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私は内心で織屋くんの登場に悲鳴を上げていた。
この学園に入ってから遠目で見たことはあったけど、こんな間近で見られるとは思わなかった。すっかり頭から抜け落ちていたとはいえ、『恋の花を君と』で一番好きなキャラクターは彼である。
ファンだった芸能人に会った、今の私はまさにそんな状態だ。
容姿端麗、文武両道、そして品行方正と非の打ち所がまず見当たらない恋咲学園の生徒会副会長であり、栗原香奈恵の幼なじみ――織屋蓮司(おりやれんじ)。
艶のある黒髪で、右側だけ少し長めの前髪が琥珀色の目にかかっている。八王子先輩が鋭利な雰囲気を持つイケメンだとすると、織屋くんは反対の柔和な雰囲気を持つイケメンといったところだろう。
ぼんやりと織屋くんを見つめていると、私に気付いた彼が琥珀色の目を柔らかく眇めて微笑んだ。我に返った私は慌てて椅子から立ち上がる。
「新聞部の秋島姫乃です。今日はよろしくお願いします」
すると織屋くんは呟くように私の名前を繰り返し隣に立つ八王子先輩を一瞥した。そして再び私を見ると、
「ああ、なるほど」
と、納得がいったように頷く。
「あの……?」
今のは一体何なのか。
気になった私は首を傾げた。それに答えようと織屋くんは口を開いてくれたが、遮るように八王子先輩が椅子をひく。乱暴に引かれた椅子は、耳障りな音を立てた。
「八王子先輩、床に傷がついちゃいますよ」
そう言うと、八王子先輩は罰が悪そうに顔を背けて椅子に座り、いつもより鋭い声で織屋くんの名前を呼んだ。それに少し驚いた私は、目を瞬かせながら織屋くんに視線を戻した。彼は苦笑して、椅子を引いた。
「秋島さんも座って」
「はい」
「敬語はいいよ、同学年だろう」
小さく頷く。
相手が副会長という事もあって身構えてしまった。クラスも端と端で、しかも初対面である。
それにしても、私の疑問はそのまま流されてしまったようだ。蒸し返すわけにもいかず、大人しく椅子に座った。
「ところで、私は何を取材するんでしょう?」
とりあえず、むっつりと黙り込んでいる八王子先輩に問う。そう、私は何も知らされないままここにいる。
雪梨先輩も八王子先輩も言いそびれたのか言う暇がなかったのか、生徒会の何を取材するのか私は知らないままなのだ。
出かけに雪梨先輩からメモを預かっただけである。それにはマニュアルのような質問が書いてあったため、大方二人の取材だろうと検討はつけているのだけど……。
「会長、話してないんですか?」
「今から話す」
織屋くんが呆れたように呟くと、八王子先輩は何の問題もないかのように答えて背けていた顔を戻した。話を聞こうと、私も背筋を伸ばす。
「とりあえず俺と織屋の取材だ。雪梨から貰ったそれを読み上げろ」
「とりあえずってことは、明日は他の役員の取材ですか?」
生徒会の取材なのだから会長、副会長の取材のあとは当然、書記と会計の取材もあるだろう。そう思ったのだが、八王子先輩は首を振った。
「いや、明日は生徒会の取材だ」
「?」
何が違うの?
首を傾げていると、言葉の足りない八王子先輩をフォローするように織屋くんが言った。
「他の役員の取材もして貰うけど、秋島さんには生徒会の活動も取材して欲しいんだ」
「生徒会の活動?」
「そう。今はちょうど新入生歓迎会が迫ってる時期で、それを通して生徒会がどんな活動をしてるのか新聞部が取り上げよう――っていうのが雪梨先輩が持ち掛けた話」
なるほど。
でも待って、それってつまり私が――
「生徒会に通うってこと……?」
「ああ、明日から新入生歓迎会が終わるまでな」
そう言って楽しい事でもあったかのように、八王子先輩が笑った。さっきまでむっつりと黙り込んでいた機嫌は、すっかりなおったみたいだ。反対に私の気分は下降していく。
だって、一種の生徒の憧れである生徒会に通うってことは、ますます八王子先輩のファンとか八王子先輩のファンとか八王子先輩のファンとか、織屋くんのファンにまで睨まれるってことだ。ますます熱ーい視線が突き刺さるだろう。
でも今は新聞部という名目があるから、差し引きゼロじゃない?うん、今はそういう事にしておきたい。
膝の上に置いたままの手を軽く握って、自分を納得させた。
「新歓の内容はこっちが発表するまで漏らすなよ。守秘義務だ」
八王子先輩の言葉に頷く。
「じゃあ、帰りが遅くならないうちに始めようか」
私はメモ帳を開いてペンを手に取った。
***
「――ありがとうございました」
最後の質問を終えて書き終えると、私は机の上にペンを置いた。
こ、こんな感じで良かったのかな?
自分なりに走り書きしたメモを見ながら、ほっと息を吐く。緊張から解放されてどっと疲れた気分だった。思っていた以上に緊張していた。
途中で質問を噛んでしまうことも多々あった。
しかもそれを八王子先輩が意地悪くつついてくるものだから中々先に進まず、その度に織屋くんが取りなすの繰り返しで……帰りが遅くならないうちに、という織屋くんの気遣いは日の暮れた空を見れば一目瞭然。日も長くなったからまだ空は明るさを残しているけど。
「他の役員の取材は互いの暇を見て、好きな時にやってくれたらいい。って言っても役員の取材は早めに記事にするかもしれないから……」
「詳しいことは雪梨先輩に聞いてみる」
気が回る織屋くんにそう言うと「それがいいな」と織屋くんは笑いながら頷いた。
「じゃあ私、部室によって帰――」
「おい」
帰りは新聞部に寄って帰ろうと鞄を手に取ったところで、窓の鍵を確認していた八王子先輩から声が飛んできた。振り向くと、外を見ろというように窓の外を指している。
八王子先輩に近づいて窓の外を見ると、自転車に跨がった雪梨先輩が、蜂蜜色の髪を風に靡かせながら学園の門を出て行くところだった。
雪梨先輩、自転車通学だったんだ。帰り道がちょっと心配になるのは、私が見る雪梨先輩がいつも寝ているか眠そうかのどちらかだからだろう。
「雪梨が帰ってんなら、部室は閉まってるな」
鍵を閉めて、八王子先輩が言った。それなら、後でメールを送ればいいかとマナーモードにしていた携帯をポケットから取り出すと、メールが届いていた。
送り主は雪梨先輩だ。
今日は用があることを伝え忘れていたらしく、ギリギリまで私を待っていたのだが時間の関係もあって帰らざるをえなかった、と書かれている。取材云々については後でメールを送って欲しいとのことだ。とりあえず、今日の取材が終わった事を伝えるメールを打ち送信しておく。
「雪梨先輩には後でメールか電話で確認します」
「そうしとけ。生徒会にはお前の話はしてあるが、準備期間も合わせると少なくとも半月は生徒会に関わることになるな。……念の為、連絡先を交換しておくか」
「そうですね」
新入生歓迎会は確か5月の中旬だったから、私の初の部活動は中々の長期戦という事だ。
八王子先輩と織屋くんのアドレスを交換すると、生徒会にまだ用があるという二人とそこで別れた。
下駄箱に向かって歩きながら、私は手に持ったままの携帯を見下ろした。
――八王子先輩と織屋くんのアドレスをゲットしてしまった。
今後を思えば必要な事とはいえ、出来るだけ避けてきた事だけにいつもよりも携帯がずっしりと重い。たかがアドレス、されどアドレス。
何だろう。違うよね。間違えてある筈のないフラグを建ててたりしないよね?
うん、違う。
これは私が生徒会に関わることにより、香奈恵と八王子先輩の橋渡しがスムーズに進み、織屋くんとの相談に乗りやすいという私の助言キャラクターポジションを強化する展開。
そうに違いない。
靴を履いて校舎を後にする。学園の門が見えてきた。
今日は帰ったら雪梨先輩に連絡を入れて、さっきのメモを読み返してみよう。
「秋島さん!」
「織屋くん……?」
しかし、淀みなく進んでいた足はついさっきまで聞いていた声に止められた。
振り返ると、私に向かって走ってくる織屋くんの姿があった。私は完全に足を止めて、織屋くんを待った。
「どうしたの?」
僅かに息を弾ませた織屋くんに、問いかける。
「良かった、渡しておくものがあって」
そう言って差し出されたのは、一枚のプリントだった。
「これは?」
「生徒会の予定表。明日渡しても良かったんだけど、ちょうど秋島さんの姿が見えたから……急いでたなら、引き止めてごめん」
「ううん、もう真っ直ぐ家に帰るつもりだし。わざわざありがとう、織屋くん」
プリントを受け取って鞄にしまう。
しかし織屋くんは一体どこから走ってきたんだろう。下駄箱からならそう距離はないから、息が弾むほど疾走する必要はなさそうだけど……。
「会長に渡しとけって言われてさ。オレももう帰るところだったから……秋島さんも歩きなんだ。電車?」
「ううん、家まで歩いて10分くらい。孤の道公園の近くなんだけど」
「ああ、知ってる。オレもそこ通り道なんだ」
「そうなんだ」
「途中まで一緒に帰ろうか」
「――え!?」
すいすいと進む会話にすんなりと頷きかけて、私は耳を疑った。
え、いま何て仰ったの織屋くんは?
途中まで、一緒に、帰る……?
私が、織屋くんと?
「ご――」
それは避けたい。
用があるとか何とかで上手く断ろう、と口を開きかけた私の頭に、さっき交わした織屋くんとの会話が過ぎった。
――真っ直ぐ帰るつもりだし
「……ご一緒します」
断ることは出来なかった。
さっきああ言った手前、思い出したように断るのは、良くないだろう。
頑なに拒否するのも変に意識しすぎててあれだし、それにこれから顔を合わせる事になるのだ。気まずくなるのは、もっと避けたい。
ただ、私の返事を聞いて、安堵するように織屋くんの顔が綻んだのが不思議だった。
こうして、自宅までの10分弱の時間を織屋くんと過ごすことになった訳だが、織屋くんは会話の運びが上手で、今日が初対面だという事を思わず忘れてしまうくらいだった。
会話は今日の事もあって、生徒会のことや私の部活の事が多かった。
生徒会の話を聞いていて思ったのは、八王子先輩ってちゃんと生徒会の仕事やってるんだな、って事と織屋くんの口から思わず漏れた八王子先輩への愚痴のような言葉に、同意出来た事。やっぱり、八王子先輩って意地が悪いみたいだ。素直じゃないともひねくれてるとも言える。
話しているうちに、孤の道公園に見えてきた。
公園の手前の道路はT路地になっており、私は曲がり角を曲がらなければならない。織屋くんはこのまま真っ直ぐだという。
聞いてみれば織屋くんの家と私の家はそう遠くなかった。今まで知らないでいたのも少し不思議な気がしたが、区域の関係でで小学校は別だった。
公園の入り口で織屋くんが立ち止まる。
「懐かしいな」
「私も。小学生の頃は毎日友達と遊びに来てたなぁ」
今は素通りするだけとなった公園だ。
孤の道公園は遊具も豊富で敷地も広く、子供の遊び場だけに限らず、犬の散歩や朝のジョギング、老人の憩いの場としても馴染まれている。
いまとなっては随分と疎遠となってしまった同級生と、親が迎えにくるまで遊んでたっけ。
「……ああ。オレもよく、遊んだよ」
「友達と?」
それ以外に何があるのかというような質問を、私は思わず口にしていた。織屋くんの噛み締めるような声が、何となく気になったからだ。
「一番は、幼なじみとかな」
香奈恵のことだ。
「へぇ、幼なじみがいるんだね」
知っていたが、私は素知らぬ顔をして言った。
ゲームでの織屋くんの香奈恵への態度は、さすが幼なじみって感じのものだった。逆もまた然り。
いま思うと、自分と彼との関係に似た部分があったから、織屋くん関係のイベントが殊更好きだったのかもしれない。
「ああ、中学に上がる前に親の都合で引っ越して……最近、こっちに戻ってきたみたいだ」
間違いなく香奈恵の事だとわかっていたけれど、話題を振るには足りない。この間転校してきた、くらいの事でも聞ければ私としても聞きやすい。
それに、織屋くんが香奈恵をどう思っているのかわかるかもしれない。今後の役にも立つはず、と私は期待を胸に問いかけた。
「もしかして、高校も同じだったりする?」
だけど返ってきたのは、
「さぁ、どうだったかな」
そんな答えだった。