第1話 プロローグ
プロローグ
初夏の朝日を浴びながら、ランドセルが駆け抜けてゆく。
「おはようございまーす」
「おはよう」
無邪気な子供達と挨拶を交わすと、こっちまで元気になってくる。
「おはよう、鬼瓦」
「おう、おはよう」
街を歩けば職務質問されるこの顔だが、最初は驚いた様子の子供達もすぐになれた。
「おっす、鬼瓦」
「おはようだ」
「いーだ」
悪ガキたちも将来が楽しみだし、通学路で旗を持つ『緑のおじさん』も悪くない。そう思える瞬間だ。
五十半ばで早々に現役を引退したが、もう五年。
体力は衰えているものの、その分経験がある。いつ死んでもいいと言う開き直りも強みだろう。
還暦を迎えればこいつらと同じ一年生。少しは見習って頑張らないとな。
とりあえずは車を飛ばして日本海。海釣りでも楽しみながら考えるとするか。
「すみません。あの、校長先生がお呼びなのですけど」
「そうか」
「ここは私が」
「おう、ありがとな」
子供達が途切れて物思いにふけっていると、PTAの姉ちゃん、いや、奥様がやってきた。
この顔にちょっと引き気味の若奥様、可愛いもんだ。
子供の頃は大きく感じた学校の玄関に入ると、昔は少なかった女先生がいた。
「おはようございます」
「おはようさん」
女教師か。うん、良い響きだ。
いい男を見つけろよ。間違っても、俺みたいなスケベ男に捕まるんじゃねえぞ。
校長室のドアをノックする。
どうぞという前にドアを開けるのは幼馴染の特権だろう。
「なんか用か?」
「まあ、座ってくれ」
見かけは立派だが安物の応接セット。
寄付してやろうかと言ったら、その金で体育館のガラス窓を修繕したいと言われた。
校長ともなると立派な教育者だ。
「頼みがあるんだが」
「学級委員長からの頼みとは珍しいな」
小学校時代から優等生だった学級委員長。唯一、番長と呼ばれた俺の拳を恐れなかった。
堂々と文句を言いやがって、無茶苦茶腹が立つのだが、何故かこいつだけは殴れなかった。
「講演を頼みたい」
「講演って、子供達にか? 勉強嫌いな俺だ、勉強しろとは口が裂けても言えんぞ」
まさかとは思うが、頭が良過ぎて馬鹿になっちまったんじゃねえだろうな。
「地元の名士に聞くというやつだ。体験談でいい」
「それこそ無茶言うなよ。俺がどれだけ悪さをしてきたか、お前だって知っているだろうに。第一、俺が名士ってガラか?」
「土建屋を立ち上げ、わずか一代で準ゼネコンと呼ばれる規模にまでしたんだ、名士と言わずになんというよ」
目を真ん丸にして驚いた顔だが、嘘つけ―って感じだ。
「そんなもん、五年も前に逃げ出しているだろうが」
「お前は、社員は仲間であり、家族だと言っていた。その社員を、不況とはいえ大量にリストラしたんだ。お前が何も感じないはずがない」
「ああ言えばこう言う、相変わらず嫌味な野郎だ。だいたい、人の頭ん中を覗いてんじゃねえよ。だがな、俺の体験談はどう考えてもPTAや教育委員会から文句が出る。これだけは確かだぞ」
「もうじき俺の誕生日でな」
「だからなんだ?」
「定年だよ」
「―――――――悪い奴だな」
ニヤリと笑うその顔はどう見ても校長先生の顔じゃなかった。
「俺はな、番長。昔っからお前が羨ましかった」
「はあ? 優等生の委員長が、先生に怒られてばかりの俺をか?」
「そうだ。俺は先生に怒られなかったんじゃない。 怒られるような事が出来なかったんだ」
「よく分からんが、悪さするよりましだろ?」
「つまり、自分で限界を作っていたんだ、な」
さっぱり分からん。
「今の子供達の夢って、何だと思う?」
「俺達の頃なら、男はプロ野球、女はスチワーデスか保母さん、だったかな」
「そうだな。今の子は公務員が多いんだ」
「何だ? そりゃ」
「そう思うだろ? 現実的と言えば聞こえはいいが、子供達には可能性がある。それを知ってほしくてな」
「俺の話にそんな効果があるとは思えんが」
「刺激になればいい。それだけだ」
「どうなっても知らんぞ」
「定年だと言ったろ。今しか出来んことだ」
「悪い校長先生だ」
「褒め言葉と受け取っておこう」
「褒めてねえよ」
しかし、まさか小学校で講演するとはな。
六十歳ともなると早々驚く事も無いと思っていたが、どうしてどうして、人生ってやつは面白い。
釣りに行くのは明日に延期だな。
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勉強なんざしたこたあねえ、力がありゃ稼げる稼業、それが土建屋よ。
家の基礎から区画整備、道路やダムを造ったりするのが仕事だ。
そうはいっても、世間様にゃ大手のゼネコンから、個人に毛の生えたような物まであってな、うちのような中堅になるまでにはそりゃあ色々あったもんよ。
特に気にいらねえのは家の基礎工事でな、こいつは家を建てる時の一部でしかねえ。
つまり下請けってやつで、中には気に入らねえ建築屋もいるわけよ。
頭にきて喧嘩になってな、そんで建築もやる事にしたんだ。
とりあえず知り合いの大工に来てもらって、そのつてで人集めよ。
あれだほら、ヘッド何とか、俺が先駆けってやつかもな。
俺が建築の素人じゃ駄目だってんで、二級建築士の資格も取った。
俺もな、やる時にゃやるんだよ。
まあ、めったにやる気にならないがな、がはははは。
まあ、そのおかげで建築の方は順調だったんだがな、土建の方は縄張りみたいなもんがあるうえに、やーさんまで絡んでくる。
だが、ここで引いたんじゃオマンマの食い上げよ。
相手が誰だろうと、とことん行くのが男ってもんだ。
組ってのは事務所があるからいけねえ、なら、吹き飛ばしちまえばいいって話よ。
まあ、良い子は真似するなよ。
そうそう、バブルんときの慰安旅行はベガスよ。
ベガス、知ってっか?
ラスベガス、とばくの町だ。
億の金がぶっ飛んで、半年ほどは突貫工事を受けたりして大変だったがな、今となりゃいい思い出よ。
会社がでかくなると、喧嘩の仕方も変わってくる。
いいか、喧嘩の極意ってやつを教えてやるからよく聞け。
『負けて勝つ』
これだ。
相手は政治家や財界人、つまりはお偉いさんだから、はなっから降参です、と頭を下げる。
何を言われても、ごむりごもっともです、とお世辞も使う。
かっこ悪いし、みっともねえ。
だがな、仕事はきっちりもらって、がっぽりと儲けるんだ。
勝つのはここよ。
ここだけ勝てば、それ以外は全部負けたっていい。
これが喧嘩の極意ってやつだ。よく覚えておけ。
おめえ等もよ、何でもかんでも勝とうと思うな。
これだけは勝ちたい、そういえるやつを作れば、それ以外は負けても恥にはならん。
おめえ等の人生はこれからだ。
誰にも負けないような物を作って、まあ頑張れって話だな。
後は、まだしばらくは通学路で緑の旗を持ってるからよ、なんか有ったら言ってこいや。
そんだけだ。
話をした後で言うのもなんだが、こんな話を小学生にしてもいいんかね?
先生方の顔は引きつっているみたいなんだが……。
まあ、子供達は喜んでいるようだし、委員長も笑っとるからいいか。
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翌朝、子供達を見送った後で車を飛ばした。
東名から北陸道、金津インターで降りて西進。
福井県の東尋坊は、日本一の自殺の名所でもある。
ここには、死ぬのを思いとどませる公衆電話があり、度数の残ったテレカが置かれている。
テレカ等時代遅れと言うなかれ、これでかなりの人が自殺を思いとどまったと言うのだから馬鹿には出来ない。
駐車場に車を止め、土産物屋の一角でイカの姿焼きで腹ごしらえをする。
夕暮れ時のタマズメを狙い、暗くなれば帰る予定だったが、一日ずらしたことで明日学校は休みだ。
民宿に泊まって船に乗り、メートル級の真鯛を狙う。無論、その準備も怠りない。
公衆電話の横を通って崖に向かった。
「しまったー!」
そう思った時には空中にいた。
海面まで三十メートルはあろうかという崖の上、とっさにつかんだ枝が細すぎた。
紺碧の海と透き通った青い空、境に飛んでいるのは羽賀・重三郎の刺繍、作ったばかりの釣り竿袋だ。
時間がゆっくり流れていくのは助からない証だろう。
六十歳にして死を迎えるか。
若い時は喧嘩に明け暮れ、飲む、打つ、買うの、三拍子。ジジイになって、ガキどもに説教垂れたと思ったら、今度は釣竿と空の散歩ときたか。
まったく、これだから人生は面白い。
のどか婆さん世話になったな、あの世とやらで待ってるぜ。