってきた答えはアルドの望むものではなかった。「私の意思は関係ありません。その決定に従うまでです」
「アルド様はあくまで外部の人間です。あなたが何を言おうとこの決定が覆ることはありません」ネイスがウィルヒナの後に続いた。「結局のところ、私の使命はウィルヒナ様を命懸けで守ることです。あなたは、あなたなりのやり方で、どうかウィルヒナ様をお守りください。」
ネイスはそう言った後、丁寧に、上官へと向けるそれと同じように、頭を下げてみせた。これ以上反論するなということだろう。
アルドとしても、それ以上反論する気にはなれず、ただ、頭を下げる直前にネイスが瞳に浮かべた涙と、それを隠した意味を考えることしかできなかった。