メリー・マイ・ラブ
気がついたら私は闇の中に居た。
周囲を確かめようと手を伸ばしてもすぐに指先が壁にぶつかる。壁とはいっても「触れた」感があるわけではなく「これ以上先へ進めないんだ」という意識に包まれるだけ。
どういうこと?
心を閉じ込められている感じ。
なんとか動こうとしてみるけれど自分の体を動かしている感覚がない。不安になって自分を抱きしめようとして気付いた。私自身に触れないことに。
実体がないの? 「私」という気持ちだけがこの場所に居るみたい。なにこれ嫌な……夢?
今度は起きてみようと頑張ってみる。でも無駄だった。空回りし続けるの。
このまま起きられなかったら、私どうなっちゃうの?
私の中にぽつんと生まれた不安はぐいぐいと大きく広がりはじめる。それにつれて息苦しさも増え、じわじわと私を圧し潰してゆく。
この悪夢から抜け出そうとあがき続ける私の前に、小さな光の点が灯った。
光。これきっと出口よね。
相変わらず体を動かす実感は持てないままだったけれど、私はその光に向かって一生懸命近づこうとした。
嬉しいことに光はわずかながらも大きくなってゆく。
そしてその光にだいぶ近づけたと思ったときだったわ。いままで真っ白だった光の中に映像が浮かんだの。TVのスイッチを入れたみたいに。
鮮明なシーン。
……彼だ! 彼が見える!
私の愛しい彼。
仕事中なのかしら。スーツ姿の彼はやっぱりカッコイイ。
彼の家は、彼の職場と私の家との中間にある。私の家に来るときは大抵いったん帰宅して楽ちんなジャージとかジーンズとかとにかくゆるい格好に着替えてからが多いの。スーツ姿見るのって一年に数回よ。
彼は傍らの書類をまとめて机の引き出しにしまいこむ。PCの電源を落として席を立ち、大きく伸びをする。おつかれさま。
周囲には彼以外の人は居ない。そのまま職場を出て駅に向かって歩きはじめる彼。道沿いの店々はシャッターを降ろしているところも少なくない。けっこう夜遅くなのね。もうすっかり暗くなって……暗闇。自分も今、暗闇の中に居ることを思い出す。
彼を見る事が出来てちょっとホッとしちゃっていたけれど、私の環境ってばあまり変わっていないのよね。得体の知れない闇の檻に閉じ込められたまま。
私は思わず彼の名前を呼んだ。
気付いてもらえたら、ここから出られるような気がしたから。
何度か彼の名前を呼んでいたら、彼はスーツのポケットから携帯を取り出した。
一瞬だけ表情をくもらせたけれど、彼は電話に出た。
「はい、もしもし?」
え?
これ、彼の声よね?
彼の声が近くに聞こえる。ダイレクトに聞こえるの。これ、つながるの?
やった! これでこのもやもやした闇の中から出られるかも!
そう、思っていた、のに。
私が彼を呼ぶ声よりも大きな声が響いた。
「私、メリーさん。いま、あなたの職場」
私の声じゃない。私こんなこと言ってないし。どういうこと?
彼は携帯を耳から離し、またポケットへと放り込む。
なんで?
私の声、届いたから出たんだよね?
チクリ
不意に足先に小さな痛みを覚える。
さっきまで全身の感覚がなかった状態だったから、その痛みはどちらかというと嬉しい痛みだった。五感を取り戻した気分で。
それにこのキモチワルイ夢から覚めるきっかけが欲しかった私には、寝ながらうなされてもがいて壁とかに足をぶつけたんだと思ったの。
……本当にその通りだったらどんなによかったことか。
喜びなんて一瞬で吹き飛んだ。
暗闇の中に私のつま先が見えたの。
でも、両足のつま先部分だけ。ううん、もう一つ。その両足のつま先を、古ぼけた西洋人形が小さな両手でぎゅっとおさえていた。
え?
二度見したけどやっぱり西洋風の人形。顔は陶器じゃなくセルロイドかな、すごく汚れていて、着ているドレスも色がわからないくらいボロボロの泥んこ。
蹴飛ばしてでも振り払おうとつま先に力を入れるけれど、金縛りしているみたいに体が動かない。
それだけじゃない。無表情の人形はぎこちない動きで私の足を登り始めたの。
「助けて!」
小さな冷たい手が、私のくるぶしをつかむ。そのまま足首、そしてスネへと。
彼の名前をまた叫ぶ。助けて! この悪夢から救い出して!
丸い光の中の彼はもう電車に乗っていた。そしてまたスーツのポケットから携帯を取り出す……なんか嫌そうな顔している。
どうして?
「ねぇ、助けてよ!」
その求めに応じるかのように彼は声を出す
「わ!」
今度こそ通じた!
「わたし、メリーさん。いま、あなたの職場の最寄り駅」
なんで……私のじゃない声が響く。
「通話ボタン押してないのに勝手に……」
彼のそんな声が聞こえたあと、彼が携帯の電源を切るのが見えた。そして携帯はカバンの中に。
どうして?
私の声が聞こえないの?
どうしてこの……痛っ。
闇の中に浮かんでいる私のカラダは範囲を広げ、いつのまにか膝まで。人形はさらにふとももにまで手をゆっくりと伸ばしてきている。
人形の手は小さいのに、きっついベルトで締め上げられているみたいに強い痛みと圧迫感。さっきより全然痛い。
なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないの?
「助けて……誰か助けてよ」
泣きながら叫ぶ私の声が届いたのか、また光の中の彼が反応してくれる。
彼はもう自分の家の玄関にまで着いていた。駅から走ってきたのか肩で息をしている。
「わたし、メリーさん。いま、駅を降りたところ」
彼は慌てて家の中に入りカバンを床に投げ捨てた。
「ねぇ、私よ! 私はメリーさんじゃない!」
私も負けずに叫ぶ。彼の気付くタイミング。あれって、私の声が全く届いていないわけじゃないわよね。
きっと届く……そう信じながら叫び続ける。彼の名前を。
彼はカバンの中を確認し、携帯を取り出した。そして電源を入れて……あ、私にかけてくれている!
「わたし、メリーさん。いま、あなたの家の近く」
私の声のほうは届かない。
痛みが腰、そして脇腹にまで登ってくる。もう、光の中の彼しか見たくなかった。
「お願い! 私に気付いて! こっち! こっちのほうよ!」
何度も何度も何度も彼の名前を呼ぶ。それしかできなかった。
「わたし、メリーさん。いま、あなたの家の玄関の前」
光の中の彼の握り締める携帯からまたあの声が響いている。彼は台所へ行き包丁を握り締める。暗闇の中の私は両腕にまで締め付けられるような痛みが広がっている。
彼は携帯をテーブルの上に置き、壁に背中をつけて包丁を構えている。私はそこでようやく気付けたの。彼を追い詰めているのは他ならぬ私なのかもしれないって。
だから這い上がってくる人形はぐっと我慢して、彼のことを呼ぶのを中断した。
ちょっとパニックしてて、状況がのみこめていなかったみたい。もしこの「メリーさん」が彼の後ろまで行ったらどうなってしまうの?
ミシミシと全身の痛みはさらに登ってくる。もう肩まできている。
でも声を出してしまうと「メリーさん」からの電話が彼の携帯にかかってしまいそうで、気が遠くなりそうになる中でそれでも痛みに耐えていた。
……なのに。
必死に耐えていたのに。
人形の指が私の首に手をかけたとき、思わず声が出ちゃった……だって私……首弱いんだもん。
「わたし、メリーさん……」
光の中の彼に何かが起きてしまうのを見たくなくて、私は目を閉じた。
私の目が開く。
がくがくと体が揺れている。え? 揺らされている?
「おい! 起きろ!」
彼が目の前に居た。彼は私の肩をつかみ激しく揺さぶっていた。
その彼と目が合う。
「良かった……」
どういうこと?
無理やり私を起こした彼の肩越しに見える景色……ここ、私の部屋……だよね。
んー。なんだろ。さっきまですごく疲れる悪夢を見ていた気がする。よくは思い出せないんだけれど。
夢?
あ、夢っていえば。
思い出した。
たまたま見つけた「メリー」って名前のアプリを試してみたのよね。
このアプリを起動して好きな人の電話番号をセットしたら、枕元に置いて起動したまま眠るとその人の夢を見られる、なーんてアプリ。深層心理に働きかけるアルファー派がうんぬんってなんだか専門的っぽい説明だったわ。
え。じゃあ、この彼ってばアプリで見ている夢?
うーん。よく分からない。すごく混乱していたけれど、彼がそばにいてくれることがじんわり嬉しくてしがみついた。
「痛っ」
じんじんと、肌が痛い。体中をすりむいているみたいな。
彼から離れてふと見た自分の手に……指先から腕全体びっしりと赤い小さな手形がついていた。
「いやああああああぁぁぁぁぁぁ!」
驚いた顔の彼……スーツ姿。
一瞬にして全てを思い出した。
さっきまで私を捕らえていた悪夢を。っていうかどうして忘れられるのよ、あんな酷い夢を!
どうして……どうして……あれ……なんだろう。
妙に頭がぼんやりする。
耳鳴り。
……眠い……おかしいな。
って、やばいやばいやばい。寝ちゃダメ私!
痛みがキンキンと鋭くなってゆく。
…………おかしいな……眠気が……我慢でき……な……水の中を落ちてゆくような感覚。
その私のすぐ近くに、まとわりつくように一つの光の泡がちらついている。
泡の中には彼と、そして眠っている私が見える。
え……まだ終わってないっていうの?
そしてまた金縛り。しかもあの人形が私の顔のすぐ近くを登ろうとしているの!
ちょ、ちょっと!
人形の小さな手が触れている首には鋭い痛み。痛みのせいでなんとか声を出さずにいられるのかも……って、ダメダメダメ!
耳もダメ!
小さな悲鳴が出ちゃった。すぐ近くにあの声が響く。
「わたし、メリーさ」
慌てて目を閉じる。さっき、確かこうして……
悪夢も、痛みも終わらなかった。でも、メリーさんの声は途切れたまま。
やっぱり。
私が彼を見つめなければ、メリーさんは彼を探せないんだ!
いまのうちにまた彼が私を起こしてくれれば……痛っ。
私はちょっと甘かったみたい。
メリーさんは私の瞼をつかみ、無理矢理目を開かせようとしている。
ダメ!
早く私を起こして!
……?
私の目を開こうとしていた小さな手の感触が、急に消えた。
私によじ登っていた人形自体も、気配も全部消えたの。
終わったの?
なんて聞いても誰も答えてくれないわよね。
罠かしら。
それとも私、もしかして……もう……
自分のおかれている状況を知ってしまうのが怖くて……なかなか目を開けられないまま。
すると遠くに泣き声が聞こえた。
視界を閉ざしているせいで音に敏感なのかも。
すすり泣く声は女の子っぽい。しかも幼い。
声はだんだん近づいてくる。
うん。近づいてくる……水の流れる音と一緒に……
コツン、と、私の膝に何かがぶつかった。
目を閉じたままで自分の体が動くのを確認して、そのぶつかったものに触れたとき、思わず放り投げそうになとゃった。
だってこれ……人形だよ。しかも手触りはドレス……って洋風の……
「ごめんなさい」
え。なになになに?
人形が、謝った……え、しゃべってる?
私は思わず目を開けてしまった。
本当に人形。あの、汚れた人形。
人形は私の目を見たあと、目を閉じた。まるで人間みたいに。そして同時に、暗闇の中に光が浮かんだ。
咄嗟に目を閉じる。また彼が映っていたらって思ったから。
そしたらまた声がした。
「ごめんなさい」
さっきと同じ声。
私は……ちょっと迷ったけれど目を開けた。
光の中には、彼ではなく女の子が映っていた。
女の子は、この人形を抱いている……泥なんかでは汚れてなくて、ただなんか年季は入った感じ。あ、車が来た。クラクションを鳴らす車。
女の子は橋の上に居たのね。びっくりして車から身をよじらせて……あ、人形が……
人形は橋の上から一人だけ、川へと落ちていった。女の子は泣きながら追いかけようとして、近くに居た女の人……お母さんかな……に押さえられて。
「メリー!」
女の子はそう叫んだ。人形も手をのばして……そして流されていった。」
私はここよって人形も必死に叫んだ……けれど戻れなかった。
光の中の女の子は、お家へと帰ってゆく。光の中で、女の子が小さく遠くなってゆく。
人形が必死に手を伸ばす度に、光の中の女の子の距離がちょっとづつ縮まってゆく。人形は決してあきらめなかった。泥にまみれ砂埃にまみれ雨や雪に邪魔をされながら少しづつ女の子へ近づいていった。
私はいつの間にか人形を応援していた。
とうとう人形は女の子の家に着いた。扉を開けて、階段を登り、子ども部屋の扉を開けて、後ろ向きの女の子を見つけたの。
人形は、女の子に飛びつこうとして……見てしまったの。女の子が抱きしめているものを。
それは、新しい人形だった。その人形は別の名前で呼ばれていた。
人形のメリーの居場所はなくなってしまっていた。
ずっと探していたのに。ずっとずっと追いかけたのに。人形は悲しくなって、泣いた。私もつられて泣いた。人形の涙はやがて川を作り、その川に流されて……
私は手をのばした。流されそうなメリーの手をつかみ、たぐりよせて、そして抱きしめた。
私にもあったの。すごくすごく大切にしていたのに、ある日居なくなってしまったうさぎのぬいぐるみ。
捨てたわけじゃないの。嫌いになったわけじゃないの。でもどうしても取り戻せなくて。
私は、うさぎのぴょん太のことを思い出しながら、メリーに謝った。
「ごめんね。ごめんね。ごめんね」
何度も何度も謝った。
メリーは嬉しそうな顔をした気がした。
涙の川はいつの間にかもっともっと広くなっていて。そのうちに捨てられた他のモノもたくさん集まってきたの。
ぬいぐるみだけじゃない。鍋とかソファとか時計とか自転車とか。人が使うもの全て。
なかでも一番集まってきたのが、携帯電話。
携帯電話ってただの機械って思っていたけれど、みんな泣いていた。泣いているのが分かったの。
人間のすぐそばで生活していたのに、毎日のように仲良くしていたのに、ある日突然捨てられた。
私はいつの間にか、大きな島に流れついていた。メリーを抱いたまま。
その島は人間に捨てられたもの達が集まってできていた。みなずっと泣いていた。いろんな声で泣いていた。
そんな中で、一つの声が泣くのをやめた。そして言い出したの。ニンゲンはすぐ捨てる。ニンゲンの「大切」は信用できない。ニンゲンがニンゲンに贈った「大好き」を暴いてやろうよって。
そして、最初に涙の川を作ったメリーに、みんなが力を貸してくれて……
今度は光の中に、多くの女の人が映った。次々と……
「ニンゲンは、大切なんていいながらすぐにウソをつく」
腕の中のメリーさんが寂しそうな声でそう言った。
私は、すぐにごめんねって謝った。ぎゅっとメリーを抱きしめて。
「あなたは違うのね。あきらめようとしなかった」
メリーは私にしがみつきながら言った。もう、彼女の手からは刺すような痛みは消えていた。
「ほんとうの大切を知っているニンゲンもいるんだってこと信じたいから……あなたはみのがしてあげる」
私はメリーを抱きしめた。メリーは言った。
「わたしのために泣いてくれてありがとう」
私はまた涙があふれてきた。
「私はもう、捨てたりしない。どんなものも!」
私の最後の声が届いたかどうかは分からないけれど、暗闇はだんだん薄れていった。
目を覚ますと彼が心配そうに覗き込んだ。
「なんだったんだよ……マジで焦った」
私は嬉しくて彼にしがみついた
「ごめんな、巻き込んじまって……ほらあの都市伝説のメリーさん? アレに付きまとわれちゃってて……もう大丈夫かな?」
そうして私の携帯を取ってくれた。
「おい、こんなとこに置いといたら踏んで壊しちゃうぞ……って、ナニコレ。アプリ……メリー?」
彼は、私にこれは何なのかと厳しく問い詰めてきた。私は、なんでもないって言ったのよ。でも彼は原因はこれか? なんて言って携帯を壊しちゃったの。私の、携帯を。
「……ごめん、ちょっと洒落にならない体験したあとだったからさ……新しい携帯、買ってやるよ」
「ううん。平気。私、もう携帯買い換えるのはやめたの。これ使う」
「え、でも壊しちゃったからさ……怒ってるなら謝るからさ、明日ショップ行こうよ」
「だいじょうぶ。私はもう、捨てないの。心に決めたんだから」
「お、おい。……お前、本当に……ホンモノ?」
「何言っているのよ。私は私」
「いやちょっとやっぱり変だよ……俺、今日のとこは帰るな」
「ま、待って……私は捨てないよ?」
「捨てないってなんだよ。やっぱおかしいって」
玄関のドアノブに手をかけた彼。その時、私の中の何かが叫んだ。
「捨てないよ!」
結局、私たちは一緒に住むことにした。
捨てることをやめた私の部屋は近所の人たちに失礼な名前をつけられたけれど、彼がずっと居てくれたから気にならなかった。
メリーさんに出会えて本当によかった。ああ、世界の全てが愛おしい。
(終わり)