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クリスマスを祝福して

作者:

特別企画『哲学的な彼女』の投稿作品です

例えばあなたが昔から知っている、そう、いわゆる幼馴染に告白されたとする。あなたはその人を憎からず想っていて、信頼もしている。

でもそれは本当に信じられるものだろうか?

例えば一年後、まだずっと仲が良いままだと言い切れる?

例えば遠く離れてしまった時、絶対に浮気をしないと言い切れる?

あなたは心からその人を信頼している?

では問おう、果たしてあなたはここでその幼馴染になんと答える?

イエスか、ノーか、それとも保留か。

今の気持ちを大切にして付き合うか、自分の気持ちを信じきれず断るか、それとも一度冷静になり、気の迷いなどではなかったと、そう証明するのか・・・



「・・・と、議論することが出来る。ここで・・」

勝手に議論でもなんでもしてろ。

頭の中で悪態を吐きながら、教卓の前に立つ丸顔で筋肉質な教師を見る。

松句雅夫、柔和な顔で堅苦しい言葉を連ねているこの教師は、クリスマス・イヴという学生にとっては一大イベントの時間を奪い、授業という名の演説会を開いている。それも、強制参加だ。

まったく、たかだか英語のテストで赤線を引かれただけで、この貴重な祭りを削られるなんて、納得いかない。おまけに補習だから暖房もなしときた。この冷凍庫に投げ込まれたような寒さでは居眠りさえ出来ない。高校に入って始めての冬休みがこれだと、先が思いやられる。

俺は頬杖をつきながら白い息を吐く。

ゆらゆらと、まるで俺を挑発するように目の前を流れていく白い靄は、遠ざかるにつれて少しずつ教室の中に溶け込んでいった。

ふと、靄が晴れた先を見る。そこには、長い黒髪を後ろに流した、知的そうな女の子が真っ直ぐに黒板を見ながら座っていた。

高藤菜月、いかにも勉強が出来そうな雰囲気に、生真面目な性格。低めの声に、やや下がったまなじりが特徴的。シャープペンの芯を出すときに顎でキャップを押す癖がある。彼女は本来四組で、俺とは違うクラスなのだが、補習という生徒数が少ない授業ゆえに一つの教室に全組の生徒が集まっている。

俺はぼぅっと彼女の後姿を眺める。

補講初日の十二月二十日。それが彼女を初めて知った日だった。



「寒い、寒い、寒い」

口にすれば少しは暖かくなるだろうと淡い幻想を持ちながら、俺は教室へ続く冷たい廊下を進む。早朝の気温は数値化したくないほど低く、空は少し曇っていて憂鬱な気分を増長させる。

体を縮めながら進んでいると、冷たい空気が微かな耳鳴りを伝えてきた。まるで、世界の全てが止まってしまったような錯覚に陥る。この時期になると、周りに見える窓も、地面も、電灯も、景色さえも全て凍りついたように見えるから不思議だ。

気温と確定した補習に悪態を吐きながら教室の前に着き、扉を開けようとしたところで教室内がとても静かなことに気づいた。俺ははっとして腕時計を見ると、案の定時間を見間違えていた。どうやら授業開始の一時間前に着いてしまったようだ。

俺はあまりに馬鹿らしいミスに、その場で脱力した。まったく、憂鬱に底はないんだな。

さて、一旦帰るにしては時間がないし、待つにしても長すぎる。なんとも中途半端な時間だ。

俺はもう何度吐いたか分からないため息を吐き、指が張り付くほどに冷たくなった扉に手をかけて、やけくそ気味に引いた。がらがらがらっと自分でも驚くほどの大きな音が、澄んだ大気のせいか学校中に響いた気がした。

俺は誰も居ないだろう教室に向かって、投げやりに「おはよ」と呟きつつ中に入る。すると小さく霜柱を思わせる声で、「おはよう」と返事が聞こえた。

俺は驚いて教室を見回し、隅の方でぽつんと一人、読みかけらしき本を開いてこちらを見つめている女の子を見つけた。

見たことがない子だ、少なくとも同じクラスの女子ではない。

この学校は一組一組が離れた位置にあり、組間の交流が少ない。たまにある体育で合同になるくらいしか他クラスを知る機会がないため、同じ学年でも見たことのない生徒というのは割と多い。

彼女はしばらく不思議そうに俺を眺めた後、得心がいったというように二度頷き、読書を再開した。

俺はびっくりした表情のまま自分の席に着き、頭に疑問符を浮かべていた。彼女が今、ここにいる理由が分からない。いや、可能性としては俺と同じように時間を間違えた、というのがあるが、彼女はとても自然にそこに居て、時間を間違えてきてしまったようには見えない。

しばらく考え込み、聞いてみれば良いじゃないか、という結論に達して俺は席を立った。

「なあ、どうしてここに居るんだ?」

俺は彼女の横の机に座ると、唐突にそう問いかけた。

すると彼女は呼んでいた本にしおりを挟み、こちらを向いた。艶のある長い髪がさらりと背中に流れ、一足早い粉雪を連想させた。

「不思議な質問をするのね、そう言うあなたはどうしてここに居るのかしら?」

冷たい声だった。冷酷な、という意味ではなくひんやりとした、まるで雪のような声だ。

「俺はあれだよ、補習を受ける為だよ」

「補習が始まるのはまだ先よ?」

「えーとだな、まあ簡単に言うと、時間を間違えたというかなんというか」

「だと思ったわ」

そう言うと、彼女は微かに口元をほころばせた。教室に入ったときに頷いていたのは多分、そう予想していたからだろう。

「で、君はどうしてここに居るんだ?」

「高藤菜月」

「へ?」

「私の名前」

「あ・・あぁ、俺は国谷宗平、二組だ、よろしく」

「国谷君ね、私は四組よ、よろしく」

四組か、通りで見たことがなかったわけだ。

「で、高藤はどうしてここに居るんだ?」

「補習を受ける為よ」

なんだ、そうだったのか。あまりにもそこに居るのが当然のように見えたので、変に勘ぐってしまった。つまりは俺と同じで、赤点を取ってしまい、補習を受けに来たが、時間を間違えてしまった、ってことか。どうやらこの子、見た目以上に抜けているみたいだ。

「なんだ、俺と同じで時間を間違えただけか」

俺は机に両手を突き、体重を預けて天井を見上げる。そうと分かると、勘違いした者同士、奇妙な仲間意識が芽生えてきた。

「違うわよ、私は別に時間を間違えたわけじゃない」

「え?」

どうやら仲間意識を感じたのは俺だけだったようだ。

「どうしてか朝早く目が覚めたから、いつもより早く家を出たの」

「こんな寒い日に?暖房もなにもないし、別に誰か居るわけでもないだろ。それに、いくらなんでも早過ぎじゃないか?」

「ちょっと早すぎるのは、時計が一時間ほど先を進んでいたからよ」

「・・・え?」

いや、やっぱり時間を間違えただけじゃないのか?いつもより少し早く家を出たつもりだったのが、時間を間違えてかなり早く家を出ることになったってだけ・・・だよな?

「えーと、要するに高藤は・・・時間を間違えた・・・んだよな?」

「だから違うってば。間違えたわけじゃなくて早く来ようとしたら、たまたま早すぎたってだけ」

「いやいやいや、それはただ単に間違えただけだろ」

時間を間違えたのが恥ずかしいのだろうか、どう考えても言い訳しているようにしか思えない。

俺が納得しないのが気に障ったのか、高藤はムッとしたようで、口をへの字に曲げてあきれたようにため息を吐いた。・・・あれ、あきれるのは俺の方じゃないか?

「あなたもしつこいわね、そんなんじゃ女の子に嫌われるわよ?」

俺もムッとして少し早口でまくし立てる。

「だって言い訳してるようにしか聞こえないんだから仕方ないだろ、俺が納得できるように説明してくれよ」

すると、彼女はやれやれと首を振り、まるで出来の悪い弟に勉強を教えるように言った。

「なんて説明しても国谷君は納得しないでしょ。ならあなたにとってはそれが真実よ。逆に私の中でそれが真実でないと思えば、少なくとも私にとってそれは真実ではないの」

「・・・えーと、つまり俺は高藤が時間を間違えた、と思い込んでいるから何を言っても無駄だってこと?」

少し熱くなっていた頭が元の温度に戻っていく。いつもより低い気温がそうさせてくれたのか、それとも高藤の冷たい声が、俺の頭を冷やしてくれたのだろうか。

「そういうこと、要するに、思い込みは少なくともその人にとってはどんな道理よりも確かな真実になる」

「・・・そんなもんかな」

きっとそういうものなのだろう。俺だって、補習が始まる時間を今だと思い込んでいた。この教室の扉を開くまではそれが真実だと思っていたし、玄関に人気がなかったことも気にならなかった。

「そうよ、だから国谷君は私のことを時間を間違えた間抜けな女の子、と思えば良いし、私はただ自分が早く来ただけ、と思えば良い。互いに違うことで納得しているけど、納得しあっているという意味では問題ないわ」

「なんていうか・・・哲学的だな」

高藤は少し考えるように間をおいた後、俺をじっと見つめた。

「哲学・・・ね、確か”知を愛する”的な意味合いだったかしら。良いわね、なかなか素敵な解釈だわ」

そう言うと、あまり変化のない表情を少し動かし、小さな微笑を浮かべた。それは本当に小さく、たった数ミリ瞳を細めただけだ。だけど確かにそれは、雪の結晶のように綺麗な微笑みだった。

俺達はその後、いろいろな話をした。互いの趣味のこと、部活のこと、家族のこと。いつの間にか教室から見える空に雲の陰はなくなり、高い空から降り注ぐ太陽の光が、澄んだ大気と重なり合って、ガラスの中にいるような気持ちだった。そして、なぜかあれほど冷えていた体が、いつの間にかとても暖かくなっていた。



あれからの四日間、毎日一時間早く学校に来て高藤と談笑した。特に約束したわけではなかったけれど、高藤も毎日一時間早く学校に来ていた。

それは補習という少し特別なイベントゆえに起こった、仮初の逢瀬であり、ほんの小さな楽しみだった。この、たった一時間という短い時間高藤と居ることが出来るだけで、補習を受けることに抵抗がなくなったのは、我ながら現金だと思う。

「・・・以上で補習は全て終わりだ、気をつけて帰れ。あと、クリスマスだからってあまりハメをはずすんじゃないぞ」

はっと顔を上げると、松句が言うだけ言って教室を出て言ったところだった。どうやら補習は終ったらしい、これでやっと冬休みだ。

周りからは疲労のため息が次々と聞こえてくる。長かった補習が終ったのだ、その気持ちは痛いほどよく分かる。

「さてと」

俺は手早く荷物をまとめ、鞄の中に放り込むと、深く深呼吸した。・・・よし、いける。いや、行くんだ。手をぐっと握り、そして開く。微かに震えているのは寒いからではないだろう。

周りは疲労を吐き出しつくした者から順々に教室を出て行く。残ってお喋り楽しもうという人はいない。早く帰ってパーティーなりデートなりに行きたいのだろう。

俺は鞄を掴むと、高藤の席に向かった。なるべく自然に、緊張していることがばれないように、急ぎすぎず、ゆっくり過ぎないように歩く。

高藤は丁度片付け終えたところだった。鞄を机の上に乗せ、体重を椅子に預けている。

「おつとめご苦労さん」

俺は出来るだけ明るい声を出して話しかけた。ここでびびったら負けだ。少し陽気に、補習が終った開放感に気分が良くなっている風に振舞え。

「あなたこそ、久しぶりのシャバの空気はどう?」

高藤は気分が良いのか、いつもより明るい声だ。というか、女の子がシャバとか言うな。

「最高だね、生き返るようだよ。このまま夜の街を練り歩きたい気分さ」

「そう、それは良かった。またへましてぶち込まれないようにね」

「ご心配なさらず。高藤こそ大丈夫なのかよ?」

「愚問だわ、あの先生の問題出題パターンはもう読めたの。二度と赤線なんて引かせないわ」

いや、それってヤマの当たりをつけただけじゃあ・・・それに来年から担当教師は変わるはず・・・まあ良いか、本人が納得してるようだし。

俺は適当に話をしながら教室から人が居なくなるのを待った。高藤も特に急いでる様子はなかったので、少し安心した。

教室内に人が居なくなるのに時間はかからなかった。皆クリスマスの予定があるようで、羨ましい限りだ。

人が居なくなった教室に、夕暮れの光が差し込む。冬のぼやけた景観は、今が朝か夕かすら曖昧にして、高藤と始めて会った日のことを思い出させる。

もう一度辺りを確認する。大丈夫、他に人は居ない。

高藤に見えないように指に力を入れる。

言うんだっ、自然に、なんでもないことのように。

一度軽く深呼吸をする。

「・・・あ、あのさ」

若干声が上ずってしまったかもしれない。

「なに?」

机の上に腰を下ろした高藤が、見上げるように問いかけてくる。細々と、白い息を吐く様子が、まるでこの寒さの元凶が高藤であるように思わせる。

だんだんと頬が熱くなってくる。

心臓がこれほど耳に響くのは初めてだ。

「えっと・・・今日さ、今から・・・暇?」

知らず、声が小さくなってしまっていた。見ないようにしていた黒い瞳が、氷のように透き通った視線を投げかけてくる。

高藤はほんの少し俺を見つめると、視線を逸らした。

・・・駄目か。

俺が取り繕いの言葉を捜していると、高藤は不意にこちらに視線を戻し、答えた。

「暇といえば暇だし、暇じゃないと言えば暇じゃないわね」

「え・・・え?」

予想外の答えに動揺を隠す余裕がなくなった。それはいったいどういう意味だ?はっきりと否定はしないってことは・・・イエス?それとも暇だけど俺と遊ぶのは嫌だから暇じゃないって意味?

俺は頭の中であれこれと考えながらうろたえていた。自分でも整理出来ていない言葉が、意味もなく流れ落ちる。

「えーと、暇・・・なのか?いやでも・・・あれ、あのー、それはどういう・・・?」

高藤は、うろたえる俺を文字通り冷たい視線で射抜いていた。まるで、氷柱を刺そうとしているようだ。

「まったく・・・鈍いわね。要するに、私は今日暇だけど、あなたが誘えばその瞬間に暇じゃなくなるって言ってるのっ」

高藤は吐き出すようにそう言って顔を思い切り逸らした。

俺はその言葉に驚いて、表情を確認するようにじっと高藤を見つめた。だけど長い黒髪が漆黒のカーテンとなって、その横顔すら見ることが出来ない。

・・・えーとつまり、俺が誘えばそれに応じると解釈して・・・良いんだよな?

いや、それはわからないだろ、会話のキャッチボールになってねえ。

と、そんな気持ちはすぐに消えて、頭を焼くような痺れと、踊りだすような嬉しさが一挙にやってきた。思わず拳を握ってしまう。

「よっし、じゃあ改めて。今日遊びに行かないか?」

俺がそう言うと、高藤は顔をこちらに向きなおし、ぐっと頷いた。期待していた通り、その顔は綺麗な桜色に染まっていた。



準備があるから一旦帰る、と高藤が言うので、七時に駅前に集合することになった。

俺は六時に駅前に着き、ゆっくりと今日の予定を反芻する。一応希望としては、クリスマスイルミネーションを眺めながら町を歩き、食事をして・・・と言う流れだ。プレゼントは帰り道に渡そう。

一時間も前にここに来たのは、気が急ってしまったというより、なんとなく、一時間前という時が、俺の中で良いことがあると確信できる、いわゆるジンクス的な感覚になってしまっているからだ。

クリスマスの駅前は溢れかえるような人ごみだ。プレゼントを抱えたサラリーマンや、カップルと思われる二人組、家族連れの人たちが、流れる水のように押し合いへし合いしながら歩いている。この人だかりでは高藤は俺を見つけにくいかもしれない。もっと人の少ないところで待ち合わせをすればよかった、と今更ながらに後悔する。

ただ突っ立っておくのも暇なので、何度確認したか分からない服装をチェックし、どこにもおかしいところはないか確認する。ジーンズは卸したての綺麗なもの、青いインナーを見せるように上着を羽織り、マフラーを緩めに締めている。うん、あまり気合を入れすぎるのも変だし、このくらいで丁度良い・・・はず。

「え・・・」

ふと、どこかで聞いたような声がした。それは冷たく、どこか雪を思わせるような柔らかい声で・・・ってえ?

俺ははっとして振り向くと、丁度駅の改札を挟んだ向こうに、待ち合わせの相手の姿を見つけた。

高藤は急いで改札を抜けると、小走りにこちらに向かって来た。俺は驚いた顔のまま呆然と近づく高藤を見つめていた。

「早く来たってレベルじゃないわね」

目の前に立った高藤は開口一番にそう言った。俺は何も言葉を返せず、まじまじと見つめる。滑らかな黒髪はそのまま流して、スカートは黒と白を基調としたシンプルなもの。薄い黒の上着を羽織り、淡い黄色のマフラーが口元を隠している。

「なに?」

「・・あ、ああうん、似合ってるよ」

俺は予想外の出来事に対処できず、思わず男が一番初めに言うべきこと、と本に書いてあった通りに口走ってしまった。これ、絶対に会話繋がってない。

案の定高藤は微妙な顔をして、でもちょっとだけ嬉しげに答えた。

「ありがとう。嬉しいけど、それはもうちょっと後に言ってほしかったわね。私としてはまず軽口を返してほしかったんだけど」

「ああ、ああ、ごめん。まさかこんなに早く来るとは思わなかったから」

「一時間も前に?」

「そう、一時間も前に」

そういうと、高藤はゆっくりと微笑み、腕時計をさすりながら言った。

「なんとなく、ね。私は一時間前って時が好きなのよ。あと一時間。長くもないし、短くもない時間。楽しいことが始まる一時間前にその場所に行くと、そのことを想像する、という楽しみの時間が少し増える。そして嫌なことが始まる一時間前にその場所に行くと、じっくりと身構える時間が与えられる。そんな、何色にも染まる空白の時間」

俺は初めて高藤と会った日のことを思い出す。そういえば確かに一時間前に教室に来ていたな。あれは、補習に対して身構えていたってことかな?

「ああ、だから始めて会ったとき、補習開始の一時間前に教室に来ていたのか」

「いえ、あれは単純に間違えただけ」

「なんだ・・・ん?」

「あ・・・」

高藤はしまった、と小さく呟いた。じゃあ、あの時なんのかんのと並べ立てていたのは、やっぱりただの言い訳だったのか。

「なんだよ、やっぱり時間間違えただけだったんじゃないか」

「良いからっ、いきましょっ。せっかく早く集まったんだから、その分遊ぶべきよっ」

高藤は話題を逸らすように早口で急き立てる。その意見には俺も賛成だったので、街の方向に向き直り、二人並んで歩き始めた。

「・・・あれ、でもその後の四日間はずっと一時間早く来ていたよな、まさか間違え続けたってわけじゃないだろう?」

「いいからっ」

日はすっかり落ちて空は暗い夜色に染まり、クリスマスを着飾った町並みは、その夜闇照らすように、地上にある輝きを伝えるように、強く、強く空へと光を投げかけている。



「携帯電話、買って良いって」

歩き出して二十分ほど経った頃だろうか、きらびやかな装飾が施された店が立ち並び、普段見ることの出来ない格好をした店員がちらほらと見え始めた頃、高藤がそう言い出した。

「ほんとに?よし、じゃあついでに携帯ショップに行ってみるか?」

「うん」

高藤は携帯電話を持っていない。

そのことを知ったのは、つい先ほどの学校からの帰り際だった。集合時間を決め、一度家に帰る前に、俺がメールアドレスを聞くと、高藤は不思議な顔をして「そんなものないわ」と言って、なんと自宅の電話番号を教えだしたのだ。

さすがにそこに電話をかけることはないだろう、と思いつつも俺はそれを受け取り、高藤に携帯電話はあった方が良い、と強く勧めた。説得の甲斐があり、その必要性に納得したのか「親に聞いてみる」と言ってそのまま別れたが、どうやら家に帰ってから今までの間に、買う許しを得たらしい。

「これで、やり取りが出来るな。メールの打ち方は分かるか?」

「わからないから、後で教えて」

「分かった」

辺りからはクリスマス・ソングが絶えることなく響き渡り、赤い服を着た売り子が大声で叫んでいる。気温はどんどん下がっていくが、それに反比例するように街の活気は満ちていく。

まさかクリスマスの日に女の子と二人で出歩くことになるなど、一週間前には考えもしなかったことだ。友達にこのことを話したらなんと答えるだろうか。まず間違いなく罵声を浴びせられるだろうが、それもまた楽しみの一つに違いない。

「携帯電話ってさ麻薬みたいよね」

そんなことを考えていると、ぽつりと高藤が呟いた。びっくりして思わず立ち止まると、顔を向けた。

「いやいや、麻薬って」

「だってさ、持っていない内はとくに不便も感じないのに、一度でも持つともう手放せないでしょう?学校に行くときも、遊びに行くときも、近くのコンビニに出かける時でさえずっと肌身離さず持っている。それって依存症よね?」

高藤の言い分は間違ってはいない。自分では気づいていなかったが、確かに携帯電話に依存しすぎている。今、もし携帯電話を壊してしまったら、少なくとも落ち着いてはいられないだろう。

「確かにそうだなぁ、もしかしてそれが怖くて携帯電話を持たないようにしてたのか?」

恐る恐る聞いてみる。もしかして無理やり俺に合わせてくれただけなのか?

「ええ、もうほとんどの人が持っているから気づかないかもしれないけど、持っていない側からしてみれば、携帯電話を常に手放さないのってちょっと不気味なのよ」

そう言われてみるとそう・・・なのか?よく、わからない。

「じゃあ・・・」

「でもね」

高藤は遮るように言葉を重ねた。

「そうやって皆で依存症になるのも悪くないかなって思うようになったの。だって傍から見れば不気味でも、本人達はとても楽しそうだから」

そう言う高藤は、好奇心に瞳を輝かせている。

俺は言うべき言葉が見つからず、そうか、と返すことしか出来なかった。とりあえず、携帯電話を買うことが嫌なわけではないようだ。

依存症、か。

きっと皆気づかないうちにいろいろな依存症を患っているのだろう。

守る事を盲目的に信じる常識や、他人を貶める事でしか視聴率を取れないマスコミ。さも当然のような流行。楽観、軽蔑、娯楽、嘲笑。傍から見ればさも不気味に映っていることだろう。でも一歩そこに踏み込んでしまえば、違和感や疑問など感じない。そしてそれは、幸せに生きる上には欠かせないものだ。

そんなことを考えて、ふと横を見ると、高藤は口元をふさいでいるマフラーを掴み、何事かを考える様子で少し俯いていた。そのまま数分歩き、目の前に携帯ショップが見える頃になると顔を上げて言った。

「メールってさ、すぐに返すものなの?」

「まあ、大体すぐに返すかな、めんどくさかったり気づかなかったりすると、次の日になるときもあるけど」

どうしてそんなことを気にするのだろう。頭に疑問符を浮かべていると高藤は立ち止まり、携帯ショップの前にある、サンタクロースの格好をしたマスコットを眺めはじめた。

「つまり二日目以降に返信することはないのね?」

「まあ、少なくとも俺はないかな。送った側も二日も前のメールなんて、無視されたとしか思っていないだろうしな。ってなんでこんなこと気にするんだ?」

高藤はマスコットから視線をはずし、また少し考えるそぶりを見せて口を開いた。

「例えば、学校に携帯電話を忘れた時、次の日に取りに行って返信するのは、セーフなわけね」

「あ、ああ」

何がセーフなのかいまいち良く分からないが。

「でももしその次の日が祝日で、学校に入れなかったりすると、次の次の日まで待たなくちゃいけない。つまりその時点で二日が経っているから、送った側としてはそれはすでに無視されたメールであって、受け取るのは別件のメールだと思うわけね。だから同じ人にまったく別の用件のメールを送るときは二日待って、逆に同じ用件のメールを送るときは二日以内って事ね」

彼女は得心がいったと言うように、頬を紅潮させて、そう締めくくった。

 「・・・なわけないだろっ、もっと普通に考えろよ。メールは送りたいときに送れば意味は通じるんだよ」

そんなこと気にする人初めて見た。使ったことのないものを使おうとすると、こんな考えに至るのだろうか?

彼女は再び考えるように軽く俯くと、呟いた。

「・・・パラドックスね」

「言ってろ」

俺はそう言い置くと、携帯ショップに向かって歩き出した。後ろから、不満そうな顔をした高藤が付いてくる。

クリスマス用に飾り付けられた樫の木や、派手な電飾を通り過ぎ、携帯ショップの入り口を抜ける。

中に入ると、いらっしゃいませ、という声とクリスマス・ソングが、奇妙な重奏として聞こえてきた。高藤はすぐにきょろきょろと店内を見回し、目に付いた展示用品を興味深そうに眺めている。

「機種は何にしろ、とか言われた?」

「ううん、特に何も言われてない」

「なら適当で良いか、とりあえず大手を買っておけば間違いはないだろ。ほしい機能とかはあるか?」

「電話とメールさえ出来れば良いわ、よくわからないしね。国谷君選んでよ」

「良いのか?ならそうだな・・・これなんかどうだ?」

そう言うと、俺は開閉式の白い携帯電話を手に取った。色合いがなんとなく高藤を彷彿とさせるし、なにより彼女に似合っている。

「よしっじゃあそれで決定」

「おいおい、そんなすぐに決めて良いのか?」

「いーの、それがほしいの」

高藤は俺の手から白い携帯電話を受け取ると、そのまま店員を呼びに行った。

俺はあまりにもあっさりと決まったことに拍子抜けして、もっと悩めばよかったと少し、後悔した。

高藤が店員を連れて来た。店員はにこやかな笑みで高藤を椅子へ座るように促す。高藤は俺を呼ぶと自分の横に座らせ、契約の手続きを始めた。俺は何をするでもなくその光景をただ眺めていた。名前を書くときに少し見えた高藤の手は氷の結晶のように透き通っていて、そこから紡ぎだされる文字も、とても綺麗だった。

手続きを終えると、店員はすぐに携帯電話を持ってきた。そのまま高藤に説明を始めようとしたので、俺はそれを止め、自分に説明するように求めた。高藤に言ったところで意味がないことは、先ほど十分に分かったからだ。

店員は不満がる高藤と俺を見比べた後、変わらぬ笑顔で俺に説明を始めた。オプションは全て断り、シンプルにメールと電話だけを使えるように頼んだ。それら以外の機能については、追々加えていけば良いだろう。

全ての手続きを済ませて携帯を受け取ると、外に出た。後ろでは、ありがとうございました、と過剰なほど高い声で店員が見送っている。

俺達は再び電飾に彩られた街並みを歩きだした。

歩きながらも、高藤はまるで新しいおもちゃをもらった子供のように、携帯電話をいじっている。

「えーと、メールってこれのこと?」

高遠がメールの作成ウィンドウを開いて聞いてくる。

「そうそう、ちょっと貸して」

俺は高藤の携帯電話を借りると、自分のも取り出し、メールアドレスと電話番号を送った。

「よし、これで俺の番号とアドレスが入った。ためしにメール打ってみなよ、文字はそこに書いてあるのを見れば分かる。送るときはこのボタンを押して」

 「わかった」

俺は携帯電話を返すと、高藤は両手でそれを持ち、一心不乱に何かを打ち込み始めた。かじかむ指を動かし、一文字一文字ゆっくりと打ち込んでいく。慣れていないからか、その速度は驚くほどに遅い。

「打ち方は分かるか?ちょっと見せてくれ」

「うわっ、だめ、みるなっ」

俺が画面を見ようとすると、高藤は画面を隠して後ずさった。

「ちょっと、打ち終わるまでそこで待ってて」

そう言うと、俺の半歩後ろで立ち止まり、メールを打ち込む作業に戻った。

まったく、どうせすぐに送るのだから今見たってかまわないと思うのだが・・・女の子は分からない。

そのまま、ぼーっと街を見つめる。夕食時ということあってか、人の数は増える一方だ。ふと空を見上げると、星は見えなくなっていた。曇ってしまったのか、それともあまりに地上の光がまぶしすぎて、見えなくなってしまったのか。

しばらくそうしていると、ぶるぶるとポケットの中にしまっておいた携帯電話が震えだした。どうやら高藤はやっと打ち終わったらしい。俺はそれを取り出すと、新着メールを開いた。

”シュレーディンガーの猫は箱の中、その箱は思考の中”

「・・・なんだこれ」

俺は思わず首を傾げる。脈絡がないし、意味も分からない。そのままじっと悩んでいると、後ろから高藤が近づいてきた。

「メール、届いた?」

「ああ、けど、これどういう意味だ?」

「これはね、シュレーディンガーの猫の私的解釈」

「なんだそりゃ、そもそもそのなんたらの猫ってのも俺は知らないぞ」

「あれ、結構有名だと思ったんだけどな。まあ、知らないのならそれも良いかもね」

高藤はそう言うと、すたすたと先に歩き始めてしまった。ふわりと揺れる黒髪の先が、猫の尻尾のように見えたのは、気のせいだろうか。

「ちょっとまてって、まったく」

初めてのメールなんだから、もっと楽しいものにしてほしかったのだが、そんな性格じゃあないか。

俺は軽く嘆息すると、その後ろを追いかけるように歩き出した。

その後俺達は、街を練り歩きながら飾り付けられた店でウィンドウショッピングしたり、クリスマスツリーを眺めたり、何かキャンペーンをやっているファミレスで食事をしたりと、とにかくいろいろなところへ行って遊んだ。馬鹿な話をして笑いあって、今というその時を楽しんだ。雪は降らなかったけれど、俺の隣には、雪のような女の子がいたから、ある意味ホワイトクリスマスだったのかもしれない。



「そろそろ帰らないとまずいわね」

サンタのぬいぐるみが塔のように垂直に積み重ねられている小物売り場で、トナカイのぬいぐるみをいじっていた高藤が、名残惜しそうにそう言った。

俺はすっかり存在を忘れていた腕時計を見ると、針は十一時を刺していた。そろそろ帰路に着いた方が良さそうだ。そういえば高藤の門限を聞くのを忘れていた。

「ん、そうだな。帰ろう」

俺はクリスマスツリーを模したぬいぐるみを手放すと、元の位置に戻した。

「送るよ、家どの辺?」

「ここの駅から電車で二駅向こうで、その駅の近く」

「わかった、行こうか」

「ちょっと待って」

「ん?」

「せっかくだから歩いて帰りましょう、クリスマスは最後まで楽しみたいじゃない」

「時間は良いのか?」

すると高藤は俺の目をじっと見つめて、からかうような口調で、言った。

「平気、ちゃんと送ってくれるんでしょう?」

「あたりまえだっ」

俺はそう言うと、高藤を伴って店を出た。

赤くなった顔を見せまいと、そっぽを向きながら歩く俺を眺め、高藤はくすくすと忍び笑いを漏らしていた。

外はもう、いつまでも繰り返すような音楽は止み、未だ多い人並みには子供の姿が見えなくなっている。これからの時間は、夜を支配する大人たちの時間なのだろう。

クリスマスの喧騒は遠く、残響のような響きを連れて空の彼方に消えてしまっていた。名残を惜しむようなイルミネーションだけが、変わらぬ瞬きを繰り返している。

俺たちはなるべく人通りが少ないところを通るようにして、帰路についた。

「ねえ、知ってる?」

二十分ほど歩いた頃だろうか、高藤が口元を隠すマフラーの奥から、ぽそっと呟いた。

 「クリスマスって、二十四日の日没から、二十五日の朝までのことを言うのよ」

「へえ、そうなのか。ってことは今クリスマスの真っ只中なのか」

「そうよ、だから今が本来祝福するべき時間。そして、祝福された時間。聖夜ってきっと、こんな夜のことを言うのよ」

 「ああ、きっとそうだな」

それはクリスマスに俺と一緒にいることが嬉しい、と受け取って良いのだろうか?

高藤はそれ以上話題を広げず、上機嫌な様子で鼻歌を歌いだした。ウィー・ウィッシュ・ユー・ア・メリー・クリスマス。クリスマスと新年の歓びを表した歌だ。

俺たちはなるべく長くこの時を楽しむために、ゆっくりと歩く。

さっきまで身近に目の前にあったはずの街の明かりは遠く、灯火のように小さくなっている。

ここには線路に沿うように走る川とあまりにも頼りない街灯があるだけで、他には何もない。薄暗く、先の見えない道が延々と続いているだけだ。

そんな空虚な世界の中、まるでかまくらの中に居るような、そんな冷たさの中にある暖かさのような歌声が、冷たい空気を震わせて、しんみりと染み渡っている。

そろそろ頃合だろうか、俺はそっとバッグの中に手を入れる。少し硬い感触。あった、これだ。

「高藤」

「なに?」

高藤は鼻歌を止め、不思議そうな顔で見上げてきた。

俺は足を止めると、おもむろに赤い包みを差し出した。

「クリスマスプレゼント、せっかくのクリスマス・・・だろ?」

出来るだけ、おどけた風を装って軽口を叩く。

高藤は少しだけ驚いた後笑顔になり、両手でそっとそのプレゼントを受け取った。

「ありがとう、開けて良い?」

「ああ」

ぴり・・ぴり・、とテープを剥がす音がやけに大きく聞こえる。高藤は包装紙を破いてしまわないように、慎重に封を開けている。あまりにも大事そうに扱うものだから、中身が本当にこんなもので良かったのか、不安になってきた。

赤い包装紙が全て剥がされ、中から小さな丸い置物が出てくる。それは透明なガラスの中に純白の粉雪を降らせながら、高藤の手の中に納まった。

「・・・綺麗、スノードームね」

「なんとなく高藤っぽいかなって思って」

「私?」

「雰囲気というかさ、高藤には雪のイメージがあるんだ」

「雪かぁ」

高藤はそう呟くと、ぼんやりとスノードームを眺める。ガラスの中の小さな世界は、少しの不純物も含まず、ただ、揺らめくような雪が舞い続けている。

どうやら気に入ってくれたようだ。よし、プレゼントは成功。後は、きちんと言うだけだ。大丈夫、何度もシュミレーションしたじゃないか、言えっ言うんだっ。

「あ・・・あのさ」

「そうだ」

俺が全身の勇気を振り絞った声を遮って、高遠はバッグの中からなにやら四角いものを取り出した。

「私もあるの、クリスマスプレゼント。本当は別れ際に渡すつもりだったんだけど、どうせだから今渡すね」

「あ、ああ・・・ありがとう」

「急いで作ったから、ちょっと歪んでるかもしれないけど・・・」

脱力した体に喝を入れ、差し出された箱を受け取る。

なんの変哲もない箱だ。木目調の薄いベニヤ板がサイコロ型に貼り合わされている。一辺が十センチくらいだろうか、見た目よりもずっと軽く、まるで中身が入っていないのではないかと思わせる。

中を確認しようと蓋を探してみるが、どこにも見当たらない。鍵穴のようなものも見当たらないし、完全な正立方体だ・・・ちょっと歪んでいるけど。

高藤は、苦戦している俺を楽しそうに眺めている。これはもしかして知恵の輪とか、そんな感じのやつなのか?

そのまま十分ほど格闘して、出た結果は開かないというものだった。俺は両手を上げると、途方に暮れた声で宣言した。

「駄目だ、開かない。なあこれってどうやって開けるんだ?」

「開かないわよ」

高藤はしれっと、なんでもないことのように言った。

「へ?え?開かないってどういう・・・?」

「開かないって言うよりは開けるには壊すしかないって言った方が正しいかしら」

高藤は嬉しそうにくすくすと笑いだした。

「それはね、私が作った”シュレーディンガーの猫”なの」

「シュレ・・・?ああ、なんかさっき言ってたやつの事か」

そう、と高藤は呟くと、悪戯が成功した子供のように意地の悪い笑みを浮かべた。

「その箱の中には私からのプレゼントが入っているの。それは国谷君にとって良いものかもしれないし、悪いものかもしれない。箱を開けなければそんな曖昧な状態が続くから、がっかりしたくなければ開けなければ良いし、期待を込めて開けてみても良い。その時は国谷君自身が決めてね」

・・・うーむ、なんだかよくわからないものを貰ってしまった。これはなんと答えれば良いんだろう。さすがに今開けるのはNGだろうなぁ。

「とりあえずこれを開けるのは、どうしても中身が知りたい時ってことか?」

「まあ、そういうことね」

きっとお守りのようなものなのだろう。そう思って箱をバッグに収めていると、ふと素朴な疑問が浮かんできた。

「なんていうか、そのシュレ何とかの猫とか、そういうの好きなんだな」

高藤は考えるように顔を伏せ、黙り込んだ。その表情は雪のような雰囲気と相まって、彼女をとても知的な存在に見せる。

「だって、なんとなくシュレーディンガーの猫とか、マクスウェルの悪魔とか素敵じゃない?一種のファンタジーみたいだし、童話みたいだし、吟遊詩人が奏でる詩みたい」

「そうかぁ?」

「そうよ」

高藤は間違いない、という風に頷き、一人で納得していた。

遠くから、車のエンジン音が聞こえる。俺達はその場に立ち止まったまま、何をするでもなく、話すでもなくただ、一緒に居た。

近づいてきた車のヘッドライトが、微かに道路を照らしだす。なにか動物のうなり声を連想させる音を立てて、どんどんと近づいてくる。

照らし出された道路の脇に一本だけ生えている柳の木が、枯れた頭を垂れ、祈りを捧げている。

 街灯の薄ぼんやりとした明かりでしか見ることの出来なかった高藤の横顔が、はっきりと見えてきた。

高藤は遠く、夜の向こうを見通すように空を眺めている。と、巻いていたマフラーを少しづらし、白い吐息を吐いた。白く染めるような光を放つ車が、速度を落としなが目の前を通り過ぎていく。急激に暗くなった視界に、それは広がりながら宙に溶けていった。

「あの・・・さ」

俺は、その茫茫とした雰囲気に押され、知らず口を開いていた。

「俺と、付き合って・・くれない、か?」

上ずり、途切れながらも、ずっと言いたかったことを伝える。高藤はぴしっと一瞬固まった後、こちらを向き、じっと俺を見据えた。

俺はその視線を見返し、返答を待つ。

高藤はその粉雪のような長髪を一度払うと俯き、ゆっくりと諭すような口調で言った。

「国谷君は、さ。他人を心から信頼したことってある?」

心からの信頼?

家族、友達、思いつく顔を次々と並べてみる。みんなそれなりに信頼はしている。俺が馬鹿をやったとき庇ってくれそうな人、相談を持ちかけたら真剣に聞いてくれそうな人。

それとは、違うのだろうか?

高藤は俺の答えを待たずに続ける。

「信頼って結局、思い込みなのよ。相手は自分を受け入れてくれる、そう思い込むこと。それを否定はしないわ。ただ、そういうものなのよ」

初めて会ったときも言っていた、思い込むこと。それは事実として決して真実ではないが、少なくとも思い込んでいる本人にとっては紛れもない真実。つまりはそういうことだろうか?

「ある哲学者が言っていたことなんだけどね」

そう前置きをする高藤は、まるで宝物を落としてしまったかのような、悔しげな表情をしていた。

「恋愛っていうのは熱病のようなもので、それは唐突に発症して、そして唐突に、治る。そう、言っていたの」

俺は瞬きすらできずに固まっていた。少なくとも良い返事でないことは明確だ。

「国谷君のその気持ちが一時の病でないのか、私には分からない。そう、思い込むこともまだ出来ない。だから一年。そう、一年後に、もう一度この場所で同じ事を言ってほしい。そうすれば信じられるから、一時のものなんかじゃないって」

高藤は顔を上げると、懇願するような視線を向けてくる。俺はまだ、動くことも、何かを言うことも出来ないでいた。

「まだ私は、私を完全に信じることが出来てないの。だから・・・信じさせてくれる?」

高藤の頭が、どんどん下がっていく。その深雪のような表情が、朝露のような瞳が、木枯らしのような唇が、だんだんと見えなくなってくる。

もちろんここで「そんな哲学者のことなんて気にする必要ないだろ」と言うことは簡単だ。

でも、こんな風に言われて引き下がるのは、なんとなく癪だ。

俺はやっとまともに機能し始めた全身を奮い立たせ、強く拳を握った。急に動いたためか、痺れるような感覚が走る。一瞬真っ白になった頭にはたった一つの言葉だけが浮かんでいた。

「まかせろ」

そう言った俺に、ごめんねと呟きながらも泣き笑いを返す高藤が、とても印象的だった。



それからの一年は、まるで走馬灯のように、実感も持てないまま過ぎていった。

新年を迎えての学校はこれまでと変わらず、他クラスとの交流がないままに春休みに入った。お陰で学校で高藤を見かけることはなかった。

春休みに入ると、何度か一緒に遊んだ。もちろんデートというわけではなく、お互いの友達を呼んでの集団旅行やパーティだ。特に付き合っているわけでも、ふられているわけでもないので、友達として普通に楽しく遊んだ。ただ、確かに楽しかったのだが、なにか言い知れない澱みが胸に溜まっているようで、時折息苦しさを覚えた。

二年生になり、クラス替えにわずかな希望を託したが、生憎と俺と高藤のクラスは別々になった。そのまま、相変わらずの交流のなさで、淡々と日常が過ぎていった。数回ほど遊びに出かけたが、得体の知れない息苦しさは消えることはなかった。

夏休みになると、冬が待ちきれなくなり、毎日のように遊びに誘った。高藤も暇なときはいつも応じてくれた。胸の中の澱みは、日々積み重なっていくようだった。そして夏休みも中盤を過ぎたところで、高藤はぱったりと誘いに応じてくれなくなった。何度もメールをやり取りし、どうやら家で何か問題が起きたらしいということが分かった。

この頃になるとメールを打つのにもなれたらしく、頻繁にやり取りをしていた。ただ、結局会うことは出来なかった。

新学期が始まる少し前からメールの返信が来なくなった、胸に溜まる澱みが質量を得たように、ずっしりと圧迫し始めた。

新学期が始まり、俺は高藤のいる教室に行くことにした。今までは、付き合ってもいないのに、という思いが先行して学校で会うことは控えていたが、メールの件も、家の事情なども直接聞きたかったので、無理にでも会いに行った。

前に聞いた高藤のクラスに着き、少し緊張しながら適当な人に高藤を呼んでもらうように頼んだ。その人は少し困った顔をすると、転校したよ、と俺に告げた。

そんな馬鹿な、と他の人にも聞いてみたが帰ってくるのは皆同じ答え。その日、俺の世界が足元から崩れ落ちて行くような気がした。

高藤が・・・居なくなった・・・・



その後の二学期は何をしたのか、何があったのか、俺はまったく覚えていない。茫然自失として、ただ機械的に日常を過ごしていたからだ。高藤のいない日常を。

冬休み前のテストは当然のように赤線が引かれ、めでたく二年連続での補習が確定した。もしかしたら、また、誰もいない教室で、会えるかもしれない、と夢見る幼子のように期待していたのかもしれない。

補習も二回目を数える頃には、刻々と近づく約束の日に、高藤という女の子はもういないのだと、初冬に降る牡丹雪のように、地面に落ちて消えてしまったのだと、そう突きつけられているようで、恐怖すら感じるようになっていた。

俺はどうすべきだったのだろう。苦しみから逃れるためか、最近よくそう考える。

家庭の事情で会えないとメールが来ても、無理してでも会いに行くべきだったのか。

それとも、告白などせず、友達のままで満足しておくべきだったのか。

それとも、初めて会ったあの日に、話しかけるべきではなかったのか。

頭の中は堂々巡りの後悔ばかり、戻ることの出来ない過去をただただ追憶し、もしも、と意味のない仮定を繰り返す。他人の家庭の事情に介入することなど出来ないと、ただ素直に受け入れることだけはしたくなかった。

去年のクリスマス・イブの夜を思い出す。

祝福されるような街の明かり。鳴り響くクリスマス・ソング。行き交う浮かれた人々。静かで清らかな夜空。新雪のような高藤の笑顔。

暗く、わずかな景色の輪郭しか見えない道で、一時の熱病かもしれないと、そう語った高藤に今ならはっきりと答えることが出来る。

これは一時の熱病なんかじゃ、絶対に、ない。

そうして、気づけば十二月二十四日。約束の日になっていた。



「・・・以上で補習は全て終わりだ、気をつけて帰れ。あと、クリスマスだからってあまりハメをはずすんじゃないぞ」

どこかで聞いた台詞を残して、松句雅夫教師は教室を出て行った。

懲りもせず補習を受けることになった生徒達(去年とほぼ同じメンツ)は、一息を吐く間もなく荷物をしまい、出て行ってしまった。この一年間で補習や居残りに慣れてしまったからか、去年ほどの疲労はないようだ。

俺は皆が出て行くのを待ち、席を立った。

そのまま教室を出て、すっかり静かになった廊下を歩く。どうやら、全学年補習は終わったようだ。

階段を降り、去年補習が行われたクラス。一年二組の教室に入る。

迷わず、かつて自分が座っていた席まで近づき、ゆっくりと教室内を見渡す。

 黒板には消し忘れたのか、チョークで数式が書かれている。

窓から見える空は、薄く雲が広がっている。

高藤が座っていた席には、犬なのか馬なのか分からない落書きが描かれている。

俺はその席をじっと見つめ、高藤の姿を思い浮かべる。生真面目な顔で、面白くもない授業を真剣に聞いている姿が、鮮明に浮かんだ。

まだ、こんなにもはっきりと思い出すことが出来る。やっぱり、熱病なんかじゃない。

俺は、鞄を抱え直すと、正面玄関へ向かった。

 「もう一度この場所で同じ事を言ってほしい」

丁度一年前の、その言葉を思い出しながら。



遠く、クリスマスの調べが聞こえてくる。

俺は街の外れ、線路に沿うように走る川と、いっそう悲壮感を増した街灯しかない道を歩く。

日はすでに落ちており、冷たく撫ぜるような冷風が厚着越しに伝わってくる。去年より、ずっと寒い。

高藤の転校した先は、まったく知らない。

でも、転校するということは遠い街、少なくとも元の学校に通い続けることが難しいほどの、遠い場所に行ったのだろう。

つまり、少なくともこの近辺にはいないはずで、わざわざ一年前の約束を果たしにここまで来るとは、考えにくい。

それでも、可能性がないわけではない。

黙々と、冷たくなった頬をさすりながら進む。

約束した場所へ、ほんのわずかの可能性でも、高藤に会えるかも知れない場所へ。

後ろから、車のエンジン音が聞こえてきた。 それはだんだんと大きくなり、まぶしいほどのヘッドライトを光らせながら近づいて来る。その明かりに照らされて一本の柳の木が頭を垂れて、現れた。それが、まるで「お待ちしておりました」とでも言っているようで、少しだけ元気が出た。

俺はその柳に体重を預け、遠く続く道路を見つめる。

空虚なほどの暗闇と、役割を果たさない街灯。

前にここを通った時間より一時間前。

空白の時間に色が着くのをじっと待つ。



それから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。夜気が洋服の隙間から侵入して、全身が凍ってしまったかのようになるまで、時計は一切見なかった。いや、見ることができなかった。

時計を見てしまうと、その瞬間に、高藤との繋がりが消えてしまうような気がして、怖かったのだ。

それでも、少なくともあれから二時間以上経ったことは、確実だ。時計を見ずとも、そのくらいは分かる。

俺はゆっくりと柳の木から背中を離し、そのまま駅へと向かう。いや、正確には駅の裏側にある自分の家へと。

曖昧の関係のまま、その真意を確かめることもなく閉まった箱は、どんなものが入っていたのだろうか。

俺はその箱を開けるのが、怖くて逃げ出したのかもしれない。

柳の木は、まるで謝るように頭を垂れ続けていた。



家に着くと、すぐに風呂に入り、体を温めた。あまり高い温度に設定してはいないが、全身が針を刺されたように痛かった。人間、温度差が激しすぎると痛みを感じるものらしい。

風呂から出ると、自分の部屋に行き、そのままベッドに倒れこんだ。

「二人っきりでロマンチックな夜を過ごすの」と言って一人息子を置いてクリスマス旅行に行った両親が、今はありがたかった。

そのまま丸まるように布団を被る。駅の近くに建てるからと防音性を重視した部屋は、何の雑音も伝えず、ただ教会のような静けさを演出していた。

まったく、何を期待していたんだか。

心の中で毒づく。

高藤は、あの雪のような女の子はもう、初春の雪解け水のように溶けて、消えてしまったのだ。

知らず、顔が歪んでいく。

ああ、もう、馬鹿らしくて泣けてくる。あほらしすぎて痛快だ。

クリスマスだからといって、ロマンチストになりすぎたのかもしれない。

もう、高藤のことは忘れよう。

そう思って寝返りをうったとき、ふと机の上に一つの蓋のない箱が目に入った。

「それはね、私が作った”シュレーディンガーの猫”なの」

遠く、捨て去るはずの記憶がひんやりとした声を伝えてくる。

そういえば、ずっと置きっ放しにしていたな。

自然に手がその箱へと伸びる。

開けるべき時は俺が決めるんだっけ。

俺は立ち上がると物置を開け、学校の授業で使う工具箱を引っ張り出した。中から金槌とマイナスドライバーを取り出す。

絨毯を引いた床に座り、箱の端にマイナスドライバーを当てる。一瞬躊躇したが、思い切って金槌を振り下ろした。

がづっという金属がぶつかる音と、べぎっというベニヤ板が割れる鈍い音が静かな部屋にこだました。

そのままマイナスドライバーの位置を横にずらし、同じように金槌を振り下ろす。

がづっ、べぎっ

がづっ、べぎっ

がづっ、べぎ・・・ぎ

四回ほど繰り返したところで箱の上部分が陥没する。薄いベニヤ板は局所的に起こる衝撃に耐えてはくれなかったようだ。

開けるってより、壊すって言った方がしっくり来るな。

そんなことを考えながら、木屑と半壊した蓋を取り出し、ゴミ箱に放る。細かい破片が辺りに飛び散っていたが、気にせず中身を取り出す。

透明なビニールに包まれた猫の人形と白い手紙。それが箱に入っていた物の全てだった。

ゆっくりとビニールを剥がしていく。黒い猫の人形はすました顔でこちらをじっと眺めている。なんとなく高藤を思い出した。

出てきた人形を机の上に置き、手紙を手に取る。

どうしてだろう、どうしてこんなに俺は緊張しているんだ?

違和感のような緊張を感じながらも手紙を開く。風呂に入って温まったはずの手が、小刻みに震えた。


・・・・・・・・・

箱は開けられた。

私のプレゼントは同封していた猫のぬいぐるみ。

期待通りのプレゼントだった?

期待はずれのプレゼントだった?

曖昧な状態は、過剰な期待と過剰な失望を内包するもの。重なりあった状態の中身は、どうだった?

私はあなたがどんな気持ちで、どんな時にこの箱を開けたのかは分からない。

今この時にあなたは幸せを感じている?

今この時にあなたは絶望を感じている?

今この時にあなたは迷っている?

ただ一つ言えるのは、曖昧な状態のこの箱を開けたのだから、何かに対してきちんとした答えを求めているのだということ。

それは私に答えられること?

そうだったら良いな。

 また、クリスマスの夜に会えますように。

・・・・・・・・・


俺は洋服棚から厚手のコートとマフラーを取り出し、それらを身に着けると、急いで家を出た。

やっぱり箱は開けてみないと分からない。

箱の中に猫が居て、生きているのか死んでいるのか、曖昧な状態をただ悩むより、開けてみて確認する方が意味がある。

高藤も、こんなタイミングで開けられるとは思っていなかっただろう。本当は違う意味なのかもしれない、でも、少なくとも俺は、この言葉を、そう解釈した。

俺がそう思い込めば、俺にとってのそれは、真実なんだろう?

走りながら、心の中で語りかける。

夜風が冷たい。日が変わってもう随分と経っている。さすがに人通りも少なくなり、家路につく人がほとんどだ。

駅を通り過ぎ、もう一度あの空虚な道を目指す。クリスマスはまだ終わっていない。まだ、日は昇っていないのだから。

 


川を脇目に真っ直ぐ進む。とっくに定年を迎えている街灯が、最後の力を振り絞るように、淡く道を照らしている。

延々と続く夜道は、メビウスの輪のように果てが見えない。

息が苦しく、動悸が激しい。

乾燥した空気が喉を通り抜ける。

 凍りつくような空気が全身を縛り付ける。 家からぶっ通しで走り続けた足は、ちょっとした拍子に転びそうなほど不安定だ。

 それでも走り続ける。

一刻も早くあの場所へ行かなければ。

そう、急かされるように。

早く、早く。

ふと、前方に白い人影が見えた。

それはまるで、この夜にふわりと一つだけ落ちた雪のように、控えめに佇んでいる。

俺は走るスピードを落として近づく。

か細い明かりしかないため顔は確認できないが、何よりその雪のような雰囲気が如実に指し示している。間違いない。高藤だ。

俺はその人影の前に立つと、息を整えた。

「遅い」

冷たく、綿雪のような声がわずかな温かみを帯びて響いた。

「悪い」

嬉しさを声に滲ませて、俺はそう答えた。

「病気は治った?」

探るような、懇願するような、期待するような、そんな曖昧な声だ。

俺は少しだけ笑うと、口を開いた。

「残念ながら医者に匙を投げられたよ、不治の病だってさ。・・・そっちは、どうだった?」

探るように、祈るように問いかける。

微かに息を呑む気配が伝わって来た。

「・・・こっちも同じ、持病だそうよ」

俺は、ゆっくりと近づいていく。

「そっか」

「うん」

人影は動かず、声だけを伝えてくる。

だんだんと顔が見えるようになってきた。

人影は、見上げるように顔を上げる。

俺はその体温が感じられるほどに近づくとその頬に手を当て、そのままキスをした。

高藤は動かず、ただその瞳に涙を浮かべる。

握手のような、そんな軽い口付け。

俺は唇を離すとそのまま高藤を抱きしめた。

高藤は俺の肩に頭をのせ、小さな嗚咽を漏らす。

肩に感じる高藤の涙は、雪解け水のように冷たかった。


 

「病院抜け出すの、大変だったんだから」

背中からそんな声が飛んでくる。

「せめてコートくらい羽織れよ・・・」

呆れつつ、そう返す。

俺は病院服しか着ていなかった高藤にコートを渡し、その華奢な体を背負っている。身体に染み込む冷気も、背中に感じる体温でまったく気にならない。

どうやら高藤は二日ほど前に高熱を出し、病院に運ばれたらしい。そこで医者から外出を禁じられて、それでも約束を守りたくて、夜になるのを待って抜け出したのだそうだ。

病院はここから遠く。抜け出すために夜が更けるのを待ったために約束の時間に間に合わず、すれ違いになったらしい。遅れてこの場所に着いた高藤は、俺の姿がどこにもないことが分かっても、それでも諦めずに待ち続けていたのだという。

まったく、悪化したらどうするんだ。

そう思いながらも、そこまでして会いに来てくれたことが嬉しい。

月は雲に隠れ、街灯は弱々しい。

車一つ通らない道は暗く、進む標がかろうじて見える程度だ。

そんな、一歩先に進むごとに不安を掻き立てられるような道を、最寄の病院を目指してただ歩く。

電車は使わない。

高藤が望まないからだ。

この道は俺が歩く。

おそらくそれが、願いだからだ。

高藤は縋り付くように首に手を回している。前に会った時よりも伸びた髪の毛が、くすぐるように俺の頬をすべり、肩にかかった。

 「なあ、夏休みに・・・何があったんだ?」

俺はなるべく柔らかく、疑問に思っていたことを問う。

メールの返信が来なくなったこと。転校することになったこと。それを伝えてくれなかったこと。

高藤は無言で顔を俯けている。それは拒否しているのか、迷っているのか、言葉を捜しているのか、判断がつかない。

俺はなるべく揺れないように歩きながら、答えをじっと待つ。

五分ほど経った頃だろうか、高藤は俯けていた顔を少し上げ、口を開いた。

「よくある話よ」

そう前置きした声は、空虚でも絶望でもなく、ただひたすらに冷たかった。

「夏休みに入って、両親の仲が険悪になってきたの。まあ、元からあんまり仲が良くなかったんだけどね。それで、とうとう離婚することになって、私はここに居たかったから仲裁しようとしたんだけど、出来なくて・・・。そのときちょっとした拍子に携帯電話が壊れちゃって、連絡することが出来なかったの。ごめんね」

俺は相槌も打たずに黙々と歩き続ける。

「今私が住んでいるのは結構遠くて、ここから二十駅は離れたところにあるアパートでね、お父さんと一緒に暮らしてるの。携帯電話は来月買ってもらう予定」

俺は少しだけ足を止め、また歩き出す。

景色の変わらない道を進んでいると、どのくらい歩いたのか分からなくなってくる。道も暗く、一歩先がぼやけてよく見えない。

でも、歩くことは決してやめない。

もしかしたら、一歩踏み出したところで道端の石につまずくかもしれない。突然自転車が飛び出してきて、ぶつかってしまうかもしれない。

でも、たとえそんな思考実験をいくら繰り返しても、一歩前に何があるのかなんて踏み出して見ないと分かりはしない。俺に出来ることは、もしつまずいてしまっても背中だけは守れるように注意することだけだ。

そこで恐れて立ち止まることに意味なんてない。

だから、前へ進む。

背中に感じる温もりが消えないように。

「会いに行くよ」

自然とそんな言葉がこぼれた。

「遠いって言っても電車で行けない距離じゃないし、休みの日にはなるべく行くよ。お見舞いに、な」

おどけるように、冗談めかして言う。

「病人が病人の見舞いに来てどうするのよ」

くくっと笑いを押し殺しながら高藤が呟く。

その声が聞けることが嬉しくて、その吐息を頭上に感じることが嬉しくて、このままずっと歩き続けていたいと、そう思う。

クリスマスは、まだ続いている。

派手な装飾もなく、ケーキもない。前を見れば暗闇、後ろを振り返れば蝋燭のような小さな街の明かり。

幻想のような夜は淡く、ぼやけてその輪郭を曖昧にする。その中で背中に感じるのは確かな重み。そこに愛しい人がいる奇跡。

きっと、それこそが現実で、空想で、真実だ。

「高藤はさ、奇跡って信じる?」

ふと、そんなことを聞いていた。意外と俺はロマンチストなのかもしれない。それともただ、クリスマスの雰囲気に呑まれただけなのだろうか。

「うーん、あんまり信じてないかな」

 高藤は片方の手を俺の首に巻きつけたまま、もう片方の手で俺の頬を触った。熱が上がってきたのだろう、触れるその手は暖かく夢見るように気持ち良い。

 「よく言うでしょ、六十億分の一の奇跡って、私達の出会いは六十億人いる人類の中で起きた奇跡だって」

暖かなその手とは違い、高藤の声はやはり冷たく、ひんやりとしていた。

 「それってさ、実は奇跡でもなんでもないのよ、だって私が誰かと出会う時、その確立は常に六十億分の一なんだから。逆に言えば、その確立が六十億分の三になったり、そもそも誰とも出会わずに、そのさいころすら振られないほうがよっぽど奇跡だと、そう思わない?」

高藤は、教えるように、願うように言葉を紡ぐ。

 「だからさ、きっとこの私達の出会いは奇跡でも偶然でもなく必然で、今こうして背負ってもらってるのも、あるべくしてある形だと、そう思うのよ」

頬に当てていた手を離し、再び首に巻きつける。それはまるで、今この時を奇跡なんて言葉で片付けてほしくないと、そう言っているようだ。

 「そうだな、うん、きっとにそうに違いない」

 見上げると、黒一色だった空に微かな青色が混じり始めている。

夜が、明ける。

背中から感じる体温がさっきよりも高い。もしかしたら熱がぶり返してきたのかもしれない。まあこんな寒い中にずっといるのだから無理もないか。急いで病院に連れて行かないと。

「少し、急ぐぞ」

そう言って、高藤の両足を支える腕に力を込め、歩くスピードを上げる。


 クリスマス・ソングはもう聞こえない

 サンタクロースもそろそろ休む頃だろう

クリスマスが終わる

奇跡という名の必然を残して

それはきっと、この日が聖夜と呼ばれる所以で

幸せな夜は願い続けた末の結果だ

 だからせめて感謝の意味を込めて

名前しか知らない神の使いの誕生日を、祝福しよう

 I wish you a merry Christmas


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[一言] とても心が暖かくなりました。 高藤、可愛すぎ! 願わくば二人のクリスマスをもう1度...
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