飢饉に向けて②
「では、失礼いたします」
頭を下げ、アリウムに背を向けた瞬間、腕をつかまれる。
「……ミルベラ、話をしよう」
真剣な眼差しには、もう何も感じない。
まるで氷を飲み込んだようで、その冷たさが私の中を侵食していく。
「また明日でもいいですか? 今日は少し疲れてしまったので」
自分でも耳を疑うほど、平坦な声が出た。
アリウムの手は離れることなく、つかむ強さが増す。
「アリウム、痛いです……」
「──っ。悪い!」
パッと手が離れていく。
本当は痛くなんてなかった。
けれど、その手を離させるために嘘をついた。
そのことに、罪悪感はない。
「ほんの少しでいい。時間をくれないか?」
「ここでいいなら……」
早くしてほしい。
まだまだやらなければならないことは、たくさんあるのだ。
藤色の瞳が迷っている。迷うくらいなら、また今度にしてくれたらいいのに。
「…………ラットゥース家で新しく育てている麦は、雨に強いものだそうだな」
躊躇いがちに発せられた言葉に息をのむ。
どこまで? どこまで掴んでいる?
「食糧の備蓄に、専門家を雇い入れた新たな種の麦の栽培の成功。備蓄の申請が出てからたった二年弱だ。出来すぎている」
「たまたまですよ……」
「たまたまで、選んだ麦が土地に合い、一年で穂をつけるのか?」
確信を含んだ声に、呼吸が苦しい。
頭は冷めたまま回転し続けているのに、最適解が見つからない。
駄目。ここで隙を見せたら、間違えたものすら価値がなくなる。
「……専門家がとても優秀なのでは?」
「育て方はあるだろうが、その専門家を雇う前から、もう育てる麦は決まっていたのだろう?」
刃を突きつけられた気がした。
逃げられない。逃がす気がなどないんだ。
「なぁ、ミルベラ。あなたには何が見えている?」
一歩引いた足から、カツリと音が鳴る。
その音がやけに耳障りだ。
「ミルベラを信じたい。けれど、出来すぎている。疑われたくないなら失敗してくれ……」
「…………そんなことしたら、手遅れなんですよ」
時が、空気が、止まった気がした。
やってしまった。
認めてしまった。
知られてはいけなかったのに。
「何が手遅れになるんだ?」
私的な顔はすべて消え、王族の顔になったアリウムに、唇が震える。
弁解したいのに、口の中が乾いて言葉が出ない。
何も言えず、アリウムを眺めるしかできない私の腕が再び掴まれる。
「は、離して……」
いつものアリウムならここで止まってくれる。
けれど、どんなに振りほどこうとしても、その拘束がゆるむことはない。
「痛いから、離してください。自分で歩けます」
あぁ、届かない。止まらない。
信じてもらえない。
引っ張ってこられたのは、アリウムの自室だった。
中に入った瞬間、カチリと乾いた音がして鍵をかけられる。
「座ってくれ」
そう言われたけれど、立ち尽くす私の腕を再びアリウムは引っ張る。
二人掛けのソファーへと座らされ、アリウムはその前にかけた。
「もう一度聞く、何が手遅れになる?」
はくりと息が漏れた。
「ち、違うんです。私、本当に何も知りません」
「知らないでもいい。ミルベラは何をしようとしている?」
息が、吸えない。
やめて、探らないで。
引きずり出そうとしないで──。
「言ってくれ。言ってさえくれれば、必ずミルベラを守る。今のままでは、すべて後手に回る」
その言葉にいつものアリウムが見えた。
気付けば肩の力が抜け、肺を空気が満たす。
思考が回り始める。
「国が敵になるかもしれないですよ?」
「それでもだ」
決意を宿した藤色に、奥歯を噛みしめる。
それでも涙腺は緩み、視界が滲む。
「心配なら、誓約書を作ろうか」
「…………いえ」
私が他者に危害を加える等をした場合、家に責任を問わず、私個人の問題として扱う。
必要なことは、もう誓約書にもう書かれている。
「私を守らないでください」
「…………何故?」
上を向き、涙が溢れないように大きく息を吸い、吐き出すと、アリウムへと視線を戻す。
怖気づきそうになるほど何の音もなくて、アリウムの握りしめたこぶしが色を無くしている。
「あなたは国王になる人だから」
息をのむ音が聞こえた気がした。
切り替えるように、アリウムの纏う雰囲気が変わっていく。
「ならば、共に背負う。……それなら、いいだろう?」
「すべてを話さないかもしれません」
「構わない」
迷いなく告げられ、私は暴れ出す心臓に気が付かないふりをして、意識的に瞬きをゆっくりとする。
「…………飢饉の対策をしています。起こるかはわかりません。けれど、何もしなくてその日が来れば、大勢の民が命を落とし、国は混乱に陥るでしょう」
そう告げれば、アリウムは一つ頷く。
「詳しく教えてくれるか?」
不確定な未来へ、協力という形で足を踏み出す。
「……そういえば、何でそんなにラットゥース領について詳しいんですか?」
にこりと笑うアリウムに、まるで紙に走らせたインクが滲んでしまったような、感覚がした。




