百回目の朝、君を守るために裸で走った男の話
朝の光が柔らかく街を包んでいた。通学路を歩く女子高生・いろはは、いつも通りぼんやりと信号を渡っていた。青信号。何も考えず、ただ歩く。
――ドンッ!
「えっ――!?」
上半身裸、下着姿の中年男がいきなり走ってきて、いろはを横に突き飛ばした。
「キャッ! やめてくださいっ!」
変質者!と思うより早く、耳をつんざくようなブレーキ音。後方から猛スピードで突っ込んできた車が、彼女がさっきまでいた横断歩道を突っ切り、電柱に激突した。
煙が上がる。野次馬が騒ぎ始める。いろはは、混乱の中で地面に座り込んでいた。
「……はあ、今回は間に合った……」
男がそうつぶやく。息が荒い。
その言葉に、いろはの背筋がゾッとした。
「今……『今回は』って……?」
男は立ち上がり、手を差し出した。「君、勘違いしないでくれ。変質者じゃない。服を着る暇がなかったんだ。君を助けるためには」
そして男は一度立ち去り、きちんとスーツ姿で戻ってきた。
「少しだけ、話を聞いてくれるかい?」男はそう言って、いろはと一緒に近くの公園のベンチに座った。
男の話は、まるで映画のようだった。
「僕はタイムループしてるんだ。同じ一日を何度も、何度も繰り返している」
最初はいろはも笑っていたが、車の事故を的確に予知していたこと、そして自分を救った事実がどうしても心から離れなかった。
「最初は、自分が狂ったのかと思ったよ。医者にも行ったし、霊媒師にも会った。だけど、何の答えも得られなかった」
「じゃあ、ずっとこの日を繰り返してるの……?」
「正確にはわからない。でも、百回以上は軽く超えてる。途中でね、もう何もかもがどうでもよくなって、自殺すら試した。でも……目覚めると、またこの朝に戻ってるんだ」
彼は遠くを見つめながら語った。欲望に走り、犯罪にも手を染めたこともあると。ただ、それすらも虚しさしか残らなかった。
「それで気づいたんだ。人を助けること、それだけが少しだけ……救いになる気がしたんだ」
いろはは、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
「私の命を救ったのも、その“救い”の一つってこと?」
「……そうだね。今回は、君を助けることが目的だった」
「でも、なんで私を? もっと他に助けるべき人がいたんじゃないの?」
「いや……君なんだよ」
いろはは、ふと黙った。男の横顔は、どこか切なげで、優しかった。
「じゃあ、もし私が学校を休んで、君と一緒に一日を過ごしたら……タイムループは終わるのかな?」
男は苦笑した。「わからない。でも、君が望むなら付き合うよ」
そして、いろはは学校をさぼった。男と並んで歩き、公園のベンチで彼の“百回目”の人生を聞いた。
時計の針が夕方を指す頃、男はふと立ち上がった。
「おっと、そろそろ行かなきゃ」
「どこに?」
「……君に本当のことを言う時間だ」
「え?」
男はゆっくりとポケットから一枚の古びた写真を取り出した。それは、どこか懐かしい昭和の香りがする写真。若い女性と赤ん坊が写っている。
「……これは、君と、君の母親だよ。つまり、君は……」
「…………」
「君は、僕の娘なんだ」
時が止まったような静寂。風が葉を揺らした。
「……な、にを……」
「あるループの中で、君の母親と……惹かれ合った。でも事故で彼女を失った。そして、ある日、君を見かけたんだ。最初は他人かと思った。でも、わかった。君は、あの時彼女が身ごもっていた子だった。……君は僕の未来の娘なんだよ」
いろはは言葉を失った。
「タイムループは、僕に与えられた罰だと思っていた。でも……もしかしたら、“君を守れ”という機会を与えられているだけなのかもしれない。だから、今度こそ、君の命を救って終わるのかもしれない」
彼はそう言い、静かに立ち去った。
翌朝。いろはは、目を覚ました。
いつもの時間。いつもの光。変わらぬ朝。
だが――
道を歩く彼女の前に、あの男はいなかった。
彼女が横断歩道に差しかかると、不意に脳裏に声が響いた。
『これでようやく……終われる』
次の瞬間、トラックが暴走してくる。
だが、何かが――何者かが――いろはを引き戻した。
彼女は、無傷だった。
そして、その時彼女の手の中に、一枚の写真が握られていることに気づいた。
それは、昨日見せられた――あの、母親と赤ん坊の写真だった。
裏には、こう書かれていた。
「愛してるよ。君が幸せに生きてくれるなら、僕はそれでいい」
いろはは、声も出せずにその場に立ち尽くした。
風が吹く。
朝が、新しい一日として始まった。
[終]