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アルド・ヴァルナーは行きつけの酒場で親友と共にスラムの下級料理に舌鼓を打っていた。ラムル・ド・ジオというスラム街にある酒場で、二年前からほぼ毎日通っている。今回は夜から入り浸っているが、もう日付も変わっているだろう。
ラムルは小さな長方形をしていて、カウンター席しかない、ボロボロの小汚い店だ。決まったメニューは存在せず、料理は手に入った材料次第で、酒は一種類しかない。
カウンターの内側に立っている店主のギルゼは、禿げ頭のくせに髭だけは生え放題のおっさんで、貴族のような金持ちが嫌いな、商売人としては失格の人間だ。それでもスラムに住み着いているアルドにとっては愉快なオヤジで、ゴミのような食材しかないスラムでも、食える料理を振る舞ってくれるお気に入りの店だ。
アルドたちは入口から一番奥にある席に座って、店主を含めて三人で、今日の料理の話に興じていた。
「オヤジ、このスープ美味いな。どこかの貴族にでも食材分けてもらったのか?」
アルドの隣に座るジェイドが上機嫌な様子で店主に話しかける。少し幼さの残った若者がこうして禿げオヤジ相手に料理の話を振る姿を見ると、親子のように見えなくもない。
アルドとジェイドは共にまだ二十代で、確かめたことはないがギルゼは恐らくその二倍くらいの年齢だろう。親なんてものは存在しない二人にとって、ラムルの店主であるギルゼはスラムで生きる上での親や先生のような存在だった。
「バカ言うんじゃねぇよ、ガキども。俺がそんな連中から食材を手に入れるわけねぇだろうが。」ギルゼは特に怒った様子もなく笑いながら言葉を返す。
「でも本当によくこんなゴミしかない所で、こんな美味いスープが作れるな」
アルドが感心しながら呟くと、店の扉が開いて一人の若い女が中に入ってきた。三人が一斉にそちらを向く。
女は長い黒髪を後ろで一つに束ねていて、そのせいで露わになった小顔で顎の細い輪郭と、切れ長の眼が印象的だった。服装は白基調に所々黄色の刺繍のあるぴったりとした防護スーツに、同じく白基調のフードつきのコートを羽織っていた。体にフィットしたスーツにもかかわらず、胸の凹凸は辛うじて察せられる程度の慎ましやかなものだった。羽織ったコートの胸にはエルビス教会の紋章が縫い付けられている。
さっと横目でギルゼの様子を確認するが、ひどく警戒しているようだった。
妥当な反応だろう。通常、女が一人でスラムにいることは少ない。スラムというのは、ただ不衛生なだけではないからだ。ヒエラルキーのどん底にいる、失うものがないスラムの住民は欲望に忠実になる。女や子供が一人で歩いていれば追い剥ぎや強姦に遭うのは必至といえる。そこに例外はない。
スラムも場所によっては、支配者が現れ、組織が作られ、それに伴って一定の秩序が形成されることがあるが、このスラムではそんなものは存在しない。力による序列は存在するが、誰もが好き勝手に暴れる。このスラムの人間は秩序を形成できるほどの頭を持たない。獣と同じだ。
そんな獣の無法地帯であるにもかかわらず、目の前の女には傷一つない。それは、この女が獣どもを追い払うだけの実力を持っているということだ。そんな女が早朝から単身店に乗り込んできたとなれば、警戒もするだろう。
「アルド様、やはりこちらにおいででしたか」女は店に入ってくるなり無表情のままアルドに告げた。「仕事の依頼がございます。神殿まで一緒にいらしてください」
「おい、ちょっと待てや」ギルゼの声だ。「店に入ってくるなり突然なんだよ。教会の人間なら大人しく神殿で神様と戯れとけ」少しの躊躇いもなく、女を怒鳴りつける。
対してジェイドはある程度事情を知っているためか、何も言わずに酒を飲み続けている。
「落ち着いてくれオヤジ。コイツはエルビス教会の人間だが、ルーカスのようなやつじゃない」アルドが諌める。「それにせっかく仕事を持ってきてくれたんだ。ちょっと話だけでも聞いてくるさ」
ギルゼが警戒心をむき出しにするのは、女が単身スラムに乗り込んできたことだけが理由ではない。以前ラムルに、エルビスの神殿騎士団が視察と称してやってきたことがあったが、その際にひと悶着あって以来、教会に不信感を抱くようになってしまったのだ。
恐らく、女が無傷でここまでたどり着いていることから、ある程度の素性を推測し、その上で警戒を強めているのだろう。だが、アルドは目の前の女性とは面識がある。むしろお得意先だ。追い返すわけにはいかない。
「……むぅ。おまえがそう言うなら構わんが……。ただし、店の外でやれよ」
「わかってるって」
ギルゼの相変わらずな態度にアルドは苦笑しながらそう言い残すと、三枚の銀貨をカウンターに置き、エルビス神殿騎士団所属の女性騎士である彼女を連れてラムルから出た。
「お金は無駄遣いするものではありませんよ」
ラムルを出て、とりあえずスラムから出ようとアルドが先を歩きだすと、背後から咎めるような言葉が聞こえてきた。先程の支払額のことを言っているのだろう。
「べつに無駄遣いなんかしてないさ」アルドは歩きながら話す。
確かに、スラムの料理の対価に銀貨が用いられることなど通常はあり得ない。相場としては、何回かの代金をツケにして、まとめて銅貨一枚となる程度だろう。
だが、金には余裕があるし、なによりギルゼの食事は美味い。美味いものに相応の対価を払っただけだ。ギルゼも出会ったばかりのときは訝っていたが、今では何も言わずに受け取ってくれる。
「それよりも、わざわざ朝っぱらからスラムまで訪ねてくるなんてどうしたんだ? どうせ今日はライゼルに呼ばれてるし、神殿に行く予定だったのはネイスも知ってるだろう?」
「ウィルヒナ様があなたに急ぎ話したいことがあると仰られたので、お迎えに参った次第です」相変わらずの無表情でネイスが言った。
「ほぉ。ウィルヒナからの依頼なんて久しいな。ついにライゼルが謀反でも起こしたか?」
少しからかうように言うと、ネイスが再び抑揚のない声で返す。
「いえ、団長に限ってそれはありません。ただ、ルーカス副団長に不穏な動きがあります。」
「は? ルーカスが面倒事を起こすなんてのはいつものことだろう」アルドが何でもないことのように言う。
ルーカスは神殿騎士団の副団長で、酒癖の悪い男だ。その悪癖のせいで、スラムや街の人間と枚挙に暇がないほどに衝突している。アルドは実際に、ルーカスの起こした厄介事に巻き込まれたこともある。まさにラルムでの騒動がそれだ。神殿騎士団の副団長という立場にもかかわらず、自ら教会の敵を作っているともいえる。騎士団から追放されないことが不思議なくらいだ。
「今回は冗談では済まされない事態ということです」ネイスが正面を向いたまま答えた。
つまり、本当にルーカスが謀反を画策しているということだろうか。エルビス教会は為政者の集うような組織ではないので厳密には謀反ではないが、教会本部への反逆の意があるのなら同じようなものだ。
あるいは、単純に酒をかっ食らって貴族様にでも迷惑をかけたのだろうか。
「そりゃまた、どういうことなんだ?」
だが、仮に何か大きな問題を起こす兆しがあろうと、それは教会、あるいは神殿騎士団といった身内で処遇を決めれば済む話だ。アルドの出る幕ではない気がする。
「…………。」
ネイスの感情が隠れたその表情に、なにかの予感めいたものを感じ、詳しく事情をきこうと問いかけに答えはなく、ネイスの口から詳細が語られることはなかった。