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第6話:森の静寂と、小さなうめき声

 翌朝。私は早起きをして、身支度を整えた。


 リュックの中身は軽くしてある。水筒と、少しの干し肉、それから万能ナイフとロープ。今日は本格的な伐採ではなく、あくまで「下見」だ。


「行ってきます」


 誰もいない家に挨拶をして、私は歩き出した。目指すは、村の北に広がる「フィーロの森」。


  † † †


 村の畑を抜けると、空気の温度がすっと下がった気がした。目の前に広がるのは、鬱蒼うっそうとした緑の壁。


 フィーロの森。「フィーロ」とは古い言葉で「糸」を意味するらしい。木漏れ日が糸のように降り注ぐからか、それとも迷い込んだら糸のように絡め取られるからか。


(……ちょっと怖いかも)


 私はリュックの肩紐を強く握りしめ、森の中へと足を踏み入れた。


 ザッ、ザッ。


 落ち葉を踏む音が、静かな森に響く。鳥の声も遠い。ここには、人間を拒むような厳かな空気が流れていた。


構造把握アーキテクト・アイ


 私はスキルを発動させた。視界が色彩を失い、代わりに物質の情報が流れ込んでくる。


(すごい……)


 私は息を呑んだ。宝の山だ。


 太くて真っ直ぐな「オーク(ナラ)」の木。硬くて丈夫だから、家の柱やはりに最適だ。少し柔らかい「パイン(マツ)」の木。加工しやすいから、家具や床板に向いている。そして、水に強い「杉」の木。


(選び放題だ……!)


 王都では一本数万円(銀貨数枚)はするような立派な木材が、そこら中に生えている。でも、今の私には、これを切り倒す道具も、運ぶ手段もない。


(やっぱり、まずは道具作りからかな)


 私は手頃な倒木や、立ち枯れしている木を探して歩いた。生木は水分が多くて重いし、すぐには使えない。その点、自然に枯れた木は、森が時間をかけて乾燥させてくれた「天然の資材」だ。


「あ、これいいかも」


 中身が詰まっていて、虫食いもない枝を見つけては、ナイフで長さを揃えて束ねていく。地味な作業だけど、これが私の家の「薪」になり、「棚」になる。


 夢中で作業をしているうちに、日は傾き始めていた。


 森の中が、急速に薄暗くなっていく。夕暮れの森は、昼間とは違う顔を見せる。影が伸び、木の葉の擦れる音が、何かの足音のように聞こえる。


(……そろそろ帰ろう)


 私は枝の束を背負い、来た道を戻ろうとした。


 その時だった。


「……ぅ……」


 風の音に混じって、微かな音が聞こえた気がした。


 動物の鳴き声?いや、違う。


「……だれか……たすけ……」


 それは、消え入りそうな、小さなうめき声だった。


  † † †


 私は荷物をその場に置き、声のした方へと走った。いばらがシスター服に引っかかるのも構わずに、草むらをかき分ける。


 そして、見つけた。


 大木の根元に、小さな影がうずくまっていた。


「っ……!」


 それは、獣人の子供だった。


 月明かりのような銀灰色の髪。頭には、力なく垂れ下がった狼の耳。ボロボロの布切れ一枚をまとったその体は、ひどく痩せ細っている。


 そして何より——足元が、赤く染まっていた。


 古いトラバサミ(狩猟用の罠)が、その細い足首に食い込んでいたのだ。


「しっかりして!」


 私は駆け寄り、子供の体を抱き起こした。熱い。ひどい高熱だ。傷口は化膿しかけていて、見るのも痛々しい。


(どうしよう、これ……!)


 私の回復魔法はレベル1。かすり傷を治すのが精一杯の『プチ・ヒール』だ。こんな深い傷、治せるわけがない。


 でも、ここで諦めたら、この子は死ぬ。


「『小治癒プチ・ヒール』!」


 私は傷口に手をかざし、必死に魔力を込めた。淡い光が傷を包む。でも、錆びた刃が食い込んだ傷は深すぎる。血が止まる気配はない。


「くっ……もう一回! 『小治癒プチ・ヒール』!」


 二回目。魔力がごっそり持っていかれる感覚。それでも、傷は塞がらない。


「お願い……! 『小治癒プチ・ヒール』!!」


 三回目。一日の使用限界だ。目眩めまいがして、視界がぐらりと揺れる。


 それでも、傷はようやく血が滲む程度になっただけ。完治には程遠い。


(魔法じゃ……ダメだ)


 勇者パーティなら、ソフィアの『大治癒ハイ・ヒール』で一瞬で治せただろう。でも、私には無理だ。無力だ。


 ——本当に?


 私は唇を噛み締め、震える手でリュックを開けた。


(魔法がないなら、知識を使え。あるもので何とかしろ)


 私は「万能ナイフ」の背を使い、トラバサミのバネを強引にこじ開けた。子供が「ぅぐっ……」と苦悶の声を漏らす。


「ごめんね、痛いよね……すぐ終わるから」


 傷口に、残っていた水魔法で生成した綺麗な水をかけ、泥と錆を洗い流す。そして、なけなしのポーション——王都を出る時に持ってきた、自作の低級ポーションを惜しみなく振りかけた。


 最後に、綺麗な布をきつく巻き付け、近くの枝を添え木にして固定する。


 応急処置。魔法使いが見たら「原始的だ」と笑うような、泥臭い手当て。


 でも、今の私にできる精一杯だった。


「……よし」


 子供の呼吸は、まだ荒いけれど、少しだけ落ち着いたように見えた。私はその小さな体を背負い上げた。


 ずしり、と重い。栄養失調で痩せているはずなのに、意識のない体は鉛のように重かった。


 私の足もガクガク震えている。魔力切れの倦怠感と、慣れない森歩きの疲労。


 置いていけば、私は楽に帰れる。そもそも、自分の生活すらままならないのに、他人を助けている余裕なんてないはずだ。


 でも、私はその子の手を、強く握り直した。


「帰ろう……温かい家に」


 一歩、また一歩。夕闇が迫る森の中を、私は亀のような歩みで進んでいった。


 背中の温もりだけが、私が一人ではないことを教えてくれていた。


  † † †


 家に帰り着いた頃には、日は完全に落ちていた。


 私は子供を、村長さんがくれたわらの寝床に寝かせた。自分の毛布を全部掛けて、さらに暖炉——と言っても石を積んだだけのものだが——に火を入れる。


 パチパチと、薪が燃える音が静寂を埋めていく。


 私はその横で、泥だらけになって座り込んでいた。


 拾ってきた枝の束は、森に置いてきてしまった。今日の成果はゼロだ。それどころか、貴重なポーションと魔力を使い果たしてしまった。


 効率で言えば、最悪の一日。


 けれど、不思議と後悔はなかった。


 規則正しい寝息を立て始めた、銀色の髪の子供を見つめる。その寝顔は、苦痛に歪んでいた森の中とは違い、どこか安らかに見えた。


「……助かって、よかった」


 小さく呟く。


 窓の外には、満天の星空が広がっていた。昨日と同じ、静かな夜。けれど、この部屋には今、私以外の呼吸音が聞こえている。


 それは、孤独な逃避行を続けてきた私にとって、初めて触れる「他者」の体温だった……。

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