花
食ってけないから。
始まりはそんな嫌な理由からだった。
売られて華やかな街で生きるわたしは、花なんかではなかった。
だけど
「綺麗です」
お客は言うの。
みんな同じ言葉。
最初はよかったけど、もう聞き飽きた。
ある日やってきた、慣れていなさそうな客。
彼も言った。
「……お綺麗ですね」
「ありがとう」
いつものように受け流した。
「今日は友人に無理矢理連れてこられたんです」
肌を合わせもせずに、彼はお話を続けた。
「こういうところはあまりお好きではないの?」
「そうですね。初めて来ましたが、やはりあまり好きにはなれません。……この間あった演劇の話をしましょうか」
彼からは、少し憐れみの気持ちを感じた。
彼の話は面白かった。まるでわたしもそこにいたみたいに、物語に浸れた。話す彼は優雅で柔らかい。表情も語り口も、穏やかな春のようだった。
初めかたかった空気がいつの間にか柔らかくなって、わたしはこの人の話に耳を傾けていた。
「ええ、それで?」
「それで、大蛇が――」
こんなに穏やかでいられたのは、久しぶりかもしれない。いつも部屋は暗くて冷たくて、お客のことが嫌で仕方がなかったのに、今日この時間だけは、この人が来てくれてよかったと思った。
「また来てくださる?」
こんなことを言ったのは初めて。
彼は少し迷ったのか目を逸らした後
「貴女が望むなら」
そう言った。
それから、彼は何度もお店に来てくれた。
「いつも面白い話は出来ませんよ」
「いいんです。あなたが……来てくれるのが嬉しいのです」
頬を掻いて目を逸らした彼は、おず……と包みを出した。
「これは?」
「買ってきました。美味しくて好きなんです。貴女にも食べてほしくて」
「ありがとう。いただきます」
お菓子を口に含むと、甘かった。可愛らしい見た目で、この人がわたしの為に選んだのだと思うと、嬉しかった。
「美味しいです」
「よかったです」
穏やかな目からは、憐れみではなくて幸福を感じる。
この人はいつも穏やかな目でわたしを見つめる。
「他にもあなたが好きなものはあるの?」
「ええ、ここのお店のお饅頭が。今度持ってきましょうか?」
「いいんですか?」
「もちろん」
その後彼は、懐かなかった近所の猫がやっと懐いたと話をしてくれた。前にその猫の話は聞いていたから、その話を聞いてわたしも嬉しかった。それから、この間やろうと言っていた謎かけもして、彼の答えにわたしはころころ笑った。
「真面目に考えたんですか?」
「もちろん考えましたよ」
文句を垂れるが彼も笑っていて、わたしはそれを指摘して。二人で笑いこけた。
この人とのこんな時間が好き。日常の、嬉しかったこと恥ずかしかったこと、面白かったこと悲しかったこと……そんなことを喋って、二人で歌を歌ったりして、二人の好きなものを言い合ったり、言葉遊びをしたり……。言葉や行動の端々から真面目なのが分かるのに、堅苦しくない柔らかい空気が、この人の素敵なところ。
あの日、どうしてかこの人と話をしていると心が温まって、わたしは心を許してしまった。
この人といる時だけは穏やかでいられる。もうこりごりなこんな生活も、少しだけ希望が湧くような気がする。
みんな、あの人みたいにお喋りだけして帰ってくれればいいのに。
「今日も綺麗だ」
ある日お客に言われた。
そんな言葉いらないわ。でも、
「ありがとう」
わたしは笑う。愛してるの演劇をしなきゃ。お客が楽しめるように、嘘の声を漏らして。
「大丈夫か?」
「ええ」
ばれてないわよね? わたしの心。こんなに、誰かに抱かれるのが嫌だったかしら。こんなに肌は、部屋は、冷たかったかしら。……嫌ね。好いていない人に抱かれるのは。
あの人はいつもわたしを抱かないけれど、もし体を合わせたらどんな感じなんでしょう。温かいのかしら。あの人はどんな顔をするのだろう。
わたしの初めてがあの人だったらよかったのに。何にも汚されず、無垢なままでいたかった。あの人だけの花でありたかった。
寂しいわ、会いたいわ。あなたは今どこで何をしているの? 仕事? 休憩? 美味しいもの食べてるかしら。笑ってるかしら。……いいな。あの人と、好きな時に会えて喋れる友人は。わたしもあなたに会いたいわ。羨ましい。
「また来る」
「ええ、また……」
終わって出ていく客に「もう来なくていい」とは流石に言えないから、静かに手を振る。
外は雨が降っている。わたしも泣きたいわ。
だって、気付いてしまったんだもの。あの人に恋していたことに。
こんな風にわたしが汚れていることを、汚れていくことを、わたしはやっぱり、もう耐えられない。
あの人に助け出してほしい。あの人の隣にいたい。だけど、そう思うのは怖い。
いつだったかしら。昔、同じように恋をして、わたしを迎えにきてくれるのを待った。けれどその人は来なかった。わたしじゃなくて、他の子を身請けした。悲しくて、寂しくて……期待して馬鹿みたいだと泣いたわ。わたしのところに来てくれるんじゃないかなんて、そんな期待をしたのが酷く恥ずかしかった。
また、同じような結末になるのは嫌。
こんな気持ちになるつもりはなかったのに、どうして気付かない間に恋してしまったの。いつかあんな日が来てしまうのならその前にどうか、あなたにはここから離れてほしい。たとえ絶望したとしても、今ならまだ傷は深くならずに済む筈だから……。
「貴女を気にかける方はおられますか」
「どういう意味です?」
首をかしげた。
「貴女の元に通う方は、沢山いるのですか」
「いるには、います」
けれど、だから嬉しいという訳ではなく、本当は嫌だから来ないでほしい。……そんなこと言えないけど。
「仲の良い方は?」
今日は変な質問ばかりね。
「あなた以外には」
こうしてお喋りだけして帰っていくのも、もっといてほしいと思うのも、あなただけ。
「だからいつも来てくれて嬉しいのよ」
「そうですか。良かったです」
彼は微笑んだ。
わたしが「また来て」と言ってからずっと来てくれるけど、あなたがそれを止める日も来るのかしら。
そう思ったら、とても寂しかった。
「あなたはわたしの所へずっと来てくださるけど、他へは行かないの?」
「行きませんよ」
「可愛い娘だって沢山いるでしょ?」
「貴女に会いに来てるんです。……他の店にだって行きませんよ。そういうのは好きじゃない」
「……そう」
お世辞よね、きっと。そう思おうとしたけど、初めて会った時も「好きじゃない」と言っていた。ちらりと見たあなたの目は真剣で、疑いようもない。『聞かなければ良かった』と『聞いて良かった』が混ざり合った。
……どうしてだろう。顔が熱い。
彼を見ると、徐々に頬や耳の辺りが赤くなっていっていたのに気付いた。
……頑張って言ったのかしら。
またそんなことを思ってしまって、呼吸を落ち着ける。
「あの、貴女は私が来て嫌じゃないですか?」
「嫌? どうしてそんなことを言うの? まず、わたしがあなたに来てほしいと言ったのに。それは、今も変わらないわ」
「そうですか。すみません、少し、変なことを……」
別れが辛いから、いつか来なくなるくらいならもう来ないでと思っていたのに、もうそんなこと思えない。
「また、来てくれる?」
「もちろん。ずっと来るつもりです」
縋るようなわたしの言葉に、彼の言葉はとても安心した。
「実は、貯金をしているんです」
彼が言った。
「あら、何か買うんですか」
「その、貴女さえ良ければ私の元へ来ませんか」
「ぇ……」
整理が追いつかず、数秒……彼の顔を見つめた気がする。穏やかな笑みが、少し心配そうな顔に変わって
「無理にとは言いませんから」
わたしがすぐ返事をしなかったのが悪いんだけれど、こんな時まであなたは気を遣って……。
「いいえ。嫌じゃありません。でも、いいの?」
あなたの元へ行っても。
嘘じゃない?
本当にいいの?
「いいんです。というより、その言葉を言うのは私の方ですよ。私は貴女が、好きですが……よかったんですか? 私で」
ここから出られるなら誰だっていい。
いつかはそんなことも思っていた。でも今は違う。
「あなたがいいんです。わたし……わたしも好きです。春のようなあなたが」
「春……貴女はいつも私を春に例えますが、何故です?」
少し笑って、こちらを見る優しい目。わたしは見つめ返した。
「穏やかで温かくて、素敵な人だからよ。それにわたしは、四季で春が一番好きなの」
「そうですか」
あなたは嬉しそうに笑った。
「何故でしょうね、初めから確かに貴女は綺麗だと思っていましたが、何かに惹かれてしまった。貴女は私を春だと言いますが、私にとっても貴女は春に違いありませんよ。素敵な春、可愛い花です」
そっと握られた手。
「貴女を貰ってもいいですか?」
「もう、好きに貰えばいいじゃないの」
どこまでも真面目な人。
「でも、ちゃんと聞かなくては。私は貴女が大事です。貴女もそうでしょう?」
自分が大事。……そんなこと忘れかけていた。
「……そうですね」
人だ何だと言いながら、結局は人形扱いのわたし達。
けれど、この人はちゃんとわたしを見てくれる。
「大丈夫ですか?」
「ええ、ありがとう……」
声が震える。こぼれた涙を彼は拭ってくれた。
初めてあなたに触れた。初めてあなたに触れてもらった。
口づけというのは、こんなに熱くて甘くて、幸せなものだったのね……。
「迎えに来ます」
「ええ、待ってます」
約束をした。少し怖くても、大丈夫。今度は絶対大丈夫。
だから待ちます。あなたが来るまで信じてここで。
ずっと、望みたかった。でも、望むのが怖かった日々。
「――迎えに来ました」
あなたの声がして。
ようやく、わたしは過去に手を振れる。
「待ちましたか」
「少しだけ」
「すみません」
申し訳なさげに笑うあなた。
「いいえ、いいんです。来てくれましたから」
あなたの横にいられて嬉しい。
「ありがとう、あなた」
「いいえ。私の方こそ」
差し出された手はわたしより少し大きくて、温かい。
「行きましょう」
「ええ」
時折桜の花びらが舞い落ちる、陽気な春の午後。
「今日は暖かい日で良かったですね」
あなたが言う。
「そうね。あなたみたい」
「では冬になっても、私が貴女を温めますよ。ずっと隣で笑顔の花を咲かしてくれるよう」
「ありがとう。ではわたしも目一杯応えます」
こんなに笑顔でいたいと思ったことはない。
「泣きたい時は泣いてくださいね」
やっぱりあなたはそう言うのね。
「そうします。あなたもそうしてくださいね」
「ええ、もちろん」
繋いだ手は、一つになれた喜びのほんの一握り。他にもたくさん幸せはある。これからも、きっとこんな愛しい日が続いていく。でも、わたしは今日のことをきっといつまでも忘れない。
こんなに嬉しい春の日を、わたしはずっと夢見ていた。