第5話 はしる
歩くと走るの違いは、両足が地面から離れる瞬間があるか否か、らしいから正確ではないが、トテトテと走れるようになった。
カーペットに書かれた動物や魔物、壁に張られた家紋だって、毎日見てりゃ嫌でも覚えるし、覚えてしまえば退屈が来る。
部屋に閉じこもるのはもう飽きた、思いっきり走り回りたい。
「あーっ、あーっ」
言葉にならない声を上げて入り口のドアをたたくと、こうなるのを待っていたのか、すんなり開けて貰えた。
もっと早く言えばよかったと後悔するより、ラッキーだと思った方がお得だ。
勇んで隣の部屋に飛び込んだが、おもわず立ち止まってしまった。
執務用の机と椅子、応接セットも定番だが、机は側面しか見えないし、応接テーブルも目の高さだ。
目線が違うと、まったく違う世界に見えて不思議な感覚だが、キョロキョロしていても仕方がない、ともかく走るぜ。
壁に沿ってトテトテトテ、床の木も硬くていい感じ。
壁と家具の間が広いぞ、トテトテトテ。部屋中央の家具がまるで島のようだ。
白っぽい壁に見えるのは補強用の横桟だな、トテトテトテ。壁の下回りと頭付近の二か所、共に精密な彫刻が施されている。
応接セットをぐるりと回りながら執務机の方を見やると、壁にサーベルタイガーの絵が見えるトテトテトテ。かっこいい。
本棚を横目に机の後ろを通れば、これで一周。走りやすくていい部屋だ、気に入った。
今は、応接テーブルの下、飾り棚に座って休憩中。
しかし、これが俺の部屋だと思うと嬉しくなる。
若いころはごちゃごちゃと物が置いてある部屋が良かったが、こういったシンプルルな部屋のほうが落ち着く。
そして、お気に入りの何かを一つだけ置くんだ。うん、いい感じだ。
おや? 何気なく握っていたテーブルの足がやけに細い。
よく見ると縞模様。まさか?
指ではじくと、コンコンというよりキンキンといった金属音に近い。
間違いない『トラフ』だ。
樫の木などの、硬い木の最も硬い中心部分。これを削ると縞模様が浮かび上がる。
カンナの刃がすぐにナマクラになるほど硬く、加工が難しい。
これほど細く丸い形にするのは至難の技だ。
家具の職人も一流とみた。
「ルーラァさま? あれ? どこに行かれたのでしょう? 困りましたね。ルーラァ様?」
アンが探している。
わざとなのは分かっているが、なぜか顔がほころぶ。
「ばーっ」
「ああ、ルーラァ様だ」
笑顔で抱き上げてくる。うーん、おっぱい最高。
おっと、今日はそれどころじゃない。外へ、廊下に出るんだ。
「あーっ、あーっ」
身を乗り出すようにしながら、扉に手を向ける。
「廊下も行っちゃいます?」
おいおい。日本語は、いや、スースキ語は正しく使え。
言っておくが、その辺は気になちゃったり、しちゃったりするからな。
うーん。人の事は言えんか。
おっぱいに未練は残るが下してもらい、扉も開けてもらった。
何じゃこれは! すげーな。
廊下はピカピカの大理石。廊下奥の窓から入る光が床に反射して眩しいくらいだ。
思わず振り返ると、これまたはるか彼方の窓まで輝く道が伸びている。
幻想的とでもいうべきか、採光と共に、これは計算された設計とみた。
そうだ、継ぎ目はどうなっている?
鏡の様に反射しているから目立つはずだが……トテトテトテ、無い。
トテトテトテ、無い。 無い、無い、無い。
まさかの1枚板かよ。長さは?
目線が低すぎて距離感がつかめん。
部屋数が、ひい、ふう、みい、……十の三間として、五十メートル? 冗談だろ?
厚みにもよるが十トンは軽く越える。百人でも持てんし、下手に持つと折れる。 言うまでも無いがここは二階だ。
どうやって運び上げたのかは知らんが、いい仕事してるじゃねえか、たまらんな。
こんなのを見せられたひにゃ、テンションだって最高潮だぜ。
「あーーーー」
気合一発、ダッシュで走り出す。
トテ、トテ、トテ、ドターン。
「びえーん」
「はいはい、ルーラァちゃんはいい子ですね」
おっぱいが、いや、アンが慰めてくれる。
痛いのはごめんだが、感動が体を突き動かし、走らずにはおれないぜ。
なんとか話せるようにはなったのだが……。
「アンは何がちゅき?」
「アンナはルーラァ様が好きですよ」
「ぼくはアンがちゅき」
おっぱいギューはいいんだが、これは何とも恥かしい。
舌を噛みながらスーとかズーとか、アールとかもあってややこしく、発声練習だと思ってはいるんだが……。
「おとーたまは?」
「ブルーノ様はお仕事ですよ」
「ルルーノはおちゅごて?」
「おとーさまと言いましょうね」
「おとーたま?」
「はい、おとーさまはお仕事です」
「おとーたまは、おちゅごて?」
「はい、良く出来ました」
またまたギューだが、このままではいかん。
精神衛生上、まことによくない。心が病んでしまう。
「お絵かき」
「はい?」
「お絵かきする」
話題を変える為に、じたばたと駄々をこねてみた。
絵を書くのは教育上もいい事なんだぞ……たぶん。
「はい、ルーラァ様」
出てきたのは汚い紙と羽ペン。
あー、紙が高いんだ。みょうに納得した。
とりあえず、バイオリンと、ピアノを描いてみる。
リラは指で弾くから、弦で弾くバイオリンだ。
そう言えば、ヨーロッパのバイオリン職人が使う鋸は日本の職人が作った物だとか。
日本の職人もすごいが、ここの職人ならいい物が出来るはずだ。
ピアノは婆さんが得意だったし、ぜひ作ってほしい。
黒い鍵盤は三つと二つがセットだったはず。
鍵盤の数は……、両手を広げたより広い。
何に使うのかは知らんが、足で踏むペダルもあった。
鍵盤とつながった棒で、弦をたたく。こんなもんかい。
絵を指差しながらこんな話をしていたら、またしても馬鹿夫婦の乱入だ。
「ルーラァちゃんは天才なんですから、ねー」
「そうだな、ルーラァは天才だ」
嵐のようにやって来て、苦しくなるほど抱きしめて、チューして、紙だけ持ってあわただしく帰っていく。
「はー」
まったく、今書いたばかりだというのにため息しか出ん。
そんな俺にアンは優しく話しかけた。
「おとーさまは、近衛城兵という騎士様なんですよ」
「このえ?」
「はい、近衛城兵です」
おいおい、城兵っていうのは悪者に真っ先に殺されて、名前も出てこない雑魚じゃなかったか? なんとも残念な職業に就いているもんだ。
「近衛兵は強いですよ」
「ふーん」
「近衛城兵はお王様を守るからもっと強いですよ」
「おとーたまは?」
「はい、とってもお強いです、ルーラァ様も近衛城兵のなりましょうね」
「うん、このうじょふーになる」
「はい、ルーラァ様は偉いですね」
またまたギュー、いっつもこれだ。まあ、嬉しいからいいんだが。
アンはほめてばかりだから今一つ信憑性に欠けるが、王様を守るから強いというのは納得できる話ではある。
問題なのは、そりゃ近衛城兵が悪いとは言わんが、人を守ってどうするって話だ。
しかも、守るのはおそらくあのピエロ王子だ。なんだかなー。